文化祭から次の日は本当にいつも通りだ。晴れ渡る空に、ぽつんと月が浮かぶ。そんな背景を背に四角い画面の中、キラキラした女子アナウンサーが軽快に、流れるように今日の天気を伝えている。
ぼんやり眺めて朝食を食べていると、お父さんがエプロンをつけながら私の向かいの席に座って、みそ汁を飲み始めた。お父さんは、朝はお味噌汁しか飲まない。「ここ最近暑くなくなってきたな」と言いながら、お父さんは天気予報の最低気温にため息を吐く。その隣で私と同じようにトーストを食べていたお母さんが「秋物は出したけど、冬物も少しは出しておくべきかしら」と考え込むようにしていた。
すると、下のほうにテロップが流れた。人身事故が発生したらしい。じっと流れるその文字を見つめていると、路線は私の使ってるものではなく、清水照道の使っている路線だった。
「萌歌、早く出たほうがいいんじゃないのか? この路線が潰れると、萌歌の学校行く線にながれてごった返すぞ」
お父さんの言葉に、トーストをかじる速度を速める。人が多いのは嫌いだ。私は急いで隣にあったオレンジジュースを飲みこみトーストを流すようにすると、鞄を持って家を出た。
お父さんの予想通り、私の使っている線路は混んでいた。朝起きて、少し経ったころまでは、いつも通りの朝だなんて考えていたけれど、いつも通りなんてものじゃない。ホームには既にどう並んでいるか先頭や最後尾が分からないくらい並んでいて、電車の中は降りていく人なんか全然いなくてぎゅうぎゅうに詰まっていて、工場で流されるベルトコンベアみたいに自分の意志では動けず無理やり動かされるように電車にのった。ただ幸いだったのは私の降りる駅、学校の最寄り駅がほかの路線とつながる駅で、大多数の人がそこで降りたから、私もその流れに沿うように降りることはできた。もしも私以外降りる人間がいないような駅であったなら、私は確実に降りれなかっただろう。
ほっと胸を撫で下ろし、窮屈だった肩を伸ばすように歩いていると、相変わらずいつもどおりの住宅街が立ち並んでいるのが視界に入る。
イヤホンを耳につけ音楽を聴いているふりをして、じゃりじゃり服がイヤホンのコードにこすれたり足を動かす音を聴きながら学校に向かって歩く。今日はいつもより人が少ない。私はなるべく人のいない道、人のいない時間を狙ってはいるけど、やっぱり同じことを考える人はいるわけで、周りに誰もいないことはさすがになかった。
でも、今日は周りに人がいない。私の前をうっすら男子生徒が歩いているのが見えるだけだし、後ろも本を読みながら歩く女子生徒がいるだけだ。前はもう少し、周りに五人くらいはいた。
やっぱり人身事故の影響なのだろうか。考えている間に学校にたどり着いた。靴を履き替え、階段を上り教室へと向かっていく。校舎はところどころ飾りつけされていたり、中途半端に片づけがされていたり、段ボール箱やガムテープが置いていたりと、どことなく別の世界に迷い込んだような、いつもと違う世界に感じた。
私のクラスは荷物置き場として使用されていたらしく、特に段ボールを置かれていたり、飾られていたりはない。いつも通りの教室の姿を見ながら、前の席を警戒しつつ後ろのロッカー側から扉を開く。その瞬間、べちゃりと固形のような何かが、降るように飛んできた。
「樋口さん誕生日おめでとー!」
嘲笑するような、声。
たぶん、河野由夏や、千田莉子の声だ。とりまきたちもいる。視界がざらつき、何かに遮られて見えない。瞬きをするたびにごろごろと異物のようなものが入る気がして目が痛い。げらげらと笑い声が聞こえる。土や草のような鼻について、それなのか笑われているからなのか、頭がひどく熱くて、痛くて、気持ちが悪い。
「っていうか、泥団子懐かしくない? っていうかナスリココントロールやば。流石バレー部」
「へへ、由夏しいのがやばいじゃん。才能あるよ」
河野由夏と、千田莉子。二人ははしゃぐように、「せーの」と息を合わせたような掛け声をすると、また土の匂いが強くなって頭や顔の質量が重くなる。手で頭をかばっても、すりぬけるように泥団子がかかった。
「何かさあ、照道と手え繋いで帰っちゃってたけど、あんたもしかして勘違いしてんじゃない?」
河野由夏の言葉に、はっとした。あの帰り道、河野由夏がどこかにいた。そして標的を、千田莉子から河野由夏に変えたのか。
呻くように後ずさると、千田莉子らしき声は「いえーいおめでとー!」と言って、今度は泥か何かを一気にかけてきた。苦しい。息ができない。何なんだ。突然、急に。一体何が起こってる。昨日まで、いやさっきまでいつも通りだったはずなのに。後ずさっているとどんと背中に何かがぶつかった。
