「ギィアァァァ……!」
黒蛇の悲鳴が辺りに響いた。
漆黒の胴体が飛び散り、千切れた布のように霧散する。
それらは、やがて空中に消えた。
「星野さん。大丈夫かい?」
くるりと振り向いた鬼山課長は、いつもどおり平静に問いかける。
一瞬、黒蛇の胴体を切り裂いた強靱な爪が見えた気がしたけれど、課長の手は普段と変わらなかった。
どうやったのかはわからないが、課長が黒蛇を倒してくれたのだ。身を挺して私を守ってくれた。
これほど彼が頼もしいと思えた瞬間は初めてだった。私の胸は感激に昂ぶる。
課長を見上げた私は、ひとこと口にした。
「できました」
奇妙な沈黙がふたりの間に流れる。
あれ……私、何言ってんだろ……。大丈夫ですって言うつもりだったのに……。
私の胸の昂ぶりは、すうと急速に冷めていく。
これまでの懊悩が蓄積された結果、課長と対峙したことで、つい妊娠のことを口走ってしまった。
しかも主語がないので、課長には何のことかわからないに違いない。
今なら言い間違いだと誤魔化せる。
慌てて訂正の言葉を紡ごうとすると、課長は一切驚きもせずに返答した。
「そうか。できたか」
「……はい」
まるで書類ができたことを指しているかのように冷静そのものだ。
やはり、赤ちゃんができたとは伝わっていないらしい。ほっとする反面、複雑でもある。
眼鏡のブリッジを押し上げた課長は淡々と述べた。
「星野さん。今日は早上がりして、私のマンションに来てくれるかな?」
「えっ?」
「きみを襲ったのは、ソラミズチというあやかしだ。空を飛べる蛇だね。始末したので当面は奴が襲ってくることはないが、そのことも含めて詳しい事情を話し合いたい」
やたらと詳しく説明されて、呆気にとられる。
そういえば、ほかの人には見えていない黒蛇を、どうして課長は退治できたのだろう。
幻覚だと指摘したとき、課長にも、あの黒蛇は見えていたのだ。しかも名前まで知っている。
『あやかし』という単語にも聞き覚えがある。
課長のマンションへ行くときに横切ったネズミらしき動物を、彼は『あやかしの鼠又だ』と話していた。あの動物は無害だったけれど、ソラミズチなる黒蛇は明らかに殺害の意志を持って私に接触してきた。
その危険なあやかしに、課長は深く関わっているのだ。
「課長……あなたは、何者なんですか?」
私は初めて見る人のように、背の高い課長を見上げた。微量の恐れを交えながら。
にやりと口端を吊り上げた課長は、妖艶に微笑む。
「さて。何者だろうね。これから教えてあげよう」
鬼山課長と一緒に早上がりした私は、彼のマンションへやってきた。
ここを訪れるのは久しぶりだ。あの夜のことが脳裏をよぎり、なんだか気恥ずかしくなる。
「座りたまえ。いろいろあって疲れただろう。ウーロン茶でいいかな」
「はい。おかまいなく」
ダイニングテーブルの椅子に腰を下ろし、冷蔵庫から取り出したペットボトル入りのウーロン茶をグラスに注いでいる課長を眺める。
ジャケットを脱いだ彼はシャツを腕まくりしている。腕の筋に雄の色気を感じて、頰を赤らめた私は俯いた。
そういえば、お泊まりした翌朝も課長は朝食を用意して、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。会社では悠然とデスクに座しているのに、そのギャップに驚いたものだ。
ふたり分のグラスをテーブルに置いた課長は、私の向かいに腰かける。
そして彼は、すいとハンカチを差し出した。
「あ……そのハンカチ……」
ブルーの蝶が飛び交う柄のハンカチは、私のお気に入りだったものだ。
懇親会の日に会社に置き忘れて、そのままどこかに紛失した。妊娠のことで頭がいっぱいで、すっかり忘れていた。
「遅くなったけど、お返しするよ」
「ありがとうございます。課長が持っていたんですか?」
「そう言っただろう。覚えてないかい?」
私は首を横に振る。
このハンカチをなくしたことに気づいたのは、居酒屋だった。代わりに課長の無地のハンカチを借りたので、それがマンションを訪れた末に妊娠するきっかけになったわけだけれど、あのときすでに課長は私のハンカチを持っていたのだろうか。
だとしたら、どうしてすぐに返してくれなかったのだろう。
「……課長、このハンカチは、いつ見つけました?」
