考えれば考えるほど、この現象は不可思議で奇妙だ。最初から疑うべきだった。おまじないを試しても、即効性がなかった時点で気づくべきだった。時間差で起きたものだから、てっきり自分が世界を動かしていたのだと信じて、自分を責めて、悔やんだ――どうやら、それは勘違いだったらしい。
 目の前のこころが静かに言う。

「……杉野くんと郁ちゃんを助けて、羽村さんを黙らせて、寺坂くんに協力して、告白大成功っていうシナリオを、今回はぜんぶ涼香にとられちゃったね。なんで邪魔するのかなって、思ってたんだけど……まぁ、一緒に何度もタイムリープしてたなら説明がつくよね」

 さかさ時計のおまじないを教えたのは、こころだ。いつでも先回りして、あたかも自然を装いつつ、すべてを掌握(しょうあく)していたのもこころ。順序よく組み立てていけば、その答えがまぎれもなく正解だと知らしめる。
 涼香は重たい体を起こし、まだふらつく足で立ち上がった。こころが支えようとするも、ためらいがちに手を引っ込めてしまう。

「タイムリープをしていたのは、あたしだよ。でも、いつの間にか涼香まで巻きこんでたみたい。そうなんだと思う」

 こころは静かに息をひそめて言った。

「少なくとも三回は一緒にタイムリープしてる。杉野くんを助けに行ったとき、あたしは郁ちゃんのバンドを仲裁(ちゅうさい)するはずだったの。それを、二回目の世界では涼香がとっちゃった。それはたぶん、あたしが杉野くんを助けたからなんだろうね」

 淡々としていくこころの空気に気圧され、涼香は奥歯を噛み締めた。
 目先のことにとらわれて、いままで重ねた伏線を見落としていた。どうやってハッピーエンドを迎えるか、それだけを考えていた。まさか、タイムリープの首謀者(しゅぼうしゃ)が別にいるとは想像もつかなかった。

「覚えてる? 涼香がうちでタイムリープの話を持ちかけたの。寺坂くんと別れてから、デジャブがどうのって言ってたでしょ」
「あぁ……そんなこともあったね」

 あえて突き放すような言い方をする。こころの顔は蒼白で、手が震えていた。その態度を見ても、涼香は真剣に話を聞くことができなかった。

「どのみち、時間を戻すつもりだったから、涼香にもおまじないを試すように提案してそのまま有耶無耶にするつもりだったの。でも、また一緒に戻ってる。いつもは鈍いくせに、この文化祭の時間だけはうまく立ち回るものだから、あたしはタイムリープのシステムを理解した。どこかで狂ってしまったんだって。でも、やっぱり涼香は目先のことしか見てないから、どうにかごまかすことができた」

 認めたくない。でも、すべての黒幕であるこころの声のどこにもふざけた色はなく、痛いほどに現実感が押し寄せる。

「正規ルートを言うとね、涼香と寺坂くんが杉野くんを助けて、その裏であたしが郁ちゃんを助けて、羽村さんと話し合う。でも、涼香と寺坂くんの仲をもっと深めるには、もっと大きなイベントがないとダメで。その結果が……杉野くんと仲がこじれるっていう最悪な末路だったわけで。涼香があんなに必死になって、杉野くんと仲直りしたいって言うから、だから……」

 口の中が冷えていく。漠然と感じるのは、拒否。
 鋭利(えいり)な刃物で心臓を一突きされたような、雷にでも打たれたかのような、全身を刺激する衝撃を直に受ける。棒立ちの涼香に、こころは目を伏せた。
 軽々しく時間を操作していたことを悔やんでも、もうあとの祭りだ。どれだけ嘆いても、この事実は覆せない。

「じゃあ、なに? こころは明のことを傷つけたから、そのお()びに時間を戻したってわけ?」
「ちょっと違う」

 こころの声も冷めていく。低く固い声音は、彼女のものとは到底思えなかった。なにかに耐えるように、懸命(けんめい)に気持ちを押し殺している。

「あたしは、杉野くんのために時間を戻したわけじゃない」
「謝るって言ってたくせに? 全部なかったことにしたわけ?」
「そう、なるね……」
「なによ、それ」

 悔恨(かいこん)が全身で一気にほとばしった。頭に血がのぼると、(やわ)らいだはずの頭痛が戻ってくる。それさえも振り払うと、激情だけで足が動いた。地面を踏みしめると、こころの肩がびくりと震える。でも、構っていられない。

「明のことを散々傷つけといて、よくそんなこと言えるよね。羽村だって悔しいに決まってるのに。嘘がつけない優也も悩ませて、それで、こころはみんなの思いを平気で踏みにじってきたの? なんの目的があってこんなことをしたの?」
「……そんなこと考えてたんだ。涼香って、意外と情に厚いんだね」
「私、真面目に言ってるんだけど」