「あ、てるみちおはよー! 今樋口さんにサプライズしてんの、今日誕生日だから! 机にケーキもあるんだよ」
河野由夏の心底楽しむような声が聞こえる。嫌だ。もう嫌だ。ここから逃げたい。誰か、誰か助けてほしい。そう思っていると清水照道が「じゃあ俺もまざろっかなぁ!」と、ひと際おどけるように大声を出した。その声に、愕然とする。
まるで、裏切られたみたいな、そんな想い。心の中がぐしゃぐしゃになって、冷えて、目頭がぎゅっと熱くなって、ただでさえべったりとした泥の匂いにつんとしていた鼻が痛くなる。奴は「サプライズならやっぱ撮影っしょ」と言って、スマホのカメラを起動させた音を出した。とっさに奴の声から離れようとすると肩を抱くように掴まれる。
「はーいじゃあ今日はクラスメイトのサプライズでーす! な、嬉しい? めっちゃ記念だよな?」
そう言って、清水照道は何か言えとばかりに私の肩をゆする。私が首を横に振り逃げようとしても、離してくれない。
「で、今日のサプライズを企画したのはー?」
「チダリコと私でーすっ」
けらけらと、河野由夏と千田莉子の笑う声が聞こえる。楽しそうに、まるで人を、人と思っていないような声だ。もう、嫌だ。一刻もこの場から離れたいのに、清水照道は私の肩をきつくきつく握りしめて動けない。
「で、記念すべき一投目は由夏しいで、次がチダリコ? で、その次はてーあげてっ!」
「はーい」
「おっけー」
清水照道は、いちいち何発目に誰が投げたか、わざわざフルネームを繰り返す。そして「撮影者清水照道でーす。じゃあ最後にサプライズパーティー成功ってことで、みんなピース!」と声をかけた。周りの奴は、嬉しそうにはしゃいでいく。すると、動画撮影の終了を知らせるような電子音が鳴って、低く唸るように清水照道は「はい、いじめの証拠動画完成」とまるで抑揚のない声でつぶやいた。
「……てる、みち……?」
河野由夏が呆然とするように奴の名前を呼ぶ。すると奴は「これ、アップするから、全部に」とつぶやいた。そしてスマホを操作するように動かした後、ため息を吐く。
「え、何言ってんの照道、冗談だよね」
「冗談じゃないから。ちゃんと動画サイトにも、全部アップしたよ今」
清水照道は、まるで感情のない声で話す。河野由夏は「え、だって、そんなことしたら……て、照道だって映ってたよね?」と怯えるような声で呟いた。目をこすっていると、徐々に景色が開けてくる。そうして見えたのは、周囲が呆然と、覚えるようにこちらを見ている光景だった。その中で、ただ一人、千田莉子だけがこちらをにらむように見ている。清水照道はそんな千田莉子を指で指し示した。
「本当に、小学生ん時から、なーんも変わってないよなお前。自分がつまんねえ奴だから、いーっつも共通の敵決めて、そいつ虐めて友達を作ろうとする。で、自分の番になりそうだと思ったら、無理やり萌歌にしようってか」
ぼそりと呟く清水照道の言葉に目を瞬く。状況を理解できないでいると、河野由夏が「何言ってんの照道、動画消してよ!」と叫ぶように言い放った。
「何で? お前らにとっては萌歌のバースデーサプライズなんだろ? ネットあげなきゃじゃん」
「何言ってるの……? さっきの動画、照道も映ってるよね? ねえ、絶対問題になるよ。今なら間に合うって、動画消して、ねえ!」
そう言って、河野由夏は清水照道に手を伸ばす。しかし奴は思い切り自分のスマホを壁に叩き付けた。奴のスマホは画面はひび割れて、ランプのような部分がせわしなく点滅を繰り返し、やがて止まる。
「はは。もう電源つかないから無理だわ」
奴は心底どうでもよさそうに笑うと、私の肩をそのまま掴み、自分のパーカーをかけどこかへ連れ去っていく。訳も分からない状態で奴に連れ去られていくと、奴は保健室の前で足を止めた。そのまま奴は扉を開くと、中にいた萩白さんが私たちを見て、息をのんだ。
「何だ、君たち……一体どうしたんだ?」
「すいません、萌歌泥かけられたんです。一緒に洗ってくれませんか?」
「それは別に構わないよ。……君、どこ行くんだ」
「俺はちょっと教室で、やることがあるんで。それと萌歌が今日、ずっとここにいれるよう萩白さんから保健室の先生にお願い出来ませんか?」
「……分かった」
萩白さんが頷くと、清水照道は頭を下げ去っていく。私は訳が分からないまま、ただその場に立ち尽くしていた。