「さて、いつだったかな。きみの忘れ物だから返そうと思って失念していてね。いろいろなことがあったからね」
さりげなくあの夜のことを示唆されたような気がして、私は顔を赤らめる。
受け取ったハンカチは綺麗に折り畳まれていた。洗ってからアイロンをかけてくれたのだろう。
このハンカチをなくさなければ、妊娠することもなかった。
思えば奇妙な巡り合わせである。
「……課長のハンカチは、ここでお返ししたんですよね」
「ああ、そうだね。確かに受け取ったよ」
「あのとき、最善の方策があるだとか言ってましたけど……それが、ここで直接返すということだったんですか?」
「そうだね。そういうことだ」
あっさりと課長は頷いた。
課長と同じベッドに入っているとき、彼はハンカチについて何事かを囁いてきた気がするけれど、そのあとの強烈な体験の印象が強すぎて、そんなことはすべて吹き飛んでしまった。
今ひとつ腑に落ちないが、ハンカチは無事にお互いの手元に戻ったのだからよしとするべきだろう。
「ところで、できたんだってね」
ひゅっと息を吸い込み、手にしたハンカチを握りしめる。
突然の課長からの確認に、私の手は震えた。
どうしよう。はっきり言うべきだろうか。
俯いている私に、課長は優しく言葉をかける。
「何が……と、聞いてもいいかな?」
彼は、薄々気づいている。
そして私の答えを待っている。
もはや隠しておくのは意味がないと悟った。
私は喉奥から声を絞り出し、一生に一回も言う機会がなかったであろう台詞を発した。
「赤ちゃんが……できました」
なぜか、ほっと肩の力を抜いた課長は安堵の笑みを浮かべる。
私はその表情を、戦々恐々とした思いを渦巻かせながら上目で見た。
「そうか。よかった」
「え……何言ってるんですか! よくないですよ!」
独身で付き合ってすらいないのに、一夜の過ちで妊娠してしまったのだ。
よかったという無神経な課長の感想に、私は思わず声を荒らげる。
表情を引き締めた課長は、改まって私を見つめた。
「結婚しよう」
真摯に宣言されたその台詞を、幾度も瞬きを繰り返して噛み砕く。
黒蛇の悲鳴が辺りに響いた。
漆黒の胴体が飛び散り、千切れた布のように霧散する。
それらは、やがて空中に消えた。
「星野さん。大丈夫かい?」
くるりと振り向いた鬼山課長は、いつもどおり平静に問いかける。
一瞬、黒蛇の胴体を切り裂いた強靱な爪が見えた気がしたけれど、課長の手は普段と変わらなかった。
どうやったのかはわからないが、課長が黒蛇を倒してくれたのだ。身を挺して私を守ってくれた。
これほど彼が頼もしいと思えた瞬間は初めてだった。私の胸は感激に昂ぶる。
課長を見上げた私は、ひとこと口にした。
「できました」
奇妙な沈黙がふたりの間に流れる。
あれ……私、何言ってんだろ……。大丈夫ですって言うつもりだったのに……。
私の胸の昂ぶりは、すうと急速に冷めていく。
これまでの懊悩が蓄積された結果、課長と対峙したことで、つい妊娠のことを口走ってしまった。
しかも主語がないので、課長には何のことかわからないに違いない。
今なら言い間違いだと誤魔化せる。
慌てて訂正の言葉を紡ごうとすると、課長は一切驚きもせずに返答した。
「そうか。できたか」
「……はい」
まるで書類ができたことを指しているかのように冷静そのものだ。
やはり、赤ちゃんができたとは伝わっていないらしい。ほっとする反面、複雑でもある。
眼鏡のブリッジを押し上げた課長は淡々と述べた。
「星野さん。今日は早上がりして、私のマンションに来てくれるかな?」
「えっ?」
「きみを襲ったのは、ソラミズチというあやかしだ。空を飛べる蛇だね。始末したので当面は奴が襲ってくることはないが、そのことも含めて詳しい事情を話し合いたい」
やたらと詳しく説明されて、呆気にとられる。
そういえば、ほかの人には見えていない黒蛇を、どうして課長は退治できたのだろう。
幻覚だと指摘したとき、課長にも、あの黒蛇は見えていたのだ。しかも名前まで知っている。
『あやかし』という単語にも聞き覚えがある。
課長のマンションへ行くときに横切ったネズミらしき動物を、彼は『あやかしの鼠又だ』と話していた。あの動物は無害だったけれど、ソラミズチなる黒蛇は明らかに殺害の意志を持って私に接触してきた。