 挑発しているわけではない。わかっていても、口が止まらなかった。感情が走ると抑制できない。
 深刻に考えてしまうのは、関わったひとすべての時間をも掌握してしまったから。罪悪感に打ちのめされるのは自分だけでいいと諦めていた。それすらも踏みにじられた。すべては、こころが仕組んだことだから。
 まったく、滑稽(こっけい)な話だ。偶然が重なって、こんな非現実的な現象を引き起こしている。何度も、何度も、無意味に奔走(ほんそう)しただけだった。

「……私がやったのは、なんだったの?」

 迷って、悩んで、ようやくたどり着いたと思った明るい世界。本当はなにも手を加えなくてよかったのに、考えなくてよかったのに。手垢(てあか)だらけの世界は、ただの箱庭だった。
 他人から時間を支配されていたと知れば恐ろしくなり、寒気が止まらなかった。

「バカみたいだね。いや、そもそもこの現状こそがおかしいんだけど。私は、こころに振り回されてただけなんだ?」
「ごめん……」
「否定してよ。そんなつもりじゃなかったって言ってよ」
「あたしがそんなこと言う資格はないから」

 彼女もわかっている。わかっていながら、何度もこの世界を繰り返してきた。その意図がいまだにわからない。
 怪訝に睨んでいると、こころは息苦しそうに言った。

「それでも、あたしは涼香を助けたかった。涼香が迷って悩まないように、世界を変えたかったの」
「は……?」
「すべては涼香を助けるために。だからあたしは、寺坂くんや杉野くん、羽村さんも傷つけた。見てみぬふりをした。涼香のために」

 重い。重苦しい。親友のために、時間をも操ろうとした彼女の気持ちが重くのしかかる。
 涼香はよろよろと後ずさった。同時に、こころはすがるように言った。

「ね、お願い。わかって。この先、涼香が幸せになれるようにがんばるから。絶対にうまくいくようにするから……」
「やめて!」

 思わず叫んだ。空気が凍る。わななく声がこころの体を震わせた。

「そんなこと、しないでよ……私のためだなんて、そんな重たいこと言わないでよ!」

 空気が重い。思うように息が吸えない。劇物の感情が暴れまわって止まらない。あらゆる感情が混在していき、そのどれもが熱となって血に混ざる。

「世界を変えたかった? バカなこと言わないで。私の世界を勝手に決めないでよ。それが善意だと思ったら大間違いだから!」

 胸が痛い。大きな爪でえぐられたように傷ついた。気分が悪い。こんなに血がのぼったのは生まれて初めてだ。感情の起伏(きふく)が激しく、コントロールができない。

「それに、いまさらだよ。いまさら遅いよ。私の周りにいるひとたち、みんなの気持ちを知ってしまった以上、もう元には戻れない……」

 自分の痛みに気づかず、ずっと鈍感でいたかった。

「嫌だよ……こんな風に悩むのも、怒るのも。痛みだって知りたくないし、怒られたくないし、悲しいことからは目を逸らしたい。見たくないし聞きたくない。私は、鈍感でいたいの」

 古傷も生傷も平気な顔で放置したい。苦味は取り除いて、甘いものだけをおいしく食べていたい。友達とも彼氏ともゆるく付き合って、ほどよくちょうどいい世界で、適度に誰かを羨んでいたい。ぬるい浅瀬(あさせ)奔放(ほんぽう)に漂っていたい。そんな世界がよかった。それなのに。

「でも、それがもうできない……見て見ぬふりができないくらい、いろんなものを知っちゃった」
「涼香」
「自分のことで精一杯でいたいのに。他人のこと考えて生きるのって、つらいだけじゃん。ままならないのに、無駄に考えて消耗(しょうもう)するだけで……もう、やだよ。知りたくなかった」

 いままで当然のように生きてきたのに、後ろばかり振り返って戻れなくなっている。いくつもの世界を経て、柄にもなく足掻(あが)いた結果がこれだ。なんて無様(ぶざま)なんだろう。
 涼香は耳をふさいでしゃがみこんだ。

「私は中身のない人間なんだから。期待しないでよ。あんたの生きがいになりたくない。重いんだよ。そんなものを押しつけないで。私を巻きこまないで」

 この感情をぶちまけても意味はない。でも、吐き出さないと耐えられない。所詮(しょせん)、その程度の人間だ。

「これまで、どれだけのひとを巻き込んできたの? 私だけじゃなく、いろんなひとの時間を奪って、騙して、傷つけてきたのよ。それを最初から知ってたら、私はなにもしなかったのに。勝手に勘違いして、ヒーロー気取りでバカみたい」

 優也がかわいそうだ。明も、羽村も。郁音だってそうだろう。関わってきたすべてのひとを思うと、罪悪感で頭が痛くなる。彼らの時間を勝手に書き換えてしまった。その引き金が、自分にあるだなんて認めたくない。壊れてしまいそうだ。

「こころ……」

 負の感情でふくらんだ頭を持ち上げる。

「あんた、懲りたんじゃなかったの?」

 認めたくないから口は攻撃的になる。熱と痛みで潤んだ視界は、相変わらず有彩と無彩を繰り返していた。白黒の背景で、言葉を失ったこころの輪郭(りんかく)がぶれていく。

「懲りたって言ってたくせに。ぜんぶ嘘じゃん。羽村にえらそうに失恋を押し付けて、明を傷つけて、優也を脅して、私を騙して」
「……ごめんなさい」
「謝って済むこと?」
「ううん」
「じゃあ、意味ないじゃん。あんた、自分がしてきたこと、わかってるの?」

