三章 三ヶ月 かりそめ夫婦と白靴下のヤシャネコ

「みなさんに、ご報告したいことがあります」
 朝礼の最後に、鬼山課長の重いひとことがフロアを突き抜ける。
『ご報告』とくれば、大抵は結婚、もしくは転勤や退職についてだ。
 いずれにしても課長の身に重大な何かが起こったことには違いなく、女子社員たちは緊張を漲らせる。
 彼女たちの中で、私は身を小さくして俯いた。
 先日、課長との間にかりそめ夫婦として過ごそうという契約を交わしたが、社内ではふつうに結婚の報告を行うことで話がまとまった。
 実は鬼神であることを社員に知られるわけにはいかないというわけで、私もそれに了承した。
「星野さん。こちらへ」
 きらりと眼鏡を光らせた課長に呼ばれ、ぎくしゃくと前へ出た私は彼の隣に並ぶ。
 ざわつく女子社員たちの刺すような視線が痛い。
 課長はそんなざわめきをものともせず、堂々と言い放った。
「わたくし、鬼山柊夜は、星野あかりさんと結婚することになりました。彼女のお腹には新しい家族がいます」
 一瞬の静寂ののち。
 ギャア、とまるであやかしの断末魔のごとき悲鳴がフロアに響き渡る。
 課長に憧れる女性たちは般若のような形相で私を睨みつけた。
 結婚と妊娠の報告はワンセットにしないほうがよかったんじゃないかな……。
 目眩を覚える私に反し、頼もしい課長の宣言は朗々と続けられる。
「わたくしのほうからプロポーズしました。今後もお互いを支え合い、身重の彼女をサポートしていく所存です。まだまだ至らぬところがあるふたりですが、どうぞ皆様のお力添えをよろしくお願いいたします」
 ぱちぱちと拍手が沸き起こる。男性社員の間からのみ。
 卒倒しそうな女性陣を目にした私は気の毒になった。
「それでは、星野さんからひとことどうぞ」
 課長に促され、私は頰を引きつらせつつ、明るい声音で挨拶を述べた。
「みなさん、ご安心ください。出産したら別れますので。あと七ヶ月ほど経ったら元通りになる予定です」
 しん、とフロアに沈黙が下りた。
 みんなは訝しげに眉を寄せている。
 あれ? だって、そういう契約だからね……。
 課長と結婚しているという状況は出産するまでの期間限定なので、それが終わればまた平穏な生活に戻る。以前のように、誰かが課長に告白するのも自由だ。ただし正体は鬼神だけど。そして私はそれを傍から眺めるおひとりさま。
 課長はひとつ咳払いをした。
「星野さんは現在の状況に戸惑っているようです。マタニティブルーというものですね。無理もない。わたくしが結婚を急いだので、それを受け入れるのには時間がかかる。出産の頃には落ち着いてくれるでしょう」
 妙齢の男性社員から、「よっ、色男!」などと野次が飛ぶ。
 やめて、おっさん。お願いだから。
 課長の説明は、彼のほうから私に惚れて、結婚するために妊娠させたというふうに聞こえる。
 流れとしては合っているのだが、そこには夜叉の後継者を得るためという事情が挟まっているわけで。
 それを殺気立つ女性たちに説明できないのがつらい。
 彼女たちが発するオーラには、「なんで星野ごときに課長が……あたしでよかったじゃない!」という怨嗟が漲っている。大変いたたまれない。
 無事に……とは言いがたいかもしれないが、結婚及び妊娠の報告を終えて、朝礼は解散する。私は敗残兵のごとく背を丸めて自分のデスクに戻った。
 早速、本田さんが目を爛々とさせて食らいついてくる。
「ちょっと星野さん、いつの間に⁉ どうやって課長を落としたのよ!」
「……落としてません」
「何言ってんのよ、結婚するんでしょ? 課長のプロポーズの台詞はどんなの? お願い、教えて!」
 両手を合わせて拝み倒す本田さんに、引きつった笑いが漏れる。
 課長にフラれた過去がある彼女は、難攻不落の城砦の攻略法を知りたいようだ。
 実は本物の夫婦ではないわけなので、いずれは本田さんにも機会は巡ってくるのかもしれない。
 鬼神の子を孕まされて、あやかしに襲われる特典がもれなくついてきますが……。
「ええと……『俺と結婚するしか道はない』だとか、脅迫めいた台詞でしたね……」
「へえ~。課長がそんなこと言うなんて意外すぎるわね」
「本当に……私も驚かされました。まさかこんなことになるとは思わず……」
 がくりとデスクに突っ伏す。
 結婚と妊娠を手にした女性は、通常は浮かれるはずが、私のケースは落ち込みまくりである。本田さんは「まあまあ」と言って慰めてくれた。
 かりそめ夫婦の契約を結んだその日から、私は課長のマンションで同居している。
 正確には、家に帰してもらえない。
 危ないから傍にいたまえ、という上司命令が発令されたからである。
 一度だけ荷物を取りに課長同伴でアパートに戻っただけだ。
 そのときに黒猫のことが気になったが、あの子は姿を見せなかった。
 代わりに、ソラミズチのような悪そうなあやかしも見かけない。どうやら鬼神である課長がいると、その神気に気圧されて大抵のあやかしは近づけないらしい。
 そうなると、もはや潔く引っ越したほうがいいだろう。
 かりそめの関係とはいえ、出産まであと七ヶ月ほどあるし、妊娠しているせいか動き回るのも体がだるいので億劫に感じる。アパートを引き払い、荷物をすべて課長のマンションに持ってくれば取りに戻る必要もなくなる。
 あの黒猫のことも、話さないと……。
 好きでもない課長とかりそめ夫婦になってよかったことといえば、図らずも住まいを変えて、黒猫を飼う可能性が見出せたという件のみだった。

 次の土曜日、総合病院の産婦人科を訪れた私は、一枚の写真を手にして出てきた。
「これが……赤ちゃん。ちっちゃい……」
 待合室でもじっくり見たけれど、何度も眺めてしまう。
 まだ小さな赤ちゃんは体長五十ミリほどで、頭がすごく大きい二頭身体型だ。この状態で脳や神経はすでに完成しているらしい。
 私はすでに妊娠八週に突入していたが、これ以前の胎児はクリオネのような形だそうである。その姿も見たかったな……と、少し後悔した。
 妊娠検査薬を試そうかどうしようかなんて悩んでいる間にも、赤ちゃんはどんどん成長していたのだ。
 生命の神秘に感激して涙が零れそうになる。
 ほかの子とは違うかもしれないけれど、この子は私と課長の子どもなのだ。
 歪な関係の夫婦だが、せめてこの子だけは無事に産もうという決意が沸き起こる。
「そろそろ、つわりも始まる頃だと医師は話していたね。引っ越しの作業はすべて俺がやるから、星野さんは休んでいて」
 車に乗り込んでエンジンをかけた課長は、さらりと告げる。
 私はじっとりとした横目を投げかけた。
 当然かもしれないが、私の赴くところに課長ももれなくついてくる。お医者さんから『旦那さん』と呼ばれて、『はい』と平然と返事をする。同席して今後の赤ちゃんの成長や検診のスケジュールを説明されたときは、私以上に真剣に聞いていた。