隣にいた柊夜さんは平静にヤシャネコと名乗った黒猫に声をかけた。
「ご苦労だったな、ヤシャネコ。もうこのアパートは見張らなくていい。今日限りで退去する」
「ほーい。ってことは、花嫁さまは夜叉さまと一緒に暮らすんだにゃ」
「そうだ。今後はマンションの周辺を見張ってくれ。特に俺がいないときに、あかりの身を守ってほしい」
「お任せくださいにゃん!」
白の手袋を嵌めたような手を胸に当てるヤシャネコは、とても頼もしく見える。
ふたりのやり取りを聞いた私は、目を瞬かせた。
「あのう……この子はふつうの猫じゃなかったんですね。柊夜さんの知り合いだったんですか」
「そうだ。ヤシャネコはあやかしだから、人間には見えていない。野良ではなく、夜叉の眷属なので身元は確かだ。あかりが悪いあやかしに襲われないよう、彼を派遣して見張らせていたのだ」
そういえば、階段下の茂みに黒い影が這っていたとき、この子が追い払ってくれたことを思い出す。ほかの住人たちが何も言わなかったのも、あやかしなので見えていなかったからなのだ。
柊夜さんは言葉を継いだ。
「ヤシャネコは夜叉に仕えるために生まれたという誇りを持っている。そこらの悪いあやかしとは違う。とても頼れる存在だ」
柊夜さんの褒め言葉に、ヤシャネコは得意気に胸を張った。
……けれど反りすぎて、ころんと尻餅をついている。そこはさすがに猫らしく、くるりと回転して丸くなった。照れ隠しなのか、もふもふの手で顔を撫でている。
私は微笑みを浮かべて、ヤシャネコに挨拶した。
「ずっと私と赤ちゃんを守っていてくれたのね。これからもよろしく、ヤシャネコ」
「よろしくにゃん、花嫁さま」
握手のつもりで掌を差し出すと、ヤシャネコは肉球つきの手で、ちょいと触れてくれた。
まさか柊夜さんの派遣した夜叉の眷属だったとは知らなかったが、黒猫を放置していくという事態にはならずに済んでよかった。
「さて、引っ越しの準備をしようか。あかりは何もしなくていいから。梱包はすべて俺がやるよ」
「おいらも手伝うにゃん!」
ふたりが手伝ってくれるので頼もしい。
私は玄関の鍵を開けながら、ふと疑問に思った。
私自身がまだ妊娠を知らなかった頃から、ヤシャネコは私の周囲にいた。思い返せば彼が私の前に現れたのは、柊夜さんと一夜を過ごした翌日のことだ。
つまり、柊夜さんは私が妊娠することを想定していたのだろうか。
「柊夜さん……」
「何かな? 荷物はあまりないんだね。この分ならすぐに終わりそうだ」
「どうしてヤシャネコをすぐに私のところに派遣したんですか? まるで私が妊娠することがわかっていたみたいですよね」
ぴたりと動きを止めた柊夜さんだけれど、すぐに踵を返して玄関を出ていく。
「それはもう、俺に関わったことであかりの身に危険が及んではいけないからね。さて、車から段ボールを持ってくるよ」
そそくさといなくなった柊夜さんはどこか気まずそうだ。
やはり彼は確信犯だ。何という用意周到さだろう。私は計画的に妊娠させられたようだ……。
「ねえ、ヤシャネコ……」
「おいらはなんにも知らないにゃ~ん。英会話教室にこっそり張り込んでたのも夜叉さまの指示だにゃ~ん」
「ええ⁉ その頃から⁉」
「おいらはなんにも知らないにゃ~ん。花嫁さまがおいらのことはっきり見えるようになったのは、赤ちゃんができたからにゃんね~」
歌うように暴露するヤシャネコは、ころんころんとでんぐり返しをしている。
部屋の中央に佇んだ私は、英会話教室をやめたことをなぜ柊夜さんが知っていたのか、その理由を今さらながら気づかされたのだった。
引っ越し作業を終えて、私は住んでいたアパートを引き払った。ほとんどは柊夜さんが梱包して運んでくれたので、さほどやることもなかった。
さすがに下着などの類いは自分でまとめたかったので、手伝うと言い張る柊夜さんを説得するのが大変だったくらい。
この人は初めからそうだけれど、平気で私の下着に触れるので少々困る。
正体は柊夜さんのしもべだった黒猫とも、一緒に暮らせることになってよかった。
マンションに戻ってきた私は、ひと息つく。
「俺は段ボールを運ぶから、あかりは休んでいてくれ」
「私も手伝いますよ」
「だめだ。腹の子に何かあったらどうする」
「はいはい。わかりました」
柊夜さんが心配しているのはお腹の赤ちゃんだけらしい。それもそうだろうけれど。