その危険なあやかしに、課長は深く関わっているのだ。
「課長……あなたは、何者なんですか?」
私は初めて見る人のように、背の高い課長を見上げた。微量の恐れを交えながら。
にやりと口端を吊り上げた課長は、妖艶に微笑む。
「さて。何者だろうね。これから教えてあげよう」
鬼山課長と一緒に早上がりした私は、彼のマンションへやってきた。
ここを訪れるのは久しぶりだ。あの夜のことが脳裏をよぎり、なんだか気恥ずかしくなる。
「座りたまえ。いろいろあって疲れただろう。ウーロン茶でいいかな」
「はい。おかまいなく」
ダイニングテーブルの椅子に腰を下ろし、冷蔵庫から取り出したペットボトル入りのウーロン茶をグラスに注いでいる課長を眺める。
ジャケットを脱いだ彼はシャツを腕まくりしている。腕の筋に雄の色気を感じて、頰を赤らめた私は俯いた。
そういえば、お泊まりした翌朝も課長は朝食を用意して、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。会社では悠然とデスクに座しているのに、そのギャップに驚いたものだ。
ふたり分のグラスをテーブルに置いた課長は、私の向かいに腰かける。
そして彼は、すいとハンカチを差し出した。
「あ……そのハンカチ……」
ブルーの蝶が飛び交う柄のハンカチは、私のお気に入りだったものだ。
懇親会の日に会社に置き忘れて、そのままどこかに紛失した。妊娠のことで頭がいっぱいで、すっかり忘れていた。
「遅くなったけど、お返しするよ」
「ありがとうございます。課長が持っていたんですか?」
「そう言っただろう。覚えてないかい?」
私は首を横に振る。
このハンカチをなくしたことに気づいたのは、居酒屋だった。代わりに課長の無地のハンカチを借りたので、それがマンションを訪れた末に妊娠するきっかけになったわけだけれど、あのときすでに課長は私のハンカチを持っていたのだろうか。
だとしたら、どうしてすぐに返してくれなかったのだろう。
「……課長、このハンカチは、いつ見つけました?」
「さて、いつだったかな。きみの忘れ物だから返そうと思って失念していてね。いろいろなことがあったからね」
さりげなくあの夜のことを示唆されたような気がして、私は顔を赤らめる。
受け取ったハンカチは綺麗に折り畳まれていた。洗ってからアイロンをかけてくれたのだろう。
このハンカチをなくさなければ、妊娠することもなかった。
思えば奇妙な巡り合わせである。
「……課長のハンカチは、ここでお返ししたんですよね」
「ああ、そうだね。確かに受け取ったよ」
「あのとき、最善の方策があるだとか言ってましたけど……それが、ここで直接返すということだったんですか?」
「そうだね。そういうことだ」
あっさりと課長は頷いた。
課長と同じベッドに入っているとき、彼はハンカチについて何事かを囁いてきた気がするけれど、そのあとの強烈な体験の印象が強すぎて、そんなことはすべて吹き飛んでしまった。
今ひとつ腑に落ちないが、ハンカチは無事にお互いの手元に戻ったのだからよしとするべきだろう。
「ところで、できたんだってね」
ひゅっと息を吸い込み、手にしたハンカチを握りしめる。
突然の課長からの確認に、私の手は震えた。
どうしよう。はっきり言うべきだろうか。
俯いている私に、課長は優しく言葉をかける。
「何が……と、聞いてもいいかな?」
彼は、薄々気づいている。
そして私の答えを待っている。
もはや隠しておくのは意味がないと悟った。
私は喉奥から声を絞り出し、一生に一回も言う機会がなかったであろう台詞を発した。
「赤ちゃんが……できました」
なぜか、ほっと肩の力を抜いた課長は安堵の笑みを浮かべる。
私はその表情を、戦々恐々とした思いを渦巻かせながら上目で見た。
「そうか。よかった」
「え……何言ってるんですか! よくないですよ!」
独身で付き合ってすらいないのに、一夜の過ちで妊娠してしまったのだ。
よかったという無神経な課長の感想に、私は思わず声を荒らげる。
表情を引き締めた課長は、改まって私を見つめた。
「結婚しよう」
真摯に宣言されたその台詞を、幾度も瞬きを繰り返して噛み砕く。