その瞳は氷のように冷たく、白けるようにして媚びを売ってきているはずの千田莉子を見ている。

 千田莉子はその視線が場所的に見えていないらしく、河野由夏に冷たい目を向けられながらも笑って清水照道に「誰だよ〜」と笑いかけていた。

 他人事とはいえ、同じ場所にいるのも辛い。私は扉への足を速めた。しかし「樋口さん」とはっきりとした声が聞こえてきて、反射的に呼ばれた方へ目を向ける。

「樋口さん、だよ」

 清水照道がへらへらとした、嘲笑するような目でこちらを指さしていた。

 奴の言葉に教室が静まり返り、時間が止まったような錯覚すら覚える。河野由夏ですら目を丸くし、きょとんとした顔で私を見ている。

 普段騒がしい野球部の奴らも、口をぽかんと開けたまま私や、清水照道を見ていた。

 教室の隅でアニメや漫画の話をする男子たちも、ひっそりと何かの会話をしている女子たちも、私か清水照道に注目して固まっている二種類しかいない。私もどうしていいか分からない。頭が真っ白で、たた周囲を見ているだけだ。

 そんな私たちをよそに、最も早く動き出したのは千田莉子だ。奴は大きく仰け反りながら「びっくりした〜ちょっとガチっぽいテンションだから返事に迷ったわ」と清水照道の肩を叩く。先ほどまで千田莉子を睨んでいた河野由夏も合わせるように「本当だよ」と笑い出した。清水照道はすかさず「マジだって、一目惚れだから」と馬鹿にした笑いをしながら私に背を向け、大げさな手ぶりや身振りをする。

「ねえ、樋口さーん。照道樋口さんのこと好きだってー!」

 それまで皆と同じように固まっていた寺田が、腹から響かせるような声を発した。

 清水照道以外の目が、こちらに集中する。何かを言うことを、求められている。心臓がばくばくして、声が出せない。無理だ。何も言えない。

 胃からせり上がる吐き気を感じていると清水照道が「やめろよ、告白はちゃんとするからお前がすんな!」と寺田の口を塞いだ。私は咄嗟に教室を出て、走って逃げたなんて笑われないよう、教室を通り過ぎるまで歩いてから廊下を全速力で駆け出していく。鞄を下げ、登校してくる人間をすり抜けていく。朝練から戻ってきて、汗を拭きながら教室に向かう生徒とすれ違いながら、トイレへと駆け込む。朝という時間帯もあってか、髪を整える生徒はいない。

 そのまま一番奥の個室に飛び込んで、鍵を乱雑に閉めて呼吸を整える。

 もう。周りには誰もいない。それなのにげらげらと笑う声が、耳に木霊する。それがいつのものなのか、昔のものと混ざっているのか分からないけど、今確かに分かるのは、清水照道があいつらと同類だということだ。

 もしかして、保健室に連れて行ったり、ノートを取ったのは馬鹿にするためだったのかもしれない。いや絶対にそうだ。だって、そうじゃなきゃ家族以外で私に親切にしようと考える人間なんて、この世界にいない。

 元から、あいつはおかしかったんだ。私が上手く話せないことについて、奴は何も言ってこなかった。

 ああいうタイプの奴は私が上手く話せないと、必ず真似をして馬鹿にする。私がどれだけの苦労をして言葉を伝えようとしているか考えもしないで、馬鹿にして楽しい玩具だと認識する。

 頭の中がぐちゃぐちゃで、お腹の奥もぐるぐるして気持ちが悪い。ばしんと、握りこぶしを太ももに落とす。

 なんなんだあいつは。最悪だ。やっぱりあいつも、敵だ。

 何度も何度も。私は太股を叩く。全部を誤魔化すみたいに。

 昨日、そして朝に抱いていた清水照道への感謝の気持ちが、クレヨンの黒で絵をぐしゃぐしゃに潰すように消えていく。私はそのまま授業開始の鐘が鳴るまで、ずっと一人でそうしていた。