この恋を殺しても、君だけは守りたかった。


 一緒に帰ろうとこいつが誘ってきたとき、私を馬鹿にする為だと思っていた。

 でも今、馬鹿にされる恐怖ももちろんのこと、得体のしれない人間に腕を引かれるという恐怖のほうが勝り始めている。

 このままついていっても、いいことなんて起きない。むしろ嫌なことしか起きない気が学校を出る前からしていた。けれどこの男が、私の想像を越えた、違う何かをしてきそうな気がしてならない。

「……ちょ、ちょっと」

 目の前を走る男に、意を決して問いかけようとすると、清水照道は不自然に足を止めた。

「ついたよ、俺のお気に入りの場所」

 清水照道は私の腕から手を離す。「樋口さん、ほら見てよこの景色」と言って、前方を指で示した。

 言われたとおりにして視界に入ってきたのは、赤に近い、血のようにも見える濃いオレンジと、べったりした黒い木々。そしてその景色を囲うように新部られたベンチたちだ。

 清水照道の連れて来たかった場所というのは公園のことらしい。

 ベンチと、水飲み場、トイレだけが置かれた簡素な公園で、遊具と言われるようなものは何一つなく、子供もいなければ、周囲に人の気配がない。音もほとんど無く、烏の鳴き声もしない。

 何だここは。

 遠くに見えるのは、古びた団地だ。同じ団地がいくつも並び群れを成しているみたいで、新しさはなく威圧感がある。

「結構景色良くね? いいでしょ」

 清水照道は嬉々として周囲をぐるりと見渡す。視界は、開けていると思う。周囲とはわずかに高低差があるのか、高台のようになっている。けれど周囲は木々が生い茂り後ろに団地の群れもあることで、空も、その下のの街並みも見えているのに開かれた感じは無い。

 こいつが、この場所を好きだということに対して、酷く違和感を感じた。

 私がこういう場所を好きだといえば、満場一致でらしいという答えが並ぶだろう。

 しかし清水照道は生粋のウェイの人間だ。日差しに生き、毎日がパーティーですみたいな人種のはずだ。人の好みは自由だとは思うけど、どうもしっくり来ない。それにお気に入りの場所だと言いつつ清水照道はスマホを操作して、まるで何かを監視するように鋭い眼を画面に向けている。

 不審に思い見つめていると、奴はこちらを見ることなく「他の奴突然来たりしないから安心してていいよ」と、教室での状態が嘘みたいな、驚くほど淡々とした声で呟いた。

 相手が私だから盛り上げたり笑わせる必要がないというのは十分理解できるけど、その声があまりに温度がなく、一歩退く。

 すると清水照道はその距離を埋めるようにこちらに近づき、私に向けてスマホを見せてきた。
「ほら、クラスの奴、俺ら探してるみたいだけど、駅の通りにいるっぽいから」

 ぼそりと「だから絶対ここなんか来ない」と続けて、馬鹿にするように低く鼻で笑う。その笑顔が苦しそうで、自分で首を絞めているみたいに見えて、私は手のひらを握りしめた。

「……お、お、お前の目的は……な、……何だ」

「樋口さんと仲良くすること!」

 私と、清水照道の間に、まるで秋風のような冷たく強い風が吹いた。枝から零れるように落ちた葉が、隙間を縫うように通り過ぎていく。

「そ、そ、そーんな訳、ない……だろ」

 私と、仲良くなりたい人間が学校の中にいる訳ない。

 学校はクソみたいな場所で、通ってるやつらはみんなクソだ。人の気持ちも知らないで、勝手に話し方を真似して笑いものにしたり、馬鹿にしたりする奴らしかいないところだ。

 清水照道を睨むと、奴は怯むこともなく自嘲気味に笑って私を見る。

「いいよ」

「……は?」

 酷く、遠いものを見るように清水照道は私を見る。私の背後には夕日が沈みかけているらしく、奴の明るい髪に、温かみのある色が差した。対照的に周りの景色は黒く沈み、どんどんと色を失い影になっていく。

「萌歌は、それでいいから」

 まるで自己完結をするように言ってから、清水照道は続けてまた静かに囁く。私はその言葉が聞き取れたものの、こいつがそんなことを言うはずもないと思いなおして、結局意味が分からないまま奴を見ていた。


