もしかして、水に化けて蛇口を通って現れただとか……。
けれど目の前にいるのは今時の少年といった風貌の子だ。柊夜さんと同じく、見た目は人間と変わらない。彼はジーンズにパーカーというファッションである。
「八部鬼衆のひとりということは、あなたは柊夜さんと同じ鬼神ということ?」
「そうそう。鬼衆協会に所属してるからね。同僚みたいなもんだよ。もっとも、八人全員が協会に入ってるわけじゃないんだけどさ」
「鬼衆協会? 協会があるの?」
「なぁんだ。夜叉は花嫁に何も話してないんだな」
痛いところを突かれて、私は視線を逸らす。
柊夜さんから鬼神が何たるかについて、詳しいことは聞いていない。そもそも、かりそめ夫婦なのだから知る必要もなく、柊夜さんが教える義務もないと思えた。
立ち上がったヤシャネコは警戒を滲ませて、那伽を見上げた。
「那伽さま。夜叉さまがお留守のときに、勝手に花嫁さまに会われては困りますにゃん」
「何が困るんだよ、ヤシャネコ。人間の彼女には、鬼神のことを知ってもらういい機会じゃないか。どうせ夜叉はこの先も彼女に話さないつもりだろ」
「それは夜叉さまのお考えが……」
「うるせえな。ほれほれ」
絶妙な加減で喉元をくすぐられたヤシャネコはたまらずにゴロゴロと喉を鳴らし、ころりとひっくり返ってお腹を見せた。これは完敗だ。
那伽はふかふかのお腹を撫でながら、私に目を向ける。
「八部鬼衆は持国天の眷属である乾闥婆(けんだつば)と毘舎闍(びしゃじゃ)。増長天の眷属、鳩槃荼(くばんだ)と薜茘(へいれい)多(た)。広目天の眷属、那伽と富單那(ふたんな)。そして多聞天の眷属、夜叉と羅刹で成り立っているんだ。鬼衆協会は四天王を長として、八部鬼衆が現世に住まうあやかしたちを統率するために発足した。まあ、要するにトラブル処理班ってところだな。あやかしが人間に迷惑をかけないで共存するために、問題を起こしたら協会から命を受けた俺たちが派遣されるわけだ」
「そうなのね」
「ところが、そう上手くはいかないわけだ。鬼神っていうのはそもそも気位が高いし、群れるのが嫌いでね。いくら勧めても、協会に所属しない鬼神もいる。オレは父さんから那伽の名を受け継いだから、すんなり協会の仕事を受け入れられたけどさ。要するに、常時人手不足ってわけ」
那伽の話を聞いて、私は鬼衆協会の内情を察した。
ソラミズチのような凶悪なあやかしと戦うためにはやはり、鬼神の血を引く強い人員が必要なのに違いない。那伽自身も、父親からの継承だと言うのだから。
私は自らのお腹に手をやる。
この子は協会の人員を補うために産まれるというのだろうか。
「ということは……夜叉の子が産まれたら、鬼衆協会の一員になるということだよね」
「たぶんね。でもそれは多聞天が決めるんじゃないかな。オレには妹がいるんだけど、あやかしが全然見えないんだ。ふつうの人間と同じで、水も操れない。だから個人の能力によるとしか言えないな」
「そう……」
「でもきっと、そのお腹の子は神気が高いと思うよ。オレにも感じるもん。花嫁から漲る、すごい神気をね」
「えっ⁉」
私には全くわからないが、お腹の子は優れた神気の持ち主らしい。それはそれで困るというか、複雑なところだ。
そのとき玄関先で物音がした。
現れた柊夜さんは殺気を漲らせている。眼鏡の奥から覗く彼の視線は、那伽に向けられていた。
「那伽か。何の用だ」
「夜叉の花嫁に挨拶さ。オレに何にも言ってくれないもんな。夜叉の後継者が産まれるって、協会から聞いてるよ」
ヤシャネコの胴を持ち上げて、ぶらんと吊り下げた那伽は悪びれずに答えた。
同じ鬼衆協会のメンバーとして一緒に仕事をすることもあるのかもしれないが、柊夜さんのほうは那伽の来訪を快く思っていないことが窺える。
「すぐに帰れ。俺の花嫁に、いらぬことを吹き込むな」
『俺の花嫁』と言われてなぜか、どきりと胸が弾んでしまったけれど、状況は穏やかではない。私は慌てて言い募った。
「那伽から、鬼衆協会について教えてもらっていたんです。柊夜さんはあやかしのトラブル解決をする仕事もこなしていたんですね」
嘆息を零した柊夜さんに、私はひっそりと心を沈ませる。
彼は、私が鬼神の世界に関わることをよしとしていないのだ。
やはり、後継者のみを欲しているのだろう。私とはかりそめ夫婦なのだから、余計な情報を人間の女に知られたくないということだ。
「鬼衆協会の仕事については鬼神としての義務だ。きみの身の安全は守る。協会については口出し無用だ」
