夜叉の鬼神と身籠り政略結婚~花嫁は鬼の子を宿して~

 室内に飛び込んだ俊足の影は、カマイタチに覆い被さった。
「ニギャー!」
 黒い影と思ったものは、ヤシャネコだ。
 双方は絡み合い、ぐるぐると回りながら攻撃を繰り出した。
 褐色のカマイタチと漆黒のヤシャネコが回転してバターのように溶け合う。合間には、「ギャギャギャ!」という威嚇の声が発せられた。
 呆然としていた私は、はっと我に返り、止めに入る。
「やめて、ヤシャネコ!」
 その言葉に、ぴたりとヤシャネコは攻撃をやめた。
 ヒィヒィと細い悲鳴を零しながら、カマイタチはよろよろと逃げ去っていく。
「あかりん、どうして止めるにゃん⁉ あいつはお腹の赤ちゃんを食べようとしてたにゃん!」
「違うの! カマイタチは私を襲おうとはしなかったよ。私が頼りない花嫁だから、いろいろ教えてあげようと思ったらしいの」
「そんなわけないにゃん! メスのカマイタチだって危険にゃ。あかりんはあやかしのこと、わかってないにゃ!」
「でも……」
 あやかしのことを何もわかっていない。無知。
 ヤシャネコにもそのことを指摘され、叩きのめされた私は肩を落とした。
 私だって、あやかしに関わりたかったわけじゃないのに……。
 がっかりしてソファに腰を下ろし、項垂れる。
 そんな私の様子を目にしたヤシャネコは、しゅんとして小さくなった。
「怒ってごめんにゃ……。でも、おいら、あかりんと赤ちゃんを守るのが役目にゃ」
「うん……そうだね。もうカマイタチは帰ったみたいだから大丈夫だよ」
 そのとき、スマホから呼び出し音が鳴り響く。
 画面を確認すると、電話をかけてきたのは柊夜さんだった。
 そういえば連絡すると言っていたっけ。
「もしもし、柊夜さん?」
『あかり、起きていたのか。具合はどうだ。何か食べたか。変わったことはないか?』
「えっと……」
 矢継ぎ早に質問されて答えに詰まる。
 今のカマイタチのことを話すべきだろうか。
 迷っていると、私の膝に飛び乗ってきたヤシャネコが、スマホに向かって訴えかけた。
「大変にゃ、夜叉さま! たった今、あかりんはカマイタチに襲われたにゃ!」
『なんだと⁉ 怪我は?』
 柊夜さんの声に切迫したものが混じる。
 私は慌ててヤシャネコを窘めつつ訂正した。
「ちょっと、ヤシャネコ。大げさに言わないでよ。襲われたわけじゃないから」
「襲われたにゃん! お腹を切られたにゃん!」
「切られてないってば。スウェットがちょっと爪で裂けただけで……あ……」
 スマホは、すでに通話が切れたことを表示させていた。柊夜さんが通話を切ったのだ。
 今の絶対、誤解されたよね……?
