だから……私たち、付き合ってないですよね?
 課長は私のことなんて好きでもなんでもないのに、妊娠の責任を取るために結婚を選択するということだろうか。会社での立場を考えて。
「……はあ。責任を取るということですか?」
「要するにそういうことだが、きみは堕胎できない。俺以外の男と結婚もできない。俺と結婚するしか道はない」
 突然の俺様宣言に眉根が寄ってしまう。
 中絶も考えていたのは確かだけれど、堕胎できないとはいかなる意味なのか。
 それに妊娠したのは予定外だったはずなのに、課長はまるで計画通りとでもいうように堂々としている。
 首を捻る私の前で、鬼山課長は眼鏡の蔓に触れた。
「それらのことを説明するにはまず、俺の正体を知ってもらわなければならないね」
「課長の……正体?」
 私と同じように、ほかの人に見えないはずの黒蛇を退治した課長。
 彼の口から何度か出た、『あやかし』という単語。
 私は今、遠く離れた世界に飛び込むことを肌で感じた。課長の眼鏡が外されて、彼の素顔が晒されるのとともに。
「俺の正体は、八部鬼衆のひとりである鬼神、夜叉だ」
 課長の瞳の色は真紅に染まっていた。
 眼鏡を外した彼の、血のような瞳を、食い入るように私は見つめる。
 きっとベッドをともにしたときも同じ瞳の色だったのだろうけれど、あのときは照明が暗かったのでよくわからなかったのだ。
 課長の言った正体とやらが意味不明なので、私は怪訝に問い返した。
「え……八部……? なんだかよくわからないんですけど」
「つまり、鬼の神だね。人間ではないんだ」
「はあ……。でも課長はふつうに会社に出社していますよね」
 問題はそこではない気もするが、いきなり正体は鬼の神ですと告白されるなんて完全に想像の域を超えている。
 ただ、まるきりの嘘とも思えなかった。
 課長は、あのソラミズチだとかいう黒蛇を倒し、私を守ってくれた。それに炯々と光る彼の真紅の瞳が、人外であることを色濃く物語っている。
「鬼神は遙か昔に古代インドで生まれ、のちに仏教の領域に渡ってきた。その土地により神とも悪魔とも祀られているが、我々の一族は長い年月の中で人間と交じり合い、より人間社会に溶け込んでいった。そうすることが世界調和のためだからだ」
「ははあ」
 何だか世界史の講釈のようになってきた。私は素直に頷く。
 言われてみれば、古代インド神話に登場する神々の中に、ヤクシャという名の鬼神がいる。聖なる樹木とともに神様が描かれた絵画を見たことがあった。そのヤクシャが仏教に伝わり、夜叉と名を変え、鬼神として祀られたのだろう。
「俺は鬼神だが、同時に一般的な会社員でもある。だが鬼神ゆえに、先程のソラミズチのようなあやかしの姿も見えている」
「あやかしって何ですか? 課長が鬼の神様で人間のふりをしているというのは、一応は理解しましたけど、さっきの黒蛇はどう見ても危険な存在ですよね?」
「あやかしとは、この世に息づく物の怪たちのことだ。ふつうの人間には見えないが、彼らは至るところにいるよ。大抵は害のないものだけれどね。ひと月前、俺のマンションへ来る途中に鼠又を見かけただろう」
 私は初めて課長のマンションを訪れたときのことを思い出した。
 雨が降る直前、『危ない』と言った課長に手をつながれた。そのときに横切った動物らしき影を、課長はあやかしの鼠又だと言ったのだ。つまり課長には、ずっと前からあやかしの姿が見えていた。
 黒猫と会ってからではない。あのときが初めて私が、『あやかし』と遭遇したできごとだった。
「あれが、あやかしだったんですか……」
「鼠又やソラミズチだけではない。きみはほかのあやかしにも遭遇しているはずだ。その原因は、きみのお腹にいる赤子にある」
「えっ⁉ 赤ちゃんが?」
 思わずお腹に手を当てる。
 ソラミズチは『赤子を喰わせろ』と不穏なことを吐いていた。その原因が赤ちゃんにあるとは、どういうことだろう。
 課長は神妙に頷いた。
「鬼神の血を引くその子を宿したきみは、本来は見えないはずのあやかしの姿が明瞭に認識できるようになった。ソラミズチのような悪しきあやかしが夜叉の赤子を喰らえば、より強大な力を手に入れることができる。この世界を壊滅させるほどのね」
「ええっ⁉ そんなことになったら大変じゃないですか!」
「そうだとも。今後も赤子の神気を察知したあやかしが、きみを襲ってくるだろう。それを避けるためにも、きみは俺と結婚して、俺に守られなければならないんだ」
 話を統合すると、鬼山課長が人間ではなく、鬼神の一族のひとりであることは確かなようだ。
 仮にソラミズチが課長の仕掛けた悪戯だったとしても、彼のいないところでもあやかしは出現している。主にアパートの周辺でだけれど、そのときは黒猫が守ってくれていた。
 それに、私があやかしを認識するようになったのは、受胎した日から……ということになる。正確には、課長と手をつないで、彼に触れたときからとなるけれど。