「わかってますよ」
「那伽とは異なる眷属だが、彼は協力的な鬼神のひとりだ。指導という目的で、俺は彼と仕事をこなすこともある。だが、きみと仲良くする必要はない」
「わかりましたってば……」
柊夜さんの懇々とした説明に些かうんざりしつつ返事をする。
人間の私に、あちらの世界については関わるなと言いたいんですよね。本当にしつこいんだから。
立ち上がった那伽は、ひょいと私の胸にヤシャネコを預ける。私はもふもふの体を抱き留めた。
「というわけで、こわーい夜叉が帰ってきたことだし、オレはここらでおいとまするよ」
「さっさと帰れ。用がない限り、ここには来るな。いや、用があっても来るな」
「へいへい。広目天には報告しておくから。夜叉の後継者は順調に育っていて、人間の花嫁は可愛いってね」
ひらりと手を振った那伽は玄関へ向かっていく。
玄関扉が閉まる音を聞いた柊夜さんは、重い溜息を吐いた。
「やれやれ……。あいつは若い鬼神だから、俺たちに気さくに接してくるが、だからといって気を許すなよ」
「どうしてですか? 彼はごくふつうの少年に見えますよね。悪い子じゃないみたい」
ソファに座った柊夜さんは、ヤシャネコを撫でる私をちらりと見やる。
「協会などがあるから思い違いをされるかもしれないが、鬼神たちの仲は決してよくない。我々は協力者ではない。互いに仇なす者だ。きみもいずれ、夜叉の花嫁という冠が重荷になるだろう。そうならないうちに、早く出産して子を手放すといい」
柊夜さんのその台詞が私の心の奥底に、零した墨のごとく無残に広がる。
彼は、諦めているのだと察した。
相手と理解し合うことを。
そして、私とも。
かりそめ夫婦以上の関係になることを、彼は初めから諦め、拒んでいる。
それは鬼神としての経験からくるものなのだろうか。そうだとしたら、私が柊夜さんの孤独を変えたいと願うのは、傲慢だろうか。
私は乾いた声音で返答した。
「はい……。まずは無事に出産しないとですね」
「……ああ。そのとおりだ」
いずれ、夜叉の花嫁という冠が重荷になる。
その言葉の意味はよくわからないけれど、こんな私でも、柊夜さんの役に立てることがあればいいのに。
この孤独な夜叉の傍に、ずっといられたらいいのに。
そう私は思い始めていた。
けれど目の前にいるのは今時の少年といった風貌の子だ。柊夜さんと同じく、見た目は人間と変わらない。彼はジーンズにパーカーというファッションである。
「八部鬼衆のひとりということは、あなたは柊夜さんと同じ鬼神ということ?」
「そうそう。鬼衆協会に所属してるからね。同僚みたいなもんだよ。もっとも、八人全員が協会に入ってるわけじゃないんだけどさ」
「鬼衆協会? 協会があるの?」
「なぁんだ。夜叉は花嫁に何も話してないんだな」
痛いところを突かれて、私は視線を逸らす。
柊夜さんから鬼神が何たるかについて、詳しいことは聞いていない。そもそも、かりそめ夫婦なのだから知る必要もなく、柊夜さんが教える義務もないと思えた。
立ち上がったヤシャネコは警戒を滲ませて、那伽を見上げた。
「那伽さま。夜叉さまがお留守のときに、勝手に花嫁さまに会われては困りますにゃん」
「何が困るんだよ、ヤシャネコ。人間の彼女には、鬼神のことを知ってもらういい機会じゃないか。どうせ夜叉はこの先も彼女に話さないつもりだろ」
「それは夜叉さまのお考えが……」
「うるせえな。ほれほれ」
絶妙な加減で喉元をくすぐられたヤシャネコはたまらずにゴロゴロと喉を鳴らし、ころりとひっくり返ってお腹を見せた。これは完敗だ。
那伽はふかふかのお腹を撫でながら、私に目を向ける。
「八部鬼衆は持国天の眷属である乾闥婆(けんだつば)と毘舎闍(びしゃじゃ)。増長天の眷属、鳩槃荼(くばんだ)と薜茘(へいれい)多(た)。広目天の眷属、那伽と富單那(ふたんな)。そして多聞天の眷属、夜叉と羅刹で成り立っているんだ。鬼衆協会は四天王を長として、八部鬼衆が現世に住まうあやかしたちを統率するために発足した。まあ、要するにトラブル処理班ってところだな。あやかしが人間に迷惑をかけないで共存するために、問題を起こしたら協会から命を受けた俺たちが派遣されるわけだ」
「そうなのね」
「ところが、そう上手くはいかないわけだ。鬼神っていうのはそもそも気位が高いし、群れるのが嫌いでね。いくら勧めても、協会に所属しない鬼神もいる。オレは父さんから那伽の名を受け継いだから、すんなり協会の仕事を受け入れられたけどさ。要するに、常時人手不足ってわけ」