 鞄を背負いなおしながら歩き、空を見上げる。昼間は白かった雲が夕日を受けて、灰色や鬱陶しさのないピンク色に染まりながら浮かんでいた。

 今日は、本当に長い一日だった。あいつのせいで。

 あの後、清水照道は私に「ベンチに座ってなよ」なんてベンチに座らせた後、黙ったままだった。

 その後、二十分くらいしてから唐突に「あいつら帰ったっぽいから帰るか」と言って、あっさりと私を解放した。

 てっきりそのまま解散になるかと思ったけど、結局駅どころかホームまで来て、あの団地に囲まれた公園が幻であったかのように、ずっとへらへら笑っていたのだった。

 あいつは一体何なんだ。

 六月の変な時期に転校してくるような人間にも見えないし、馬鹿みたいに明るいかと思えば訳のわからない廃墟じみた団地の近くの公園に人を連れていく。

 憑りつかれてんのかあいつは。

 というか、明日には私で遊ぶこと、飽きてくれてないだろうか。

 あいつに構われていたら、きっとどこかで私がどもっていることが河野由夏らにバレてしまう。

 ……いや、清水照道の前で、私は何度も詰まったりしていた。あいつは特に反応を示すこともなかったから私も気に留めていなかったけど、私は今日、あいつと話をした。

 また、前みたいに馬鹿にされるんじゃ……。

 足が止まり、地面を見つめる。体から一気に血の気が引いて、体温がすべて地面に吸い込まれていくような錯覚を覚える。

 明日、絶対河野由夏たちは今日のことを聞くだろう。そして清水照道はそのまま話をする。嘘をつく必要がない。

 ……でも、清水照道は、今日の音読のとき、変な動きを見せた。

 音読を続け、私が読み上げていないのに、読み上げたと言った。

 私が音読を嫌がっていることを、察したかのように。

 しかし、先生に怒られないために嘘をついたと考えることができる。けれどあいつが、先生に怒られることを気にするような人間だろうか……?

 明日が来ることは怖い。でも、心が恐怖に占められることもなく、私は明日も無事に学校に通えることを祈りながら、夕焼けの道を歩いていた。
 清水照道に連れまわされた次の日、要するに今朝、私は寝坊をした。

 私の起きた時間は本当に遅刻ぎりぎり制服に着替えたり、お母さんからお弁当を受け取る間も走っていたし、お父さんとトイレのタイミングがバッティングしたりして、大変だった。

 教室に到着すると、清水照道と河野由夏率いるクソキラ軍団は黒板の教卓のところに集まり、楽しそうに流行りの動画の転校生話をしていて、私に気づいた清水照道による「おはよ、今日もかわいい!」とふざけた発言はあったものの、以降、特に……言葉についてからかわれることはなかった。

 清水照道は、もしかしたら昨日の私について、気に留めていなかったのかもしれない。

「本当今日眠い、っていうかチダリコ白目剥いてなかった?」

「いや剥いてないし!」

 だから今、一時間目を前にして、机に伏せながら河野由夏らの会話を盗み聞いているけど、今なお私の話の仕方や、どもりについて話題にする素振りはない。昨日清水照道とを追いかけていた際、千田莉子が笑いすぎて飲み物を噴出した話や、駅前のハンバーガーショップで誰かがバイトを始めたから食べに行く話、寺田の姉が怖いという話や、寺田の住んでいる地区と清水照道の前に住んでいた家が近かったことの話をしているだけだ。

 特に寺田の住んでいる地区は、話を聞いてる分で判断すると私が高校入学前にカウンセリングに向かうため使用していたバスロータリーがある場所みたいだ。もう二度と行けないし行きたくない。

 そうしてウェイの奴らはどうでもよさそうな話ばかりしている。時折私とどこに行ったか清水照道は質問を受けているが、「ゲーセン」や「カフェ」など虚偽の報告を繰り返し、どんな様子であったかも話しているが「超かわいかった」「後もう少しで手を繋げそうだった」など幻覚を訴えていた。

 昨日も、どもっていたことに気づいていなかったのだろう。

 でも、もし気付いていたら、きっとあんなウェイでパリピの、リア充みたいな人間は秒で馬鹿にしてくるはずだ。私に対する受け答えを真似して、げらげらと下品に笑うはず。今までそうだったし、あいつだけ違う反応を示すことなんてありえない。現に今だって「樋口さんと行くのにおすすめの場所ない?」と半笑いで周囲に訪ねて、河野由夏らは馬鹿にした表情で清水照道を笑っている。

