ヤシャネコも見えなくなり、話せなくなる。
この日常は去り、もとのおひとりさまの人生に戻るだけだ。
「なんか憂鬱になってきちゃったな……寝よう……」
体調がよくなれば、気分も向上するはずだ。
瞼を閉じて、うつらうつらと夢と現実の境目を漂う。
ふと、私は暗闇の中にいることに気がついた。
ここはどこだろう。
両手でもがくけれど、手には何も触れない。眼前に広がるのは暗闇ばかり。
「柊夜さん……どこ……」
不安になって柊夜さんの名を呼ぶけれど、彼は現れてくれない。
見放されたのかな?
私が、出産を終えたから……。
はっとしてお腹を触ると、そこは妊娠前と同じくらいにぺったんこだった。
「えっ⁉ 私、もう産んだの?」
赤ちゃんはどこへ行ってしまったんだろう。
連れていかないで、私の赤ちゃん。
泣きそうになり顔を歪めたとき、ふっと明かりが灯る。
その輝きはどんどん大きくなる。まるでトンネルの向こう側には、昼の世界が広がっているように。
トンネルをくぐり抜けて、ひとりの男の子が駆けてきた。
見たことのない子だ。誰だろう。
その子の顔立ちをよく見ると、眦が切れ上がり、意志の強そうな印象を受けた。黒髪で瞳も黒い。年齢は六歳くらいだろうか。
彼はポケットから、ハンカチを取り出した。
青い蝶が描かれた柄のハンカチを、自分の手首に巻こうとしている。
「怪我をしたの? 見せてみて」
声をかけて手を伸ばすと、彼は嫌がることもなく、私にハンカチを渡して任せてくれた。
このハンカチは……私のものだ。
どうしてこの子が持っていたのだろう。
不思議に思いながらも彼の手首を確認する。そこに傷などは見られなかった。
「怪我はしていないみたい。痛いところはある?」
顔を覗き込むと、その子も私を覗き込んできた。
奇妙な感覚に襲われる。
私は、この子のことを、知っている……。
彼の瞳の奥に、真紅の焔が帯びているのを見て取った。
そのとき、はっとしたその子が後ろを振り向く。
「え……どうしたの? 何もいないよ?」
暗闇しかないのだ。
突然、彼はその場で足踏みを始めた。
タタン、タタン……タン、タン、タン……。
彼がリズムを刻むたびに、私の体に振動が起こる。
お腹が、揺れてる……?
その振動により、くらりとして意識が浮上した。
「……はっ!」
覚醒して瞼を開く。
握りしめていたスマホの時刻を見やると、柊夜さんが出社してから二時間ほどが経過していた。どうやら夢を見ていたらしい。
「なんだ……夢かぁ……」
深い息を吐いてお腹をさすると、そこには眠りにつく前と同じように、ふっくらとお腹が膨れていた。夢の中では出産していたようだけれど、ちゃんと赤ちゃんはここにいる。
不安になっていたから、あんな夢を見てしまったのだ
あの男の子は、何者だったのだろう。私が生み出した妄想だろうか。
そのとき、ふとこちらに忍び寄る影が目の端に映る。
「ヤシャネコ? 帰ってきたの?」
ごく小さな影は、声をかけたら扉の陰に引っ込んだ。
どうしたのだろう。
私はソファを下りて、廊下へと続く扉に近づく。
すると、突然飛び出してきた影が襲いかかってきた。
「きゃあっ!」
思わず悲鳴を上げたが、次の瞬間、ふと冷静になり目線を下に向ける。
スウェットにしがみついた小動物は、ぶらんと私のお腹から垂れ下がっていた。
胴と尻尾がとても長くて、毛の色は茶色だ。耳は丸くて小さい。
「え……猫……じゃないよね」
ひょいと胴を抱えてみると、しがみつかれていたため鋭い爪が引っかかり、スウェットの一部が千切れた。
目を合わせてみると、つぶらな小さな目は怯えていた。
「ひいい……お、おゆるしください。ほんのできごころなのです」
「えっ⁉ 喋れるということは……あなたは、あやかしなの?」
「そうです。見てのとおり、カマイタチでございます」
けろりとして名乗ってくれたその動物は、有名なあやかしであるカマイタチらしい。
見てのとおりと言われても、その容貌からは全く凶暴さを感じない。
可愛らしくて優しい顔立ちをしているし、私が軽々と持てるくらい小柄だ。カマイタチ特有の爪はといえば、猫より少々長いかなという程度。
喋れることを除けば、おそらく本物のイタチとそう変わらないのではないだろうか。
「これが伝説のカマイタチ……? 爪がカマになっていないけど」
