ほっとしたそのとき、ふと林の向こうからこちらを眺めているイタチがいることに気づく。
「あれは……」
メスのカマイタチより一回り大きい褐色のイタチは、右腕に湾曲した刃がついている。
まさか、と思ったとき、カマイタチが声を上げた。
「あんた……⁉ どうして、ここに……」
その声に駆け寄ってきたカマのあるイタチは、おどおどと私たちに目を配りつつ、巣の傍に腰を下ろした。赤ちゃんの顔を眺めながら、ぼそぼそと口を開く。
「ただいま……。そのう、そろそろ産まれた頃じゃないかと思って……」
「なんだい、今頃戻ってきて! わたしがどんなに大変な思いをしたかわかってるのかい⁉」
「うん、その……すまなかった。やっぱり俺にはおまえしかいない。また一緒にやっていこう」
「なんだい、調子のいいこと言って……」
泣き出してしまったメスのカマイタチの隣に寄り添い、オスのカマイタチは宥めるように背をさする。
どうやら、ふたりはつがいのようだ。一度は別れたものの、思い直した旦那さんは戻ってきてくれたらしい。
今まではひとりきりで子育てをしていたけれど、これからはふたりで赤ちゃんを育てていけるだろう。
柊夜さんは、そっと私を促した。
「行こう。もう大丈夫のようだ。夫婦の痴話喧嘩に他人が水を差すのは、野暮だからな」
微笑んだ私は柊夜さんとともに河原を離れる。ヤシャネコも足音を立てずに、あとに続いた。
河原沿いの遊歩道は午後の温かな陽射しが溢れている。爽やかな風が吹き、鮮やかな萌葱色の葉をさわさわと揺らした。
「よかったですね。お父さんが帰ってきてくれて」
「ああ。これでメスのカマイタチの憂慮もなくなるだろう。若干頼りなさそうなオスではあるが、赤子たちの父親だからな。これからはふたりで巣を守れる」
「柊夜さんは罰を与えるなんて言って、本当はカマイタチの赤ちゃんを守ろうとしてくれたんですね」
「ん……? さあ、どうかな」
照れくさそうに顔を背けた柊夜さんは、すいと私の手を握った。
柊夜さんって、可愛いところあるかも……。
くすりと微笑んだ私は、つながれた掌から伝わるひんやりとした感触の心地好さに安堵する。
「マンションの周囲にも結界は張ってあるが、メスのカマイタチのように殺意に乏しく、妖力の低いあやかしは通り抜けてしまうという難点がある。そのためにヤシャネコに見張らせているわけだが、今後はより結界の精度を上げるとしよう」
「申し訳ありませんでしたにゃん、夜叉さま」
頭を垂れるヤシャネコに、柊夜さんは鷹揚に告げた。
「よい。今回は事なきを得たが、次にはソラミズチのようなあやかしが現れるかもしれない。引き続き、あかりの警護を頼むぞ」
「心得ましたにゃん! 早速、結界のまわりを散歩してきますにゃ」
ヤシャネコは散歩と称し、結界の周辺を見回っていてくれたのだ。
駆けていく小さな体を見送りながら、私はぽつりと訊ねた。
「うちのまわりにも、結界を張っておいてくれたんですね」
「当然だ。俺が会社にいる間に強力なあやかしが現れたら、ヤシャネコだけでは対応しきれないからな」
柊夜さんは常に私を守ってくれているのだ。正確には、お腹にいる赤ちゃんをだけれど。
ふと彼は言葉を継いだ。
「そういえば、あかりはいつまでも俺に対しては敬語を使うが、ずっとそのままなのかな?」
「ええと……急に変えるのは難しいし、会社では上司なので、このままですね」
その返答に、ふっと笑った柊夜さんの笑みは、穏やかなものだった。
冷徹な鬼上司は笑ったことがないのだろうと以前は思っていたけれど、こんな顔もするのだなと気づかされる。
「まあ、いいけどな。徐々に変わっていけばいい」
変わるのだろうか。かりそめ夫婦の、この関係が。
私はぼんやりと陽の光に煌めく川面を眺めながら、その疑問とは別のことを呟いた。
「柊夜さん。今日の夕ごはんは私が作りますね」
「ん? どうした、急に」
「いつも柊夜さんに作らせてばかりで、悪いなと思いまして」
「気にすることはない。せめて、つわりから回復してからでないと台所に立たせられないよ」
つわりと言われて、はたと気がついた。
朝はあれほど具合が悪かったのに、もうなんともない。
「あれ……? いつの間にか治っちゃいました。もしかして、つわりの期間が終わったのかな」
「それはよかった。だが、また体調を崩したらいけないから、夕ごはんは俺と一緒に作ろう」
「え……柊夜さんと一緒に?」
「そう。俺と、一緒に」
なぜか柊夜さんは『一緒に』という言葉を、甘く低い声音で大切に発した。
こんなふうに語り合いながら、手をつないで、天気のよい日に散歩する。