言われたとおり、私は階下から段ボールを運び込む柊夜さんを眺めつつ、優雅にソファに体を横たえて休んだ。
ヤシャネコはといえば、床にころりと丸くなっている。
あやかしとはいえ、その動作は実に猫らしい。
やがて荷物を運び終えた柊夜さんは、室内でだらけている私たちに声をかけた。
「トラックを返却してくる。すぐに帰ってくるが、家から出るんじゃないぞ。ヤシャネコ、頼んだぞ」
「了解だにゃん」
……と言いつつ、ヤシャネコは大あくびをしている。
引っ越し作業を手伝ってくれたので、疲れてしまったようだ。もっともヤシャネコは棚の本を取ろうと飛び乗って本棚を倒し、盛大に散らかしてくれたくらいだけれど。
「行ってらっしゃい、柊夜さん」
手を振ると、彼はまだ何か言いたげにこちらを見つめていたが、やがて踵を返した。
玄関を出ていった音を聞いて、私はソファで大きく伸びをする。
「はあ~。鬼のいぬまになんとやら。柊夜さんってば束縛するタイプだったんだね。自分のことは全部事後報告なのに、私にはうるさく言うんだから困っちゃうよ」
荷物整理をする気力はなく、ソファにだらりと凭れた。
起き上がったヤシャネコは、金色の瞳を煌めかせる。
「花嫁さまは夜叉さまのこと、よく知らないにゃん?」
「知らないよ……。というか、夜叉とか鬼神とか何なの?」
ぱちりと瞬いたヤシャネコは揚々と言い放った。
「偉い神様にゃ~ん!」
「……そっか」
核心を突いているようで、全くわからない。
そのとき、ヤシャネコのヒゲがふるりと揺れた。
きょろきょろと落ち着きなく、周囲を見回す。
「どうしたの、ヤシャネコ?」
ふっと涼やかな水の香りが私の鼻先を掠める。
蛇口から水が滴っているのだろうか。
首を巡らせたとき、軽やかな少年の声が耳に届く。
「オレから教えてやろうか?」
「えっ……だ、誰⁉」
この部屋には私とヤシャネコしかいないはずだ。
突然のことに驚いていると、キッチンから中学生くらいの少年が現れた。
「オレは那伽(なーが)。八部鬼衆のひとりだ。よろしくな、夜叉の花嫁」
明るい茶色の髪をした少年は茶目っ気たっぷりに挨拶をして、華麗にウィンクした。
那伽とは、龍王を表す名だと私も知っている。水を操る鬼神だとも。
「ご苦労だったな、ヤシャネコ。もうこのアパートは見張らなくていい。今日限りで退去する」
「ほーい。ってことは、花嫁さまは夜叉さまと一緒に暮らすんだにゃ」
「そうだ。今後はマンションの周辺を見張ってくれ。特に俺がいないときに、あかりの身を守ってほしい」
「お任せくださいにゃん!」
白の手袋を嵌めたような手を胸に当てるヤシャネコは、とても頼もしく見える。
ふたりのやり取りを聞いた私は、目を瞬かせた。
「あのう……この子はふつうの猫じゃなかったんですね。柊夜さんの知り合いだったんですか」
「そうだ。ヤシャネコはあやかしだから、人間には見えていない。野良ではなく、夜叉の眷属なので身元は確かだ。あかりが悪いあやかしに襲われないよう、彼を派遣して見張らせていたのだ」
そういえば、階段下の茂みに黒い影が這っていたとき、この子が追い払ってくれたことを思い出す。ほかの住人たちが何も言わなかったのも、あやかしなので見えていなかったからなのだ。
柊夜さんは言葉を継いだ。
「ヤシャネコは夜叉に仕えるために生まれたという誇りを持っている。そこらの悪いあやかしとは違う。とても頼れる存在だ」
柊夜さんの褒め言葉に、ヤシャネコは得意気に胸を張った。
……けれど反りすぎて、ころんと尻餅をついている。そこはさすがに猫らしく、くるりと回転して丸くなった。照れ隠しなのか、もふもふの手で顔を撫でている。
私は微笑みを浮かべて、ヤシャネコに挨拶した。
「ずっと私と赤ちゃんを守っていてくれたのね。これからもよろしく、ヤシャネコ」
「よろしくにゃん、花嫁さま」
握手のつもりで掌を差し出すと、ヤシャネコは肉球つきの手で、ちょいと触れてくれた。
まさか柊夜さんの派遣した夜叉の眷属だったとは知らなかったが、黒猫を放置していくという事態にはならずに済んでよかった。
「さて、引っ越しの準備をしようか。あかりは何もしなくていいから。梱包はすべて俺がやるよ」
「おいらも手伝うにゃん!」
ふたりが手伝ってくれるので頼もしい。
私は玄関の鍵を開けながら、ふと疑問に思った。
