「……た、だいま」

 学校が終わり、夕日を背に受けながら私は家の扉を開いた。

 玄関には私の水色のスリッパと、お父さんの緑色のスリッパが壁に沿うように置かれている。お父さんは、新聞社で新聞を作る仕事をしていて、帰ってくるのが不規則だから大抵私が学校に行く時も、家に帰る時も、お父さんのスリッパは動かない。

 靴を脱ぎ、自分のスリッパに履き替えていると、ぱたぱたとお母さんが赤いスリッパを滑らすようにこちらへやってきた。

「萌歌おかえり。今日はカレーなの。楽しみにしててね」

 確かに、玄関には香辛料のような、独特なつんとした匂いが香っている。

 匂いを辿るようにリビングへと歩いていくと、お母さんは台所に立ち、私が帰ってきたことで一時停止されたであろうカレー作りを再開した。

 とんとんと、包丁で何かを切る規則的な音が響く。

 そのまま何の気なしにリビングのソファに座ると、お母さんは「手を洗ってから」とこちらを振り返った。洗面所で手を洗ってからソファに座りなおすと、お母さんはほんの少し息をのむようにしてから「学校は」と呟く。

「どう? 入学してもう二か月経つけれど……嫌なこととか、気になることはある?」

 お母さんが私を見る。料理をする手は完全に止まっていて、私は静かに首を横に振った。

「そう……。でもね萌歌。嫌なことがあったらすぐにお母さんとお父さんに言ってね。私たちが一番大切なのは萌歌なんだから。嫌なことがあったら逃げてもいいのよ。受け止める必要はないの」

「……だー、だ、……大丈夫」

 私が言葉を発すると、お母さんの目はより一層不安を帯びたものに変わった。

 お母さんは、私がきちんと学校に通えているか、いや……学校でなにかされていないかと不安なのだ。

 何故なら私は小学校中学校と、かなりの日数学校に通わなかった時期がある。一度目は、小学校三年生の時だ。その頃は一年ほど休んで、結局転校した。二度目は中学二年生の頃だ。それから約二年が経っているけど、思い出すだけでも吐き気がする、

 そんな出来事があった私は、小学校と同じように転校をして、転校先の中学に通うことも出来ずフリースクールへと通い、高校を受験した。高校は通信制の高校を受験する話もあったけど、今の高校が駄目なら通信制の高校に入ろうという話になって、今に至る。

 つまり今まで私は、学校で、勉強をすることよりもずっと多く嫌な目にあってきたのだ。だからお母さんは不安に思っている。

 また私が嫌な目にあっているんじゃないかと。

 確かに私は今、学校が好きじゃない。むしろ嫌いだ。でも、中学や小学校の時より環境的にはましだと考えている。あの頃は酷かった。毎日叩かれたり、押されたり、悪口を言われ、真似をされた。物を壊されたりすることだってあった。そう考えると、何もされていない今の環境は、ましだ。

「ねえ、萌歌。あなたまたいじめに……」

 お母さんの言葉を遮るように、首を横に振る。

 そして私は何度も声に出そうとして、空気を吐くことを繰り返しながら「大丈夫」と念押した。そのまま話を変えるために、今日の転校生のことを話題に出そうとするけれど、上手くいかない。お母さんは私の言葉をきちんと待っていて、その様子は私がすらすらと声を出すのを懇願するように見えた。

「……きょーう、転校生が、きーたよ」

「そうなの? 女の子?」

「お、お、男」

「この時期に、珍しいわね……」

 お母さんが複雑そうな表情でカレンダーを見た。そこには日付を知らせる文字列の上に、切り取るように撮られたスターチスの花が咲いていた。

「仲良くなれるといいわね」

 そんなこと出来ない。誰であっても。それはお母さんにも分かってほしいと思う。

 私はお母さんを不安にさせないよう、曖昧に頷きながらカレンダーを見つめていた。