那伽の話を聞いて、私は鬼衆協会の内情を察した。
ソラミズチのような凶悪なあやかしと戦うためにはやはり、鬼神の血を引く強い人員が必要なのに違いない。那伽自身も、父親からの継承だと言うのだから。
私は自らのお腹に手をやる。
この子は協会の人員を補うために産まれるというのだろうか。
「ということは……夜叉の子が産まれたら、鬼衆協会の一員になるということだよね」
「たぶんね。でもそれは多聞天が決めるんじゃないかな。オレには妹がいるんだけど、あやかしが全然見えないんだ。ふつうの人間と同じで、水も操れない。だから個人の能力によるとしか言えないな」
「そう……」
「でもきっと、そのお腹の子は神気が高いと思うよ。オレにも感じるもん。花嫁から漲る、すごい神気をね」
「えっ⁉」
私には全くわからないが、お腹の子は優れた神気の持ち主らしい。それはそれで困るというか、複雑なところだ。
そのとき玄関先で物音がした。
現れた柊夜さんは殺気を漲らせている。眼鏡の奥から覗く彼の視線は、那伽に向けられていた。
「那伽か。何の用だ」
「夜叉の花嫁に挨拶さ。オレに何にも言ってくれないもんな。夜叉の後継者が産まれるって、協会から聞いてるよ」
ヤシャネコの胴を持ち上げて、ぶらんと吊り下げた那伽は悪びれずに答えた。
同じ鬼衆協会のメンバーとして一緒に仕事をすることもあるのかもしれないが、柊夜さんのほうは那伽の来訪を快く思っていないことが窺える。
「すぐに帰れ。俺の花嫁に、いらぬことを吹き込むな」
『俺の花嫁』と言われてなぜか、どきりと胸が弾んでしまったけれど、状況は穏やかではない。私は慌てて言い募った。
「那伽から、鬼衆協会について教えてもらっていたんです。柊夜さんはあやかしのトラブル解決をする仕事もこなしていたんですね」
嘆息を零した柊夜さんに、私はひっそりと心を沈ませる。
彼は、私が鬼神の世界に関わることをよしとしていないのだ。
やはり、後継者のみを欲しているのだろう。私とはかりそめ夫婦なのだから、余計な情報を人間の女に知られたくないということだ。
「鬼衆協会の仕事については鬼神としての義務だ。きみの身の安全は守る。協会については口出し無用だ」
「わかってますよ」
「那伽とは異なる眷属だが、彼は協力的な鬼神のひとりだ。指導という目的で、俺は彼と仕事をこなすこともある。だが、きみと仲良くする必要はない」
「わかりましたってば……」
柊夜さんの懇々とした説明に些かうんざりしつつ返事をする。
人間の私に、あちらの世界については関わるなと言いたいんですよね。本当にしつこいんだから。
立ち上がった那伽は、ひょいと私の胸にヤシャネコを預ける。私はもふもふの体を抱き留めた。
「というわけで、こわーい夜叉が帰ってきたことだし、オレはここらでおいとまするよ」
「さっさと帰れ。用がない限り、ここには来るな。いや、用があっても来るな」
「へいへい。広目天には報告しておくから。夜叉の後継者は順調に育っていて、人間の花嫁は可愛いってね」
ひらりと手を振った那伽は玄関へ向かっていく。
玄関扉が閉まる音を聞いた柊夜さんは、重い溜息を吐いた。
「やれやれ……。あいつは若い鬼神だから、俺たちに気さくに接してくるが、だからといって気を許すなよ」
「どうしてですか? 彼はごくふつうの少年に見えますよね。悪い子じゃないみたい」
ソファに座った柊夜さんは、ヤシャネコを撫でる私をちらりと見やる。
「協会などがあるから思い違いをされるかもしれないが、鬼神たちの仲は決してよくない。我々は協力者ではない。互いに仇なす者だ。きみもいずれ、夜叉の花嫁という冠が重荷になるだろう。そうならないうちに、早く出産して子を手放すといい」
柊夜さんのその台詞が私の心の奥底に、零した墨のごとく無残に広がる。
彼は、諦めているのだと察した。
相手と理解し合うことを。
そして、私とも。
かりそめ夫婦以上の関係になることを、彼は初めから諦め、拒んでいる。
それは鬼神としての経験からくるものなのだろうか。そうだとしたら、私が柊夜さんの孤独を変えたいと願うのは、傲慢だろうか。
私は乾いた声音で返答した。
「はい……。まずは無事に出産しないとですね」
「……ああ。そのとおりだ」
いずれ、夜叉の花嫁という冠が重荷になる。
その言葉の意味はよくわからないけれど、こんな私でも、柊夜さんの役に立てることがあればいいのに。
この孤独な夜叉の傍に、ずっといられたらいいのに。
そう私は思い始めていた。



