夜叉の鬼神と身籠り政略結婚~花嫁は鬼の子を宿して~

 四章 五ヶ月 過保護な夜叉とカマイタチたちの絆

 若葉が青々と茂り、爽やかな風が心地好い初夏――
 私の体調は絶不調だった。
「ううーん、気持ち悪い……うえぇ」
 妊娠八週を越えた途端に、つわりが始まった。連日、壮絶な食欲不振に襲われている。
 美味しく炊けたごはんの匂いがこれほど異臭に感じる日が訪れるとは予想すらしていなかった。吐き気が止まらなくなるので、炊飯器を開けたら息を止めてしまう。
 耐えきれず炊飯器の蓋を閉じた私は、リビングのソファに横になった。
「あかり、大丈夫かい?」
 心配した柊夜さんが跪いて、額に冷たい掌を当ててくる。
 熱があるわけじゃないので、それは意味がないんですが。
「大丈夫じゃないです……今日も仕事休みます……」
 体調不良により、近頃は有給を消化しまくっている。こんなときに旦那さんが同じ職場だとフォローしてもらえるので便利だ。何しろすべては柊夜さんが原因を作ったわけなので。
 諸悪の根源である鬼神の旦那さまは、タオルケットを持ってくると私の体にふわりとかけた。枕も用意して、頭に宛がってくれる。
「心配だな。俺も仕事を休んで傍に……」
「あ、けっこうです。働いてきてください。ヤシャネコがいるし、何かあったら電話しますから」
 具合が悪くても、さらさらと言いたいことは口から飛び出す。
 柊夜さんにべったり張りつかれると、過剰に世話を焼かれるので大変うっとうしい。
 かりそめ夫婦として共に暮らすことになり、柊夜さんのマンションに引っ越してきてから二ヶ月が経過していた。
 出産予定は秋なので、残り五ヶ月ほどだ。現在は妊娠十七週目である。
 妊娠十六週に入る頃には、つわりが収まるとお医者様はおっしゃっていたけれど、あくまでも個人差があるとのこと。
 しかもお腹の子は、鬼神の血を引いている。
 妊婦健診のたびにエコーに写る胎児はどんどん成長しているが、見る限りふつうの人間と何ら変わりなさそうだ。角が生えていたらどうしよう……などと、こっそり恐れていたけれど、医師は何も言わない。  
 つい数ヶ月前までおひとりさまだった私が妊娠して、旦那さまがいるなんて、世の中とはどうなるかわからないものである。
 柊夜さんは甲斐甲斐しく立ち回り、テーブルにスポーツドリンクやゼリー飲料を置くと、私の手にスマホを握らせた。
「何かあったら必ず連絡するように。何もなくても電話するんだ。いや、こちらからかける」
 眼鏡越しに真剣な眼差しを向けられて、うんざりしながら頷く。
 柊夜さんの過保護は月を重ねるごとにエスカレートしていく。
 傍でお座りしていたヤシャネコが、見かねて声をかけてきた。
「夜叉さま、しつこいにゃ。おいらがいるんだから大丈夫にゃ。そんなにしつこいと、おいらや花嫁さまを信用してないみたいに見えるにゃん」
「そういうわけではない。俺は身重のあかりを案じている。何しろすべてが初めてのことなんだ。体調が安定するまでは油断できない」
「その台詞はもう何回も聞いたにゃ。早くごはん食べて会社に行ってにゃ~」
 しもべのヤシャネコにまで煙たがれる有様である。
 渋々といった体で腰を上げた柊夜さんは素早く朝ごはんを食べると、食器を片付け、ばさりとジャケットを羽織る。そして鞄を……持つ前に私の傍に跪く。
「何かあったら必ず電話を……」
「わかりました。遅刻しますよ。いってらっしゃい」
 何度も繰り返される台詞を遮り、手に持ったスマホをひらひらと振ってみせる。
 彼はじっくりと私の顔を眺めると、ようやく腰を上げた。
「では、いってくる。頼んだぞ、ヤシャネコ」
「お任せくださいにゃん」