 話の矛先が、こちらに向かう前に逃げよう。トイレにでも行こう。

 顔をあげて、椅子の音を出さないように立ち上がり、教室を出ていく。

 キラキラクソグループたちは清水照道と私の話題から流行りの写真が綺麗に撮れる場所へと変わっていて、私が動いていることに気付く様子はなかった。



 トイレの流し場で手を洗い、ハンカチで手を拭く。私の後ろに立つクソ共に頭を下げつつ、トイレから出ていこうとすると、私の後ろで会話を続けていた女子たちは鏡の前で髪をこね回すことを再開した。

 その様子をちらりと盗み見て、自分のことを話題にしていないか確認してからトイレを後にする。

 時間はまだ次の授業まで余裕がある。どこで時間を潰そうか考えながら歩いていると、ふいに生徒が校門のほうから校舎へと歩くのが見えた。

 確かあの人は、二年の先輩で保健室で勉強をしていた人だ。何の気なしに見つめていると、その先輩は校舎を横切るようにして職員専用の昇降口へと入っていった。

 もしかして、あの先輩は保健室に登校しているのだろうか。

 そう考えると、僅かに昔の記憶が蘇りはじめた。私は廊下の端から視線を逸らし、教室から逸れるように歩いていく。図書室にでも行ければいいけれど、一度行ったとき二年生や三年生のギャルとかヤンキーみたいな集団がたむろしていた。だから行けない。

 ため息を吐きながら廊下の隅をなぞるように歩く。すると、廊下の角、行き止まりの廊下に差し掛かったところで聞こえてきた声に、足が止まった。

「昨日はありがとね。話聞いてもらっちゃって」

「べつにぃ〜。だって由夏しぃの頼みじゃん?」

 河野由夏の声と、そして、清水照道の声だ。

 どうやら、空き教室で話をしているらしい。それなら、私は別に移動しなくてもよかったのに。

 その場を立ち去ろうとすると、反対方向ではペットボトルを立たせ、テニスボールを使ったボーリングが始められていた。通れそうな気配がない。慌てて廊下の隅に置かれた掃除ロッカーの陰に隠れると、また中で話が聞こえてきた。

「チダリコにはそーいう話できないじゃん? 寺田も馬鹿だし」

「はは、言うねえ由夏しぃは〜」

「え、だって間違ってないでしょ?」

 河野由夏は「え、間違ってる?」と半笑いで尋ね、清水照道はさっきからその受け答えが楽しいのかケラケラと笑っている。すると河野由夏は、「そーいえばさあ」と話を転換するような声を出した。

「樋口さんネタ始めたときびっくりしちゃった」

「なんで?」

「だってさあ、歓迎会のカラオケの時樋口のことあんなつまんなそーな奴見たことないって言ってたし」

 聞こえてきた声に、体からすっと血の気が引いた。一瞬時間が止まったみたいになって、慌てて我に返る。

「ああ、言ったねえ」

「面白そうって推してたチダリコ引くくらい切り捨ててさ、あれはあれで超面白かったけど〜」

「なんか面白くできねえかな〜と思ってさあ。音読の時とか周り見た? えっ! なんで樋口と! みたいな顔してんの、超うけるよ。つううかチダリコの反応もすごかったじゃん?」

 清水照道は、笑いながらすらすらと流れるように話をしていく。

 さっき握り締めた拳に、さらに力が入って爪が食い込んだ。

 ……馬鹿にしやがって。

 なにが「何が面白くできねえかな」だ。私はお前らを楽しませるお笑いコンテンツなんかじゃない。

 奴は、笑いに生きているのだろう。他人を笑わせること、人と自分が楽しいと思うことが全てだ。趣味はお笑いとか、そう言っていた。そこに私の感情は絶対に入らない。あいつらにとって私は人間じゃない。玩具だ。

 清水照道は、住む世界が違う。私は日陰で生活をする者で、あっちは太陽の下、光合成をして生きているような人種だ。

 人生勝ち組が決定している奴が、ぼっちの負け犬の私を構い倒す光景。その様子は通常ではありえないことで、どこもかしこも異常で、変。だからあいつらは面白がって笑う。

 でも、私にとってのそれは面白いことじゃない。全然楽しくない。笑いものにされ、玩具にされることが楽しいはずがない。

 奥歯をかみしめていると、ホームルームを知らせる鐘が鳴った。二人は教室を出ていき、ボーリングをやっていた集団もいそいそと片づけを始める。私は全員が消えていくのを見計らって、ロッカーの陰から出た。