 私はスマホを下ろして溜息を吐く。
「どうするの、ヤシャネコ……。柊夜さんの脳内では私が血だらけになってるんじゃない?」
「おいらはありのままを言ったにゃ。嘘じゃないにゃん」
 つん、とそっぽを向いたヤシャネコはソファから飛び降りると、ぺろぺろと手を舐め始める。
 今夜、仕事を終えて帰宅した柊夜さんから何を言われるか、想像するだけで今から戦慄する。
 とりあえずは喉が渇いたので水分補給をしよう。
 テーブルに置いていってくれたゼリー飲料を手にした私は、キャップを開けてそれを啜った。喉ごしのよい液体が乾いた体に染み渡る。
「くどくどお説教されそうだよね。柊夜さんってば同じこと何回も言うし、しつこいからなぁ。仕事ではそんなことなかったから、人の素顔は意外性に満ちてるよね。……あ、人じゃなくて鬼神か」
 そんなことを呟きながら、片手でテレビのリモコンを握る。
 お昼のワイドショーは芸能人のゴシップネタで盛り上がっていた。
 ちらりと床を見やると、ヤシャネコは日の当たるところで寝そべっている。
 今日はお天気がよいので昼寝が気持ちいいだろう。午前中に仮眠を取った私は目が覚めている。
「ふーん、元アイドルがデキ婚かぁ。私だってデキ婚だよ。期間限定だけど……」
 ぼんやりとテレビを眺めつつ、次にスポーツドリンクを飲んだ。
 数ヶ月前はこんなことになるなんて予想もしなかったな、なんて思いながら。
 つわりで食欲のない私のために、柊夜さんはあっさりして栄養の取れるものを用意してくれる。料理はもちろん、掃除や洗濯に至るまで家事はすべて彼の担当だ。
 ここは柊夜さんのマンションなので、ひとり暮らしをしていたときの延長といえばそうなのだけれど、私にも何か手伝えないかなと思い始めていた。
 それに……あやかしのことも、いろいろと教えてほしい。
 柊夜さんは、「俺の傍にいれば大丈夫だ」という言葉を繰り返すだけで、あやかしや鬼神について詳しいことを教えてくれない。
「今日の夕飯は私が作ろうかな……。今までつわりで、まともに食卓を囲んでなかっ……」
 独りごちていたそのとき、玄関扉がガタガタッと激しい音を立てる。
「えっ⁉ な、なに⁉」
 驚いて腰を浮かせると、血相を変えた柊夜さんが部屋に飛び込んできた。
 なんともう帰ってきてしまうとは。
「あかり! 無事か⁉」
 鞄を放り出した柊夜さんは私のお腹に飛びつくようにして身を屈める。大きな掌でスウェットを撫で回すと、生地を捲り上げてきた。
「ちょ、ちょっと柊夜さん! やめてよ!」
「怪我はないようだな。切られたのは生地のみか。腹の子は無事か。どこも痛くないか?」
 ふっくらとしてきたお腹を、柊夜さんは真剣な表情で撫で回す。慌てて引き剥がそうとするが、強靱な肩はびくともしない。
 素肌を触られるなんて、初めてお泊まりした夜以来なので恥ずかしくてたまらない。
 怪我がないことを確認した柊夜さんは、ふうと一息つくと、身を縮めているヤシャネコを振り返った。
「ヤシャネコ。おまえがついていながら、どういうことだ」
「も、申し訳ありにゃせん!」
 地を這うような低い声に怯えたヤシャネコは、がたがたと震えている。
 私はヤシャネコを庇うように立ち塞がった。
「ヤシャネコを責めないであげて。襲われたんじゃないの。カマイタチは何も知らない私にあやかしのことを教えにきてくれたんです」
 柊夜さんは訝しげに双眸を眇めた。その隙に私はさりげなく体を離して、捲り上げられていたスウェットを元に戻す。
「ふむ……。そのカマイタチはどこへ行った?」
「あ……ヤシャネコと絡み合ってからすぐに出ていったけど、どこかまでは……」
 あのカマイタチは、鼻先にごちそうを置かれているくらい神気を感じると話していた。
 ということは、この近所に住処があるのではないだろうか。
「私、ちょっと探してきます」
 彼女の戸惑う様子には、何か事情があるのではないかと思わせた。
 急ぎ寝室に入ってスウェットからワンピースに着替える。お腹が冷えないよう、厚手のレギンスも穿いた。
「待ちたまえ」
「堂々と寝室に入ってこないでもらえます⁉ 着替えてるんですけど!」
「俺たちは夫婦だ。何も問題ない」
「かりそめ夫婦ですから!」
「それはともかく、カマイタチを探すのなら俺も行こう。その切り裂き方から察するにメスのようだが、きみをひとりきりで行かせるなど許可できない」
「はあ……いいですけど」