 少しでもこの痛みを彼女に感じてほしかった。言葉を鋭く尖らせれば、彼女も痛みに呻くように顔を覆った。肩を震わせて嗚咽(おえつ)を漏らす。

「そんな言い方、しないで」
「ここまでやっといて、まだそんなこと言うの? 甘えないでよ」
「わかってる。そんなこと、十分わかってる!」

 金切り声で遮られても、傷んだ心はそう簡単に震えない。
 こころはしゃくりあげて泣いた。大粒の涙を地面に(したた)らせ、崩れるようにしゃがみこむ。湿った土の上に座り込み、力なく項垂れた。そんな彼女に、涼香は冷たく言った。

「わかってるんならさ、私の時間、返してよ」
「そんなの」
「返して。戻してよ。最初の時間に戻して! 過去に戻れるんなら、私の記憶も戻してよ! なにも知らなかった時間にリセットして!」
「っ……できないよ……」

 絞り出すような声でこころが言った。足が地面に沈んでいくように、空気が重たい。こころが鼻をすする音と、涼香が息巻く音が立ち込める。
 もし、また時間をさかのぼったとしても、この世界に干渉した以上は記憶が戻ることはない。何度同じ時間に戻っても、記憶だけはリセットできなかった。
 (はな)から期待はしていない。できるわけがない。それでも責められずにはいられない。

「私、こころがなにを考えてるのか、本当にわかんない」

 涼香は投げやりに言った。
 いくらか感覚が鋭敏になっても、彼女が抱える自己犠牲精神がいまだに理解できなかった。どうして他人のために、平気で時間を捻じ曲げられるんだろう。あらゆるリスクを抱えてまで、実行する意味がわからない。
 答えを待ち望んでいると、こころも観念したように顔を上げた。涙でぐしゃぐしゃになった顔が見つめてくる。こころは苦しそうに息を吸った。空気がひりつく。

「——涼香は、寺坂くんと別れたあと、壊れてしまったんだよ」

 思いがけない言葉に、それまで溜まっていた鬱憤が急激に消失した。風もない無音で、景色が薄くモノクロになっていく。ふるりと背骨が震え、時間差で寒気が昇った。

「壊れた? 私が?」
「そう。じわじわと、ゆっくり。ふさぎこむようになった。どんどん自分を見失って、誰にもなにも言えずに、(から)に閉じこもって」
「ちょっと待って。こころ、なにを言ってるの?」
「あたしにも話してくれなくなった。それも、杉野くんと付き合うようになってから涼香は変わってしまった。そのうち、杉野くんともうまくいかなくなって、自信をなくして……あたしの前からいなくなったの」

 一息に言うと、彼女は鼻をすすった。その時間が無限に続くような錯覚(さっかく)を感じた。思考は困惑と恐怖で機能を停止している。
 知らない世界を語る彼女がおぞましいものに見えた。そのどれもが現実的ではなく、瞬時に理解できない。この戸惑いを察したか、こころはゆっくりと告白した。

「あたしは、涼香から見れば〝ゼロ番目の世界〟からタイムリープした右輪こころ。もっと最悪な結末を知ってる」

 涼香は後ずさった。
 つまり、目の前にいる彼女は——同じ時間を過ごした右輪こころではない。最初のタイムリープが一番目だとするならば、いまここにいる右輪こころはゼロ番目の世界からきたことになる。

「つまづきを知らないから、落ち込み方も下手だった。楽して生きていたいって言うけれど、それだと、いざ傷ついたときに立ち上がれなくなる。自暴自棄になって、さらに一人ぼっちになっちゃう。そんな風になってほしくない」

 いつかの彼女が言った言葉が流れてくる。喉を引きつらせて涙ながらに訴える彼女をまともに見ることができなかった。頭が痛い。引いたはずの痛みが戻ってくる。

「涼香の孤独(こどく)をわかってあげたかった。なにより、あたしは寂しかった。涼香まで失いたくない。だから変えたかったの。でも、どうせなら幸せな世界で生きててほしいじゃない。だから、だからあたしは……」

 うずくまっていた彼女の輪郭がぼやけた。過去を書き換えた代償か、視界がひどくゆがんで見える。
 ぐらつく頭を抱えていると、唐突にこころの声が途切れた。

「こころ——?」

 いない。そこにいたはずのこころの姿がどこにない。忽然(こつぜん)と消えている。
 瞬間、涼香は記憶の海に引きずり込まれた。膨大な時間の渦に巻きこまれ、周囲の音が不協和音となって駆け抜けていく。そこには、かつてたどるはずだった薄暗い未来があった。こころが語ったゼロ番目の世界がゆがむ。
 あっ、と息を飲んだと同時に、空が落ちてきた。
 視界が暗転する。意識は遠くかなたへ——