 玄関が施錠される音に、私とヤシャネコは同時に溜息を吐いた。
「ちょっと過保護すぎるんじゃない……? ねえ、ヤシャネコ。柊夜さんって、前からあんなにしつこいの?」
 確かに仕事でも話が長いときもあるけれど、説明を理路整然と述べるので、あまりくどいとは感じなかった。それが家では同じ台詞を何度も聞かされる。さすがに、げんなりする。
 会社では完璧なイケメンの鬼山課長は、家では過保護でしつこくて、私の下着を平然と洗濯して干しているわけである。女子社員が知ったら幻滅すること必至だ。
 夫婦って、一緒に住まないとわからないことがたくさんあるんだね……。
 いくら後継者を得るためとはいえ、柊夜さんは些か必死すぎる。
 白い両手を挙げたヤシャネコは、ふるりと首を左右に振った。
「夜叉さまは寡黙な鬼神だったにゃ。きっと花嫁さまのことが大好きだから、心配でしょうがないんだにゃん」
「それちょっと誤解があるから。心配なのはお腹の子だと思うよ。出産したら、私はお役御免なわけだしね」
 あと五ヶ月ほどの契約期間だ。
 幸い、このマンションに引っ越してきて柊夜さんと同居してからは、ソラミズチのような悪いあやかしに狙われていない。鬼神の住処には神気が満ちていて近寄れないのだろうし、ヤシャネコが周辺を警戒してくれていた。
 私の言葉に、ヤシャネコはぽんと手を打つ。
「そっか。花嫁さまがあやかしが見えるのは、赤ちゃんがお腹にいる間だけにゃんね」
「そういうこと。この子さえ産んでしまえば、もうあやかしと関わることも、柊夜さんと同居生活を送ることもないってわけ」
 自分で口にすると、なぜか寂寥感が胸を衝いた。
 五ヶ月後には必ずそうなるはずなのに、私はそれを望んでいたはずなのに、どうして寂しいなんて思うのだろう。
「赤ちゃんが産まれたら、花嫁さまはおいらのこと見えなくなるにゃんね……」
「……うん。そうなるね」
「花嫁さまは、それでいいにゃん?」
 ぽつりと呟かれたヤシャネコの投げかけに、自信なく頷く。
「う……ん。だって、そういう契約だから……」
 あくまでも契約だった。
 柊夜さんが夜叉の後継者を得るためだ。私は借り腹なのだから、産まれた子は鬼神の一族に引き取られる。
 でも、本当にそれでいいのだろうか。
 自分が産んだ子を他人に渡して、素知らぬふりをしていられるのだろうか。
 出産してあやかしが見えなくなれば襲われる心配もなくなるが、同時にヤシャネコの姿も見えなくなる。柊夜さんも後継者さえ手に入れれば、私には部下としてしか接しなくなるだろう。
 すべての縁が切れてしまう。
 そうなって然るべきなのに、訪れる未来を思うと、ひどく胸が軋んだ。
「おいらはさみしいにゃ~。あかりんには、ずっと花嫁さまでいてほしいにゃ。夜叉さまは誰も娶らなかったにゃん。あかりんだけにゃん。おいらも、あかりんのこと好きにゃん」
「ヤシャネコ……」
 ころんころんと、でんぐり返しを繰り返すヤシャネコを見つめる。
 すっかり家族になったヤシャネコは、私のことを『あかりん』と親しみを込めて呼ぶこともあった。そんなふうに言われると、より別れを思い、切なくなってしまう。
 やがて彼は立ち上がると、「散歩に行ってくるにゃ」と言い残し、すうっと扉をすり抜けていった。
 誰もいなくなったリビングには静寂が下りる。私は柊夜さんが宛がってくれた枕に、ぽすんと顔を伏せた。
 ずっと……なんて、無理な話だ。
 赤ちゃんは妊娠十ヶ月で産まれる。
 この子が産まれてしまえば、私はあやかしが見えないただの人間に戻るわけで。
 そうなったら私には、何の価値もない。
 柊夜さんが面倒を見てくれることも、ない。