 なんで私が、こそこそ隠れなきゃいけないんだ。

 廊下でボーリングしてるやつもクソだし、人のこと馬鹿にしてる河野由夏もクソだし、人のことを玩具にする清水照道もクソだ。最悪だ。みんな死ねばいいのに。

 教室へ向かって、一歩一歩踏み込む力が強くなる。音を立てて変に思われないように調整しても、思うようにいかない。

 真っ新な廊下の面を睨みながら歩いていると、廊下の曲がり角のところ、ちょうど照明が落とされ暗がりが出来ているところから腕が伸びてきて、一気に捕まれた。


「……っ!?」

 清水照道がこちらを私の腕を掴みながら、じっと見ている。その目はふざけているようにも見えず、でも何か強い意思を感じて逸らすと、奴は私の腕を離すことなく「……聞いた?」と呟いた。

「……な、な、な、何がだ」

「聞いてたでしょ。さっきの話」

 まるで能面のように感情がない顔に、足が震えた。なんて返事をしていいか分からないでいると、「別にいいよ聞いてても」と、捨てるように言い放つ。

「……どういう、意味だ」

「意味が分かったところで、何も変わらないから。……じゃあ、先教室戻ってるな、萌歌ちゃん」

 清水照道は昏い目でそう言ってから、一瞬にして表情をいつものふざけた顔に変えていく。そして私を通り過ぎ、軽やかな足取りで教室へと駆けていった。

 何なんだ。あいつは。

 私がそれを聞いたところで、あのふざけた振る舞いは継続するということか。

 ふざけやがって。

 お腹の奥が、煮えるようにむかむかする。いくら拳を握りしめても、奥歯を噛みしめても全然収まらない。

 ……復讐してやる。

 今まで、人に何かをされてきて、死ねと思うこともあったし、殺してやると思ったことだって何度もあった。学校が無くなって、全員消えろなんて思うことはしょっちゅうだった。でも、今私は、明確に清水照道に対して、私が奴を苦しめてやりたいと思った。

 あいつはウェイで、生粋の陽キャで、リア充の勝ち組にいる。だから、ぼっちで、生粋の陰キャで、何も得意じゃない私を馬鹿にして、見下しているのだ。何もできないと。

 でも、いつかその甘さの隙をついて、苦しめてやる。人のことを玩具扱いさせた後悔をさせてやる。

 飄々として、教室へと走る清水照道の背中を、思い切り睨む。

 私は、私はいつかあいつに、最低最悪の、復讐をしてやる。

 授業が終わり、即座に顔を伏せる。

 次の時間は、終業式。それが終われば帰れる。明日から夏休みだという一方で、七月の窓の外に梅雨明けの兆しはない。

 こうして机にふせていても窓を叩く雨の音が聞こえる。教室の中を濡らさないよう窓は閉じているというのに、隙間から湿った空気が入ってきているのか、教室はどこかじめじめしていた。

 うんざりとしていると、その憂鬱さをさらに強める大きな足音がこちらにやってくる。その足音の主は、私の席に半ばぶつかるようにして私の机の前に立った。

 今目の前にいる人間は、顔を見なくても、誰か分かる。だからこそ、私は伏せる首の力、顔を隠す腕の力に全力を注ぎ、寝たふりをした。

「ねー萌歌何で寝てんだよー。起きろよー。もしかしてキス待ち?」

 目の前の人間は、私の頭に触れそう言い放つ。周囲の不特定多数の人間たちが一斉にくすくす笑い始めた。

「あはは! 照道ウケる、マジ馬鹿!」

「本当最高だよねえ、樋口さん大好きごっこネタ!」

 ……クソ、本当クソ、皆死ね。

 心の中でひたすらに周囲を呪う。いや、周囲じゃ無くこのクラス全員。特に目の前に立つ人間を重点的に呪い、私は顔を伏せたまま瞳を閉じる。私が一切の反応を示さないことにしびれを切らしたのか、清水照道は「駄目だぐっすりだ。静かに寝かせてあげないと」なんて声を潜めるようにして遠ざかっていった。