「わたしはメスですからね。オスと違って立派なカマはないのです」
「へえ、そうなんだ」
「……あの、下ろしてもらっていいですか? 地面に足がついてないと不安になりますので」
「あ、ごめんなさい」
すとん、と床にカマイタチを下ろす。
腰に手を当てた彼女は、とんとんと足で床を叩き、リズムを刻む。
「花嫁さまは無知なのですねえ。もしかして、あやかしのことを何もご存じない?」
「えっ……まあ、ほとんど知らないかな。今まで会ったことのあるあやかしは、ヤシャネコ、ソラミズチ……とか」
「それだけですか⁉」
「ええ、まあ」
「鬼神の花嫁だというのに、なんということでしょう! そんなに物知らずではお腹の子を守れませんよ」
「そう……かな?」
突然のカマイタチのお説教に、たじろぐ。
どうやらカマイタチは私たちの事情を知っているようだ。
飛びかかられたので、もしかしてソラミズチのときのように、お腹の赤ちゃんを狙ったのかと一瞬思ったけれど、新米花嫁である私に助言をしに来たらしい。
「カマイタチは私の赤ちゃんを守るために来てくれたのね。襲われたと思ったから、びっくりしちゃった」
ほっとして述べると、カマイタチはきょとんとして、つぶらな目をぱちぱちと瞬かせた。
「あぅ……その……それはもう。鬼神の神気は、そのお腹からすごい量が発せられていますよ。わたしたちあやかしが鬼神の赤子を喰らえば、神に等しい力を手に入れることができます。だから花嫁さまはあやかしに狙われてしまうのですよ。鬼神がいない今などは特に……」
「なるほど。神気が出てるなんて私には全然感じないけど、そういうわけなのね。ということは周辺にいるあやかしは、ここに鬼神の赤子がいるってすぐに気づいちゃうんだ」
「それはもう、鼻先にごちそうを置かれているほどの耐えがたい誘惑です。でもまさか花嫁さまが人間で、しかもこんなに無防備だとは思わず……わたしは……」
戸惑いをみせたカマイタチは、もふもふの両手を擦り合わせている。
何か迷いがあるようだけれど、どうしたのだろう。
そのとき、ひゅっと黒い物体が飛来する。
この日常は去り、もとのおひとりさまの人生に戻るだけだ。
「なんか憂鬱になってきちゃったな……寝よう……」
体調がよくなれば、気分も向上するはずだ。
瞼を閉じて、うつらうつらと夢と現実の境目を漂う。
ふと、私は暗闇の中にいることに気がついた。
ここはどこだろう。
両手でもがくけれど、手には何も触れない。眼前に広がるのは暗闇ばかり。
「柊夜さん……どこ……」
不安になって柊夜さんの名を呼ぶけれど、彼は現れてくれない。
見放されたのかな?
私が、出産を終えたから……。
はっとしてお腹を触ると、そこは妊娠前と同じくらいにぺったんこだった。
「えっ⁉ 私、もう産んだの?」
赤ちゃんはどこへ行ってしまったんだろう。
連れていかないで、私の赤ちゃん。
泣きそうになり顔を歪めたとき、ふっと明かりが灯る。
その輝きはどんどん大きくなる。まるでトンネルの向こう側には、昼の世界が広がっているように。
トンネルをくぐり抜けて、ひとりの男の子が駆けてきた。
見たことのない子だ。誰だろう。
その子の顔立ちをよく見ると、眦が切れ上がり、意志の強そうな印象を受けた。黒髪で瞳も黒い。年齢は六歳くらいだろうか。
彼はポケットから、ハンカチを取り出した。
青い蝶が描かれた柄のハンカチを、自分の手首に巻こうとしている。
「怪我をしたの? 見せてみて」
声をかけて手を伸ばすと、彼は嫌がることもなく、私にハンカチを渡して任せてくれた。
このハンカチは……私のものだ。
どうしてこの子が持っていたのだろう。
不思議に思いながらも彼の手首を確認する。そこに傷などは見られなかった。
「怪我はしていないみたい。痛いところはある?」
顔を覗き込むと、その子も私を覗き込んできた。
奇妙な感覚に襲われる。
私は、この子のことを、知っている……。
彼の瞳の奥に、真紅の焔が帯びているのを見て取った。
そのとき、はっとしたその子が後ろを振り向く。
「え……どうしたの? 何もいないよ?」
暗闇しかないのだ。
突然、彼はその場で足踏みを始めた。
タタン、タタン……タン、タン、タン……。
彼がリズムを刻むたびに、私の体に振動が起こる。
お腹が、揺れてる……?