何でもないようなことだけれど、私の胸は温かなもので満たされていた。
「あれは……」
メスのカマイタチより一回り大きい褐色のイタチは、右腕に湾曲した刃がついている。
まさか、と思ったとき、カマイタチが声を上げた。
「あんた……⁉ どうして、ここに……」
その声に駆け寄ってきたカマのあるイタチは、おどおどと私たちに目を配りつつ、巣の傍に腰を下ろした。赤ちゃんの顔を眺めながら、ぼそぼそと口を開く。
「ただいま……。そのう、そろそろ産まれた頃じゃないかと思って……」
「なんだい、今頃戻ってきて! わたしがどんなに大変な思いをしたかわかってるのかい⁉」
「うん、その……すまなかった。やっぱり俺にはおまえしかいない。また一緒にやっていこう」
「なんだい、調子のいいこと言って……」
泣き出してしまったメスのカマイタチの隣に寄り添い、オスのカマイタチは宥めるように背をさする。
どうやら、ふたりはつがいのようだ。一度は別れたものの、思い直した旦那さんは戻ってきてくれたらしい。
今まではひとりきりで子育てをしていたけれど、これからはふたりで赤ちゃんを育てていけるだろう。
柊夜さんは、そっと私を促した。
「行こう。もう大丈夫のようだ。夫婦の痴話喧嘩に他人が水を差すのは、野暮だからな」
微笑んだ私は柊夜さんとともに河原を離れる。ヤシャネコも足音を立てずに、あとに続いた。
河原沿いの遊歩道は午後の温かな陽射しが溢れている。爽やかな風が吹き、鮮やかな萌葱色の葉をさわさわと揺らした。
「よかったですね。お父さんが帰ってきてくれて」
「ああ。これでメスのカマイタチの憂慮もなくなるだろう。若干頼りなさそうなオスではあるが、赤子たちの父親だからな。これからはふたりで巣を守れる」
「柊夜さんは罰を与えるなんて言って、本当はカマイタチの赤ちゃんを守ろうとしてくれたんですね」
「ん……? さあ、どうかな」
照れくさそうに顔を背けた柊夜さんは、すいと私の手を握った。
柊夜さんって、可愛いところあるかも……。
くすりと微笑んだ私は、つながれた掌から伝わるひんやりとした感触の心地好さに安堵する。
「マンションの周囲にも結界は張ってあるが、メスのカマイタチのように殺意に乏しく、妖力の低いあやかしは通り抜けてしまうという難点がある。そのためにヤシャネコに見張らせているわけだが、今後はより結界の精度を上げるとしよう」
「申し訳ありませんでしたにゃん、夜叉さま」
頭を垂れるヤシャネコに、柊夜さんは鷹揚に告げた。
「よい。今回は事なきを得たが、次にはソラミズチのようなあやかしが現れるかもしれない。引き続き、あかりの警護を頼むぞ」
「心得ましたにゃん! 早速、結界のまわりを散歩してきますにゃ」
ヤシャネコは散歩と称し、結界の周辺を見回っていてくれたのだ。
駆けていく小さな体を見送りながら、私はぽつりと訊ねた。
「うちのまわりにも、結界を張っておいてくれたんですね」
「当然だ。俺が会社にいる間に強力なあやかしが現れたら、ヤシャネコだけでは対応しきれないからな」
柊夜さんは常に私を守ってくれているのだ。正確には、お腹にいる赤ちゃんをだけれど。
ふと彼は言葉を継いだ。
「そういえば、あかりはいつまでも俺に対しては敬語を使うが、ずっとそのままなのかな?」
「ええと……急に変えるのは難しいし、会社では上司なので、このままですね」
その返答に、ふっと笑った柊夜さんの笑みは、穏やかなものだった。
冷徹な鬼上司は笑ったことがないのだろうと以前は思っていたけれど、こんな顔もするのだなと気づかされる。
「まあ、いいけどな。徐々に変わっていけばいい」
変わるのだろうか。かりそめ夫婦の、この関係が。
私はぼんやりと陽の光に煌めく川面を眺めながら、その疑問とは別のことを呟いた。
「柊夜さん。今日の夕ごはんは私が作りますね」
「ん? どうした、急に」
「いつも柊夜さんに作らせてばかりで、悪いなと思いまして」
「気にすることはない。せめて、つわりから回復してからでないと台所に立たせられないよ」
つわりと言われて、はたと気がついた。
朝はあれほど具合が悪かったのに、もうなんともない。
「あれ……? いつの間にか治っちゃいました。もしかして、つわりの期間が終わったのかな」
「それはよかった。だが、また体調を崩したらいけないから、夕ごはんは俺と一緒に作ろう」
「え……柊夜さんと一緒に?」
「そう。俺と、一緒に」
なぜか柊夜さんは『一緒に』という言葉を、甘く低い声音で大切に発した。
こんなふうに語り合いながら、手をつないで、天気のよい日に散歩する。
何でもないようなことだけれど、私の胸は温かなもので満たされていた。



