時計を見ると、もう昼休みの時間はとうに過ぎて、五時間目が始まっている時間になっていた。自分のスマホから動画を開くと、動画は再生されるがまま。動画のタイトルは無題で、説明欄には拡散希望と記されている。これは、あいつが書いたはずだ。あいつは、私をずっと、助けようとしていたのかもしれない。

 思えば奴は、私を音読から遠ざけようとしたり、山でいなくなれば探しに来た。三浜木が近づいて来たら私をかばい、合唱コンクールの日は、三浜木がいないことをわざわざ伝えてきた。

 樋口さん大好きと、ふざけて笑うような行動さえ取らなければ、あいつはいつも私を助けようとして動いていた。あれさえなければ、私をつまんねえから面白くしてやろうというあの発言さえなければ、私は奴に心から感謝をしていただろう。

 もし、あれに何か意味があったら。

 そう考えていると、萩白さんは「ねえ、樋口さん」と私を見た。彼女のほうへ顔を向けると、彼女は俯き「ごめんね」と震える声で言った。

「え」

「安堂先生が、来たとき君をきちんと庇えなかった。だからごめん」

 萩白さんの言葉に頭を横に振る。萩白さんは私を助けようとしてくれた。謝る必要なんかない。でもその言葉すら伝えられなくて、歯がゆさを感じながら何度も頭を横に振る。

「いいんだ、私は、あの時勇気が出なかった。安堂先生を見たとき、正直足がすくんだよ。怖かった。あと一歩が、踏み出せなかった。ここから、立ち去りたいと思った」

 萩白さんは俯く。そして「安堂先生に、どうして私がこうなったかは、聞いた?」と私を見た。首を横に振ると、彼女はため息を吐くようにして視線を落とした。

「私は、放送部員なんだ。将来の夢がアナウンサーで、中学の頃は賞もとったりして。でも言われたんだ。去年安堂先生に、萩白さんは発声してるとき、個性的で素敵ね、って」

 俯き、何かを書くように、一つ一つ確かめるように話をしていく。そうして、きっとそれが原因で、最初のきっかけだったのだと直感的に分かった。

「先生の言葉に、皆が私の真似をしたよ。周りの人は笑ってて……楽しそうに、本当に、心から娯楽を得たかのように。そうして、私も笑って流せればよかったんだけど、私は笑われることが怖かった。嫌だった。笑えなかった。だから鏡の前で発声練習をしたり、親に見てもらって練習をした。でもあの光景が蘇るばかりで……結局喉を傷めて、そして、マスクをつけた」

 萩白さんは自分のマスクに手をあてた。そして、静かに顔を上げる。

「それまでマスクをつけたことがないわけじゃなかった。風邪を引いたり、次の日が大会の日はマスクをして寝てた。でもマスクをつけた日、今までずっと不安だったものが、穏やかになっていく錯覚を覚えた。……それからマスクをつけるようになった。風邪なんて引いてなくても、家に、カバンの中にマスクのストックがないと落ち着かない、家以外でマスクを外すことが怖くなって、コンビニで買い食いをすることすら、恐ろしくて控えるようになった」

 ある日出来ていたことが、出来なくなる。その気持ちは、少しだけわかる。昨日言えていた言葉が、うまく言えない。昨日言えなかった言葉が言えるようになることより、昨日言えた言葉が言えなくなる恐怖のほうが、いつだって強い。萩白さんは、私と似ている、そんな気がする。少なくとも、なんとなくだけで私の恐怖と萩白さんの恐怖は、同じ方向にある気がした。

「私はマスクを常につけるようになりました。マスクをつけている間は、本当にいつも通り、前のように何の苦痛もなく話をすることが出来る。でも、マスクがないと、どうしても声が出てくれない。耳をふさぎたくなって、どうしようもなくなる。だからマスクをつけてた。でも安堂先生に言われたんだ。あなたはいつもマスクをしている、英語の授業は朗読があるから発音もあるし、取ってほしいって……、困ったよ。朗読を、英語の発音をするためには、マスクが必須です。でも、授業に出ると、マスクを取れと言われる。だから、英語の授業に出なくなった。そして、安堂先生にどうして自分の授業に出ないのか、そんなに自分のことが嫌いかと、言われて、授業全部に出なくなれば、安堂先生は何も言ってこないと思って、私はここに、いるようになった」

 なんとなく、萩白さんの姿が、中学の時の私と重なった。私も、そんな風に言われたら、きっと授業に出られない。限定的になら話ができる萩白さんを、どうしても羨ましいと思ってしまう。でも、萩白さんは限定的にしか話が出来ない自分が苦痛なのだ。そんな私がかけられる言葉が、果たしてあるのだろうか。

 黙っていると、萩白さんは立ち上がる。そして、私に顔を向けた。

「だから、私はずっと、弱い。誰かのためならと思ったけど、結局弱いままだった。君は話すこと自体苦手なようだから、私はどこか、助けてあげなきゃと思うと同時に、優越感を抱いていたところだってあったんだ。自分より、話すことが辛い子がいるって、なのに、そんな醜い考えを持っていたのに、どうしても、逃げてしまった。だから、ごめん」

