第一章 1ヶ月 鬼上司と秘密の一夜

 フロアに戻る途中、廊下の隅から聞こえてきた話し声に、ぎくりとして足を止めた。
「あの……それで、お付き合いしてほしいんですけど……」
 か細い声の女性は、私と同じ企画営業部に所属する佐藤さんのものだ。
 どうやら誰かに告白している最中らしい。しかも社内で告白するということは、同じ会社の社員というわけで。
 まずいところに出くわしてしまった。
 私は音を立てないよう慎重にランチバッグを持ち替えて、腕時計を見やる。
 この角を曲がらないと、こちら側からは企画営業部に入れない。かといって、この先に進めば、私の姿が告白している佐藤さんや相手から見えてしまうだろう。
 早く終わってくれないかな……。
 私は廊下の角で、じりじりと相手が返事するのを待った。
 告白が成就して晴れやかな笑顔になった佐藤さんの後ろをついていき、さりげなくデスクに戻ることにしよう。
 そう決めて頷いた私の期待を粉砕する冷酷な声音が降る。
「興味がないんだよね」
 うっ……と、私は息を呑む。
 その有名な決め台詞を放った主は、企画営業部の鬼山課長である。
 鬼山(おにやま)柊(しゅう)夜(や)、二十九歳。怜悧に整った甘いマスクを黒縁眼鏡と長めの前髪で隠している、クールな仕事の鬼。
 常に冷静かつ理屈っぽい、何を考えているのかわからない。そのミステリアスさに惹かれて告白する女子社員はあとを絶たないが、『興味がない』という全否定の台詞でフラれるのがお決まりと化している。
 彼は私がもっとも苦手とする上司だ。
 鬼山課長と付き合いたいという気持ちが理解できないけれど、男が前人未踏の雪山に登りたいのならば、女は難攻不落なイケメンを落とそうと思うものなのだろう。
 冷酷な課長のひとことに、痛々しい沈黙が降りる。
 けれどすぐに佐藤さんの足音が響き、慌てた私は身を引いた。
 そのとき、脇に抱えていた雑誌が、ばさりと音を立てて床に落下してしまう。
「あっ……」
 屈んで拾おうとした刹那、目の前を横切ろうとした佐藤さんが瞠目してこちらを見下ろす。
 非常に気まずい。
 けれど彼女はすぐに顔を背けると、そのままフロアに戻っていった。
 私は雑誌を拾おうと屈んだ体勢のまま、彼女の背を見送る恰好で固まっていた。
 一瞬だけど目が合った佐藤さんの形相は、怒りに満ちていた。課長には何も言わなかった彼女だけれど、心中は失恋の哀しみよりも、怒りや憤りが占めているのだ。
 というか、私が盗み聞きしていたから怒ったのか……。
 そんなつもりじゃなかったのだけれど。
 さらりと、落ちていた雑誌を骨張った男の手が拾い上げる。
 まだ屈んでいる体勢の私の頭部に、ぽんと雑誌が乗せられた。
「盗み聞きとは感心しないね。星野さん」
 全く悪びれない甘い声音を響かせる鬼山課長を、私は頭に乗せられた雑誌に手をやりながら、冷めた目で見やる。
「そんなつもりじゃなかったんですけど。社内の廊下で告白なんかしてたら、誰かが通りかかってもおかしくないですよ」
「まったくだ。ところで、三川不動産の案件だけど、企画書はできたかな?」
「……まだです」
「そうだろうね。あと一時間で完成させてね」
 さらっと吐かれた鬼のような指示に目を見開く。
「一時間ですか⁉ それはちょっと……」
「俺はね、充分待ったよね。でも星野さんの事情も考慮して、譲歩してあげるよ。一時間五分にしよう」
 提出期限が五分だけ延びた……。
 これが譲歩というのだろうか。この無茶苦茶な上司は、己が仕事ができるからといって、部下にも当然のようにそれを課すのである。まさに鬼上司。
 唖然としている私に、鬼山課長は眼鏡のブリッジを押し上げながら、傲慢な指示を重ねた。