私自身がまだ妊娠を知らなかった頃から、ヤシャネコは私の周囲にいた。思い返せば彼が私の前に現れたのは、柊夜さんと一夜を過ごした翌日のことだ。
つまり、柊夜さんは私が妊娠することを想定していたのだろうか。
「柊夜さん……」
「何かな? 荷物はあまりないんだね。この分ならすぐに終わりそうだ」
「どうしてヤシャネコをすぐに私のところに派遣したんですか? まるで私が妊娠することがわかっていたみたいですよね」
ぴたりと動きを止めた柊夜さんだけれど、すぐに踵を返して玄関を出ていく。
「それはもう、俺に関わったことであかりの身に危険が及んではいけないからね。さて、車から段ボールを持ってくるよ」
そそくさといなくなった柊夜さんはどこか気まずそうだ。
やはり彼は確信犯だ。何という用意周到さだろう。私は計画的に妊娠させられたようだ……。
「ねえ、ヤシャネコ……」
「おいらはなんにも知らないにゃ~ん。英会話教室にこっそり張り込んでたのも夜叉さまの指示だにゃ~ん」
「ええ⁉ その頃から⁉」
「おいらはなんにも知らないにゃ~ん。花嫁さまがおいらのことはっきり見えるようになったのは、赤ちゃんができたからにゃんね~」
歌うように暴露するヤシャネコは、ころんころんとでんぐり返しをしている。
部屋の中央に佇んだ私は、英会話教室をやめたことをなぜ柊夜さんが知っていたのか、その理由を今さらながら気づかされたのだった。
引っ越し作業を終えて、私は住んでいたアパートを引き払った。ほとんどは柊夜さんが梱包して運んでくれたので、さほどやることもなかった。
さすがに下着などの類いは自分でまとめたかったので、手伝うと言い張る柊夜さんを説得するのが大変だったくらい。
この人は初めからそうだけれど、平気で私の下着に触れるので少々困る。
正体は柊夜さんのしもべだった黒猫とも、一緒に暮らせることになってよかった。
マンションに戻ってきた私は、ひと息つく。
「俺は段ボールを運ぶから、あかりは休んでいてくれ」
「私も手伝いますよ」
「だめだ。腹の子に何かあったらどうする」
「はいはい。わかりました」
柊夜さんが心配しているのはお腹の赤ちゃんだけらしい。それもそうだろうけれど。
言われたとおり、私は階下から段ボールを運び込む柊夜さんを眺めつつ、優雅にソファに体を横たえて休んだ。
ヤシャネコはといえば、床にころりと丸くなっている。
あやかしとはいえ、その動作は実に猫らしい。
やがて荷物を運び終えた柊夜さんは、室内でだらけている私たちに声をかけた。
「トラックを返却してくる。すぐに帰ってくるが、家から出るんじゃないぞ。ヤシャネコ、頼んだぞ」
「了解だにゃん」
……と言いつつ、ヤシャネコは大あくびをしている。
引っ越し作業を手伝ってくれたので、疲れてしまったようだ。もっともヤシャネコは棚の本を取ろうと飛び乗って本棚を倒し、盛大に散らかしてくれたくらいだけれど。
「行ってらっしゃい、柊夜さん」
手を振ると、彼はまだ何か言いたげにこちらを見つめていたが、やがて踵を返した。
玄関を出ていった音を聞いて、私はソファで大きく伸びをする。
「はあ~。鬼のいぬまになんとやら。柊夜さんってば束縛するタイプだったんだね。自分のことは全部事後報告なのに、私にはうるさく言うんだから困っちゃうよ」
荷物整理をする気力はなく、ソファにだらりと凭れた。
起き上がったヤシャネコは、金色の瞳を煌めかせる。
「花嫁さまは夜叉さまのこと、よく知らないにゃん?」
「知らないよ……。というか、夜叉とか鬼神とか何なの?」
ぱちりと瞬いたヤシャネコは揚々と言い放った。
「偉い神様にゃ~ん!」
「……そっか」
核心を突いているようで、全くわからない。
そのとき、ヤシャネコのヒゲがふるりと揺れた。
きょろきょろと落ち着きなく、周囲を見回す。
「どうしたの、ヤシャネコ?」
ふっと涼やかな水の香りが私の鼻先を掠める。
蛇口から水が滴っているのだろうか。
首を巡らせたとき、軽やかな少年の声が耳に届く。
「オレから教えてやろうか?」
「えっ……だ、誰⁉」
この部屋には私とヤシャネコしかいないはずだ。
突然のことに驚いていると、キッチンから中学生くらいの少年が現れた。
「オレは那伽(なーが)。八部鬼衆のひとりだ。よろしくな、夜叉の花嫁」
明るい茶色の髪をした少年は茶目っ気たっぷりに挨拶をして、華麗にウィンクした。
那伽とは、龍王を表す名だと私も知っている。水を操る鬼神だとも。