 私の周りで起きていた笑い声も、徐々に別の話題へと移ろいで、周囲はいつも通りの騒音に戻っていく。

 清水照道。奴が転校してきて、一か月。そして私を好きだというふざけた行いが始まって二週間。奴がそれに飽きる気配は、見えない。

 それどころか、日に日に悪化の一途をたどっている。最近では駆け寄って来て「今日も大好き!」と言い、事あるごとに私を「可愛い」と持て囃し、何かにつけて「俺と萌歌は将来〜」なんて、辿りつくはずのない未来についての世迷言を語る。最悪だ。

「ナスリコー! ジュース買いにいこー!」

「分かったー!」

 河野由夏が、千田莉子を呼ぶと、椅子がガタンと音を立てて、忙しない音が教室に響く。千田莉子は先週の家庭科から、「チダリコ」というあだ名から「ナスリコ」というあだ名に変化した。

 先週夏休み前半に行われる校外学習のキャンプの練習にと、調理実習で夏野菜カレーを作ることになり、そこで黒板に書かれた茄子の字が莉子と似ているとか似ていないとかで「あれ何? 莉子? 茄子?」と茄子という漢字が読めなかった寺田が言ったことがきっかけだった。

 ナスリコなんて、どう考えても馬鹿にされてるあだ名だろうと思ったけど、どうやら楽しいことらしく千田莉子は笑っているし、皆も笑っている。

 変化は他にもある。教室は、まとまっていたグループたちが再編されたり分裂したりして、夏休みを目前に落ち着いた。

 今は河野由夏、清水照道が率いる男女混合のクソキラグループと、そのクソキラグループを囲うようなグループ、真面目な吹奏楽部女子で集められたグループ、音楽が好きな男子で集まったグループ、そしてオタクグループが点々と混在し、ぼっちの私がいる状態。

 周りは変化をしているのに、清水照道は飽きずに私を玩具にしてくる。

 馬鹿にしているのだ。私を。だからいつか、人を玩具にした報いを受けさせてやる。そう決めて、しばらく経つ。

 けれど具体案は浮かんでいない。でも、やる気はある。奴を苦しめて、後悔をさせてやる。地獄に落とす。

 私は机に伏せ、どうやって復讐するか、今日まで答えの出ない想像を始めていった。
「明日から夏休みだけど、校外学習もあるから、皆ちゃんと生活リズムはキープしたままでいてね。それと雨が強くなってきたから、早く帰ること。明日から夏休みだからって浮かれないで!」

 終業式も終わり、とうとう帰りのホームルームも終わった。

 安堂先生が幼稚園児や小学生を相手にするかのようにクラスのみんなに話しかけている。先生は私たちを子ども扱いする割に、河野由夏の「えー席替え? だるーい」という一言に屈し、席替えをする気配はなく、とうとう夏休みを迎えようとしていた。

 一方でクラスの男子たち……オタクグループや、自分が顧問を務める吹奏楽部の女子たちには比較的先生らしい姿を見せている。河野由夏たちはそれでいいのだろうが、ほかの生徒はたまったものじゃなく、この間女子トイレで悪口を言われているのを聞いた。

 夏休み、清水照道らに会わなくて済むのも嬉しいけど、安堂先生に会わなくて済むのも嬉しいと思う。

 そんなことを思いながら教室を出て、階段を下りていく。そして下駄箱近くの傘立てから自分の傘を取ろうとして、動きが止まった。

 傘が、ない。

 立ち止まる私を押しのけるように、同じクラスや他のクラスの人間たちが、どんどん自分の傘をそこから抜き取っていく。束になった傘たちはどんどん減っていき、探しやすくなるというのに私の傘だけがどこにも見当たらない。

 嫌がらせ……?

 ふいに昔の記憶がよみがえった。土砂降りの日に、傘を目の前で折られて、昇降口の外に押され、地面に向かって突き飛ばされる。泥でぐちゃぐちゃになって重たくなった制服、鼻につく土臭さ。頭が真っ白になって、どう立ち上がっていいかすら分からなくなったあの光景が、目の前にあるかのような錯覚を受ける。動けないでいると、後ろから湧いて出てくる騒ぎ声にはっとした。

 朝は、きちんと傘をさしてきた。

 だから忘れたなんてことはないし、探しやすいように一番端の、奥まったところに差し込んでいたはずだ。ビニール傘ではあるけれど、誰かと間違えることがないために、赤のビニールテープで二重のラインを引いている。