 萩白さんは、私の目の前で、頭を下げる。それを止めさせるように、その肩に手をのせた。

「に、にに、逃げても……いいと、お、お、おーもいます」

「え……」

「お、お、お母さんと、おー父さんが、い、言うので、わ、私に」

 きちんと言いたいのに、上手く言えない。すると先輩は「ありがとう」と静かに顔を上げる。

「いいお母さんと、お父さんだね」

 その言葉に、頷く。だから、私は二人に心配をかけたくない。ぎゅっと先輩の肩に乗せていないほうの手を握りしめると、保健室の扉を開く音がした。振り返ると、お父さんとお母さんが立っている。昨日までは楽しそうに、合唱コンクールが良かったと話をしていたのに今はひどく傷ついた顔だ。その顔を見ていると涙がこぼれる。二人は私に駆け寄り、そのまま抱きしめた。

「萌歌、もう大丈夫だよ」

「お母さんとお父さんがついてるわ」

 二人は、私をしっかりと抱きしめる。二人を心配させたくない。させたくないのに涙は止まらなくて、私は二人に抱きしめながらずっと泣いていた。




 それから、私はお父さんとお母さんと一緒に、学校の裏手の門から家に帰った。正門からじゃないのは、もしかしたら見物に来たり、マスコミの人が来るかもしれないとの蔵井先生の言葉からだ。先生たちとお母さん、お父さんが何の話をしたのかはわからない。けれど私は一週間ほど学校を休み、その欠席は学校都合として欠席とは処理されないという話になっていた。そして私は、お母さんとお父さんと家に帰り、テレビを見て愕然とした。

 テレビをつけ、流れていたのは夕方のニュース。けれどそこに、モザイク処理をされて清水照道の動画がのっていたのだ。

 声は、加工されている。名前を言っている場面には、別の音声が重ねられている。アナウンサーやキャスター、コメンテーターの人が苦々しい顔で、学校側の今後の対応や、被害者の処分について、話をしていた。

 お父さんは「そんなもの見なくていいよ」とすぐにテレビを消した。お母さんとお父さんに、清水照道について話をしようと思った。でも二人は、清水照道がこの件の主犯だと考えているらしい。今日はもう、ご飯を食べて寝たほうがいいと私に弁明する暇は与えられなかった。

 お父さんやお母さんは、今まで私が、清水照道に虐められていたのを隠していたと考えているようだった。現に「七月には傘を無くしていたでしょう」とお母さんに言われてしまった。その後すぐに清水照道に入れてもらったことを言おうとしても、お母さんとお父さんはこれからのことを話すばかりで、聞いてくれなかった。そうして、お風呂に入ることを促されて、私は部屋に入るよう言われた。

 お母さんとお父さんは、二人で話をするらしい。

 私は当然眠れず、ベッドに横たわりスマホを眺める。呟きサイトのトレンドにも上がっているらしく、皆があれこれと呟いている。一つ、批判的で、それでいて諦めも含むようなつぶやきが目に入った。

『どうせこうして名前と住所拡散しても、家庭裁判所で名前変更の申し立てして、引っ越しして終わりでしょ。こんだけの騒ぎになれば許可だって下りるし』

 どこにでもいるような、猫のアイコン。その言葉に、頭の中が真っ白になった。震える手でスマホを操作しながら、名前の変更について検索を始める。

 人間の、名前を変える。そんなことできるのかと調べると、確かに生きていくうえで困ってしまう名前の人が、名前を変更するために裁判所に言って、審査の末変えてもらうことはあるらしい。

 このまま、もしこのまま、事態が収まらなかったら。

 清水照道は、どうなる。名前を、変えるのか。

 奴は、自分の親について、貰ったのは名前くらいと言っていた。その名前を、変えるかもしれない。奴が照道という名前を気に入ってるかはわからない。でも、親を心の底から憎んでいるとか、自分の名前を嫌うような様子はなかった。

 動画サイトを見ると、動画は相変わらず拡散され続けている。この動画を投稿したのは、清水照道だ。あいつが消さない限り、この動画は消えない。それにこの動画が消えても、もうこの動画はいろんな場所に転載されているかもしれない。このままいけば、あいつは自分の名前を変えることになる。

「助けなきゃ」

 どうしよう。でも、どうやってすればいいのか分からない。動画のコメントを見ていると、瞬く間に更新される。死ねばいい、消えろ、うざい。全員死刑でいい。見ているだけで苦しくなる言葉たちに、目をそむけたくなる。

「あ」

 そのコメント欄の、上のほう。動画のサイトの、トップ画面のアイコン。そのアイコンを見て、ふととあることを思いつく。でも思いついた瞬間、本当に自分に出来るのかと不安に思った。

 目を閉じて、今までのことを思い出す。あいつが、ずぶ濡れになってまで、私に傘を差しだそうとしてきたところ。風邪をひいているのに、山を下りてきたところ。関係ないはずなのに、三浜木に本気で怒っていたところ。

 そして、お母さんとお父さんの悲しむ姿。萩白さんが、自分が弱いと俯く姿。

 みんな、私なんかの為に、頑張ってる。

 私も、私も自分で、やらなきゃいけないのかもしれない。

 私はぎゅっとこぶしを握り立ち上がると、椅子に座る。そしてノートを取り出してペンを握り、机に向かった。