「あとね、今日の懇親会は参加してね。星野さんは習い事があるといって毎回不参加だけど、英会話教室をやめたことは知っているから」
「……なんでそんなこと知ってるんですか……」
 自分磨きのためにと始めた英会話教室だったが、そもそも学生時代から英語が不得意だったのに、大人になってから本腰を入れられるはずもなかった。早々に飽きてしまい、三回通っただけでやめてしまったのだ。
 それを会社の飲み会を断る言い訳に使い続けていたのだった。
 そのことは誰にも話していないはずなのに、どうして課長が知っているのだろう。
 鬼山課長は眼鏡の奥の双眸を煌めかせる。
「どうしてだろうね」
 切れ上がった眦、すっと通った鼻梁、薄い唇は形が整っている。酷薄な印象を受けるそれらのパーツが絶妙な融合を果たし、不敵に微笑んだ彼は妖艶な美しさを滲ませた。
「はあ……」
「では、のちほど」
呆然としている私を残して、鬼山課長は長い足を繰り出し、フロアへ戻っていく。
 漆黒のスーツがすらりとした体躯によく似合っていた。
 この鬼上司は顔がいいけれど、スタイルも抜群に良い。肩幅は広めなのに、腰はきゅっと引きしまっており、股下がとてつもなく長い。モデルにしてもおかしくない体型だ。
 天は二物を与えずというが、神様は人間を創造するバランスがどうかしていると思う。
 課長の背中を見送っていた私は、無駄に五分を消費したことに気づかされた。

 必死に企画書を作成した結果、約束した一時間でどうにか仕上げることができた。
 鬼山課長のデスクの前で、私は引きつった笑みを貼りつけながら、書類に目を通している課長の返事を待つ。
 中古マンションをリノベーションして暮らすというテーマのもと、その顧客を獲得するための企画が今回の案件だ。
 企画のイメージはふんわりと頭の中にあり、いろいろとメモを取っていた。企画書の内容は書き連ねている最中で、それを一時間でまとめるというのはなかなかに大変な作業だった。
 悠々とチェアに背を預けている鬼山課長は、片手を顎にやり、考え込むような仕草をしている。
 これ、頭のいい人がやる知的なポーズですよね。
 課長は有名大学を卒業した秀才で、企画営業部の出世頭であるから、そんなポーズも嫌味を通り越してさまになっている。
 果たして企画書は無事に通るのだろうか。
 先程の告白現場に遭遇してしまった気まずさもあり、さっさと課長の前を去りたい。私の耐久が限界近くに達したそのとき。
「星野さん、これね」
「はいっ」
 ぴんと背を正し、課長の言葉を待ち受ける。
 私を見上げる鬼山課長の目線には何の感情も含まれていないように見える。仕事に生きる冷徹な鬼上司そのもの。よって企画書が通るのかどうかは、課長の発言を聞くまで不明だ。
 鬼山課長は甘さを含んだ低音の声音で、淡々と述べた。
「おひとりさまの女性をターゲットにして、料理教室を兼ねた見学会を開くという方向性は悪くないんだけどね。今回の案件はリノベーションを前提にしているから、料理を推奨するだけならリノベの意義に欠けるんじゃないかな」
「……そうかもしれませんが、自分の理想の部屋づくりをしようとDIYを推奨するのは女性には敷居が高いかと思いましたので、女性に馴染みやすい料理教室の開催をイベントとして付加してみました」
 古民家や中古マンションを買い取り、リノベーションして自分好みの家に住むという選択肢がある。どうせ家を買うなら新築のほうがよいわけであり、わざわざ中古物件を購入してリノベしたいという人は少数派だ。それをいかにしてお客様に興味を持っていただくかというための企画イベントである。