 その傘をさしている時、誰かと会った覚えもない。

 私がどんな傘を持っているかを、嫌がらせをしてきそうな奴らは知らないはずだ。嫌がらせを受けたのではなく、盗られた可能性が高い。ビニール傘だし、好み関係なく盗んでいける傘だ。

 現に傘立ての横を見ると、バキバキにへし折られ意味を成さないような真っ黒な傘が捨て置かれている。

 この傘の主が、適当に傘を抜き取っていき、その傘の持ち主が私であったということかもしれない。

 傘立てから離れ、柱に隠れるように立ってから、大丈夫だと言い聞かせるように左腕を握りしめる。

 外を見ると、ただでさえ大粒で、強めに降っていた雨は完全に豪雨と化し、雷を伴って霧を起こしそうなほど叩きつけるように降っていた。生徒たちはぞくぞくと傘を差して雨の中へと身を潜めていくけど、その姿が少しすれば完全に見えなくなるほどの強い雨だ。

 ずぶ濡れで帰ることにも慣れている。

 霧雨程度なら帰ってしまうけれど、この雨じゃ無理だ。それに前にずぶ濡れで帰ったときは晴れていた。それ以上濡れることはなかったけど、今は絶え間なく雨が降っている。

 先生に言えば、傘を貸してくれるのだろうか。

 でも、きっと借りるときに、クラスと番号を名乗ることになる。傘を借りたいと話さなくちゃいけない。
 職員室に行き、傘を借りようとする自分を想像して血の気が引いた。私はスマホを鞄から取り出し、天気予報のページを開く。今から四十分後に一旦雨脚が途絶えるらしい。また一時間ほどで強い雨が降るらしいけど、その間に駅について傘を買えばいい。

 濡れる覚悟を決めていると、クソキラキラグループの姿が見えた。

 清水照道、河野由夏らが並び、後ろを付き従うように歩く千田莉子。そしてそれらを囲うように男女のパリピみたいな連中が歩いている。

 どう見ても、通行の邪魔だ。奴らの後ろを歩く吹奏楽部の女子たちは、迷惑そうに後ろでひそひそ話をしている。

 このまま出くわすのも嫌だ。下駄箱の隅に移動して、そのまま下駄箱を背に隠れる。奴らは声を潜めて話すことを知らないし、どんな風に動いて、どれくらいの位置にいるのかまる分かりだ。

 じっと息を殺し、クソキラキラグループが去っていくのを待つ。奴らは一歩一歩進むごとに馬鹿笑いをして中々進まない。

 忌々しい気持ちで床を睨みつけていると、やがて馬鹿騒ぎの声は遠くなり、雨音にかき消されるように消えていく。

 辺りはいつの間にか下校する生徒も消え、下駄箱には私や、私と同じように俯きがちに歩く生徒がまばらにいる程度だ。時間はスマホで天気を見た時から十五分以上経過している。本当にクソだ。牛歩しやがって。あんな奴らずぶ濡れになってしまえばいいのに。

 溜息を吐いて、雨が弱まっていないか少し期待をしながら昇降口のほうを覗く。相変わらず雨は止む気配を見せず、降り注ぐように地面を濡らし続けていた。

 本当に、このまま待ってて止むのか……?

 靴を履き替え、ほんの少し昇降口を出て、空を見上げる。どこもかしこも真っ黒な空が広がっていて、明るくなっているかと思えば雷鳴が轟いている。

 ……このまま帰るか……?

 別に今日、何か予定があるわけでもない。でもいつまでもこの学校に留まっているのも嫌だ。彷徨うように二の足を踏んでいると、つん、と肘に何かがぶつかった。振り返って広がった目の前の光景に、目を大きく見開く。

「萌歌ちゃん、なーにしてんの?」

 派手なリュックを背負い、真っ青な傘を手に持った清水照道が、私の後ろに立っている。

 どうしてこいつがここにいる? さっき、河野由夏たちと、帰ったはずじゃ……。

 よく見ると奴の手にしている青い傘は濡れていて、その先から水が滴り小さな水たまりを作っていた。一度、戻ってきたということだろうか。何のために? 私を馬鹿にしようと、傘をある自分を見せつけようとしている?