 どうやら課長の傍にいると彼の影響により、あやかしに関わることになるらしい。さらに妊娠したことによって、私は完全にあやかしの世界に足を突っ込んでしまったのだ。
 違う世界に連れていかれそう、という予感は正しかった。
 今後は、出産するまで悪いあやかしに狙われ続けるわけなので、鬼神である課長の傍にいなくてはならないようだ。
 これは男として責任を取るというより、鬼神の義務ということではないだろうか。
 想像していたよりもっと悪い方向だ。鬼山課長がどれほど偉い神様なのかはよくわからないが、世界を守るという大きな課題のために、鬼神の赤子のついでに私の身を守ってあげるよ仕方なく、ということである。
 途端に結婚という言葉が浅薄に感じられた私は眉をひそめる。
「困りますよ、そんな理由で結婚なんて……。この子を中絶できない状況なのはわかりましたけど……」
 もし中絶なんてしたら、そのときにはソラミズチのような魑魅魍魎が群がり、私ごと喰らい尽くされてしまうかもしれない。それに、この子を宿したことで母体の私まであやかしが見えるようになったということは、赤子は鬼神の能力を色濃く受け継いでいるのだ。
 この子は、ふつうの人間じゃないんだ……。
 堕胎できないなら産むしかない。
 けれど、ふつうの人間を産んだこともないのに、鬼神の子どもなんて果たして産めるのだろうか。
 かといって、この子をあやかしに喰わせるなんて絶対にしたくない。それだけは私の胸中に、しっかりと根付いていた。
 その強い想いとは真逆に、果たして結婚することに意味があるのかと懐疑的になっていた。順番が無茶苦茶になったせいかもしれない。実は父親は鬼神でしたと知らされて、どう受け止めてよいのかわからない。それについては不安を通り越して、唖然としてしまう。
 お腹に手を当てて、じっと俯いている私に、課長はとある提案をする。
「急に言われても受け入れがたいのはわかる。そこで、譲歩案を出そうじゃないか」
「といいますと?」
「出産するまで、かりそめ夫婦として過ごすんだ。子が産まれれば、おのずと星野さんはあやかしが見えなくなり、もとの生活に戻れる。そうなれば、あやかしに襲われる心配もなくなる。出産まであと七ヶ月ほどだろう。その間だけ俺と結婚していることにして、一緒にこのマンションで暮らそう。そうすれば、きみと子を守り抜ける」
「偽装夫婦ということですか……。でも、そうしたら産まれた赤ちゃんはどうなります?」
「産まれた子は、夜叉の後継者だ。我々の組織で育てるから、星野さんの手は煩わせないよ」
「鬼神の組合みたいなものがあるんですか?」
「あるよ。八部鬼衆はそれぞれの四天王に仕える鬼神だ。夜叉は多聞天の眷属だね。会社組織と同様と考えてくれたまえ」
 お腹の子は鬼神である夜叉の子だ。産まれたら、神々に引き取られ、そちらの世界で育てられることになるのだろう。
 人間である私はいわば、神の子を産むための借り腹ということなのかもしれない。
 そう考えると、なぜか切なかった。
 けれど、ほかに選択肢はない。
 残り七ヶ月ほどの期間だけ、あやかしから課長に守ってもらい、出産を終えれば、私はもとの平穏な生活を取り戻せる。
 私は唇を引き結んで、真正面の紅い双眸を見据えた。
「わかりました。かりそめ夫婦として、お願いします」
 課長はとろりとした笑みを見せる。真紅の瞳は、まさに人外のものだった。
「ありがとう。これからよろしく」
「……ひとつ、聞いてもいいですか?」
「なんだい」
 なぜ私を借り腹に選んだんですか?
 あの夜のことは後継者を作るためだったんですか?
 私のハンカチを見つけたとき……どうしてすぐに返さなかったんですか。
 疑問は尽きない。もはやひとつには絞れなかった。
 すべては鬼山課長が後継者を生み出すための策略に思えた。
「あの……私はお腹の子の影響であやかしが見えているそうですけど、課長と夜道を歩いているときにも、影だけ見えましたよね? あのときは妊娠していなかったわけですが、どうして見えたんでしょう」
 考え抜いた結果、そんな質問をしてしまう。
 もっと重要なことがあるはずなのだけれど、所詮は出産するまでのかりそめ夫婦なのだから、つまりは偽装結婚だ。私たちの関係性についての質問なんて、意味がないのだ。
 苦悩する私の心中なんてまるで知らない課長は、あっさりと言った。
「俺と手をつないでいたからだね。俺の神気が掌から伝わったから、見えたんだ。あのときに、星野さんには素養があると確信したよ」
「素養……なんのですか?」
 にやりと、鬼山課長は口端を吊り上げる。
 悪い男の顔だ。
 そんな表情は会社では見たことがなく、神様というより悪鬼のようだった。
 妙なところで彼は人外なのだなと、納得してしまう。
「俺の嫁になる素養だよ」
「……悪い鬼ですね」
「最高の褒め言葉だ。ありがとう」
「どういたしまして……」
 確信犯だ。最悪だ。
 私は悪鬼に嵌められて、彼の子を産むことになってしまったのだ。
 あと七ヶ月の契約期間を無事に乗り越えられるのを、祈るばかりだった。