その振動により、くらりとして意識が浮上した。
「……はっ!」
覚醒して瞼を開く。
握りしめていたスマホの時刻を見やると、柊夜さんが出社してから二時間ほどが経過していた。どうやら夢を見ていたらしい。
「なんだ……夢かぁ……」
深い息を吐いてお腹をさすると、そこには眠りにつく前と同じように、ふっくらとお腹が膨れていた。夢の中では出産していたようだけれど、ちゃんと赤ちゃんはここにいる。
不安になっていたから、あんな夢を見てしまったのだ
あの男の子は、何者だったのだろう。私が生み出した妄想だろうか。
そのとき、ふとこちらに忍び寄る影が目の端に映る。
「ヤシャネコ? 帰ってきたの?」
ごく小さな影は、声をかけたら扉の陰に引っ込んだ。
どうしたのだろう。
私はソファを下りて、廊下へと続く扉に近づく。
すると、突然飛び出してきた影が襲いかかってきた。
「きゃあっ!」
思わず悲鳴を上げたが、次の瞬間、ふと冷静になり目線を下に向ける。
スウェットにしがみついた小動物は、ぶらんと私のお腹から垂れ下がっていた。
胴と尻尾がとても長くて、毛の色は茶色だ。耳は丸くて小さい。
「え……猫……じゃないよね」
ひょいと胴を抱えてみると、しがみつかれていたため鋭い爪が引っかかり、スウェットの一部が千切れた。
目を合わせてみると、つぶらな小さな目は怯えていた。
「ひいい……お、おゆるしください。ほんのできごころなのです」
「えっ⁉ 喋れるということは……あなたは、あやかしなの?」
「そうです。見てのとおり、カマイタチでございます」
けろりとして名乗ってくれたその動物は、有名なあやかしであるカマイタチらしい。
見てのとおりと言われても、その容貌からは全く凶暴さを感じない。
可愛らしくて優しい顔立ちをしているし、私が軽々と持てるくらい小柄だ。カマイタチ特有の爪はといえば、猫より少々長いかなという程度。
喋れることを除けば、おそらく本物のイタチとそう変わらないのではないだろうか。
「これが伝説のカマイタチ……? 爪がカマになっていないけど」
「わたしはメスですからね。オスと違って立派なカマはないのです」
「へえ、そうなんだ」
「……あの、下ろしてもらっていいですか? 地面に足がついてないと不安になりますので」
「あ、ごめんなさい」
すとん、と床にカマイタチを下ろす。
腰に手を当てた彼女は、とんとんと足で床を叩き、リズムを刻む。
「花嫁さまは無知なのですねえ。もしかして、あやかしのことを何もご存じない?」
「えっ……まあ、ほとんど知らないかな。今まで会ったことのあるあやかしは、ヤシャネコ、ソラミズチ……とか」
「それだけですか⁉」
「ええ、まあ」
「鬼神の花嫁だというのに、なんということでしょう! そんなに物知らずではお腹の子を守れませんよ」
「そう……かな?」
突然のカマイタチのお説教に、たじろぐ。
どうやらカマイタチは私たちの事情を知っているようだ。
飛びかかられたので、もしかしてソラミズチのときのように、お腹の赤ちゃんを狙ったのかと一瞬思ったけれど、新米花嫁である私に助言をしに来たらしい。
「カマイタチは私の赤ちゃんを守るために来てくれたのね。襲われたと思ったから、びっくりしちゃった」
ほっとして述べると、カマイタチはきょとんとして、つぶらな目をぱちぱちと瞬かせた。
「あぅ……その……それはもう。鬼神の神気は、そのお腹からすごい量が発せられていますよ。わたしたちあやかしが鬼神の赤子を喰らえば、神に等しい力を手に入れることができます。だから花嫁さまはあやかしに狙われてしまうのですよ。鬼神がいない今などは特に……」
「なるほど。神気が出てるなんて私には全然感じないけど、そういうわけなのね。ということは周辺にいるあやかしは、ここに鬼神の赤子がいるってすぐに気づいちゃうんだ」
「それはもう、鼻先にごちそうを置かれているほどの耐えがたい誘惑です。でもまさか花嫁さまが人間で、しかもこんなに無防備だとは思わず……わたしは……」
戸惑いをみせたカマイタチは、もふもふの両手を擦り合わせている。
何か迷いがあるようだけれど、どうしたのだろう。
そのとき、ひゅっと黒い物体が飛来する。