「な、な、な、なーんで、お前が……ここに」

「萌歌ちゃん、帰ってる様子もないなーと思って。どうした? 何か困ったことあった?」
 清水照道は、首をかしげる。なんでこいつに答えなきゃいけないんだ。口をつぐむと、奴は私をつま先から頭の先まで見定め始めた。あれこれ私のことを不躾に見て、やがて温度のない声を発した。

「……萌歌ちゃん、傘どこ?」

「……知らん」

 そんなこと、私が知りたい。というかこいつが何かしたんじゃないだろうな。清水照道は「誰かにやられたとか覚えある?」と、またいつかの時のような無表情で問いかけてきて、私は黙って首を横に振る。

「じゃあ今日は俺が入れてってやるよ、傘。相合傘ってやつ」

 奴は昇降口に出て、ばさりと傘を差した。スイッチ式の傘はしぶきを前に飛ばしながら開き、あっという間に広がる。

「い、いらない。や、やーむまで、ま、ま、待つ……」

 こいつに関わると、ろくなことがない。きっと今日相合傘をしただの言って、ネタにするつもりだろう。そうはさせない。一歩後ずさるようにして校舎の中に入る。清水照道は「分かった」と言って傘を閉じた。訳も分からず奴を見ると「萌歌ちゃん置いて帰るわけには行かないじゃん?」などと宣い、へらへらした顔で私の隣に立つ。

「わ、わ……、私に、か、構うな」

「やだ」

 奴は動じることなく「俺はずっと萌歌とここで雨宿りしててもいいし」と笑う。

 駄目だ、このままここで待っていても、奴の思い通りになってしまう。前を見ると、雨は絶えず降り注いでいて、始めに見た時と勢いは変わっていない。でも、このままだと、奴の思い通りだ。

「あっ萌歌っ」

 思い切って、雨の中へと駆けていく。いつかの日、泥を被せられた時よりはましだと考えながら駆けると、前髪にぼたぼたと滴が垂れてきた。もう夏だというのに、雨に当たったところが冷えていく。しかしそれは、一瞬にして遮られた

「ほら、出てっちゃったら濡れるって」

 思わず立ち止まると、清水照道が私に向かって傘を差していた。いっそのこと、突き飛ばしてしまえばと考えながら奴を見て、私は絶句した。

 奴は、まるで私を濡らすまいとするように、すっぽりと私を傘の中に入れている。けれど自分はスペースを空けるように傘の範囲から出ていた。降りしきる豪雨のせいでずぶ濡れになり、まったく傘に守られていない左肩にはシャツが張り付いている。髪の毛だって水滴が滴っている。なのに私のほうは、一切水なんてかかっていなくて、それなのに、奴は自分が濡れるのなんてまるで気にしないようにしてへらへらと笑っている。

「……や、やめろ!」

「だってこうでもしないと萌歌ちゃんびしょ濡れになっちゃうじゃん? ちゃんと傘の中入ってないと風邪引いちゃうよ? ほら歩こ、駅まで着く頃には、マシだろうし。傘だって買えるでしょ?」

「で、で、でで、出る」

「ほーら、いい子にしてて。家までついて行ったりはしないから」

 清水照道は、傘を持ち替え、濡れていないほうの腕で私の肩を抱き寄せる。押しのけようとして、そこまで奴の手に力が入っていないことに気付いた。壊れ物を扱うみたいに、支えられている。顔を上げると、奴は胡散臭く笑ったままだ。

「風邪ひいちゃったら、山登り休まなきゃじゃん。それにしても楽しみだよな〜山の景色見て〜カレー食べて〜、萌歌一緒に登ろうな?」

「い、い、嫌だ」

「何でだよー。疲れたらおんぶしてやるよ?」

「むー、りだ」

「いやいけるって、萌歌軽いし、俺結構力あるほうだかんね?」

 なるべく、清水照道と離れながら、早歩きをする。それなのに飄々とついてきて、当たり前のように私を傘の中に入れ続けている。さっきから、私は雨に当たることは一切ない。けれど、奴はひたすら私と反対方向の肩を濡らし続けている。

 何なんだこいつ。そこまで笑いに、ネタに生きているのか。

 睨みつけると、清水照道は私を見返すようにして笑う。

「か、か、風邪引いても、しー、知らないからな」

「ええ、心配してくれんの萌歌ちゃん。やっさしい〜」

 馬鹿にした声に、ため息を吐く。避けようとすると、肩に回された手に力が籠った。その力はほんの少しの柔らかなもので、苛立ちのような感情を覚えながら、私は清水照道の隣を歩いていた。