どうしよう。目の前の清水照道だけ、音読して、この時間が終わってくれないだろうか。
今私が奴の前で音読すれば、格好の餌食になる。きっと今日の昼には、いや授業終わってすぐに「樋口の真似しまーす!」と、私がどもっている姿を真似するだろう。そうして、笑いものにするんだ。
周りが音読を始める中、口を引き結び俯く。
清水照道に開かれた私の教科書には、ただ無機質に文が並んでいる。この文字列が憎い。そして目の前の男にも苛立つ。ぐっとこぶしを握り締めていると、清水照道は「なあ」と私を見た。
「俺から読んでいい? なんなら英検一級の解説込みで読んでやるから」
さっきから何だこの男は、英検一級英検一級って。なんのアピールがしたいんだ。ふざけやがって。
しかしそれを言葉に出来ず頷くと、清水照道は「よっしゃ!」とわざとらしい声で英文の音読を始める——が、
「ってことで、この意味はここに書いてある意味も合ってるっちゃ合ってるんだけど、あっち……海外では否定形の意味合いが強めだから、あんま使わないほうがいいんだよ。こういう時は……」
すぐに、解説を始めた。
全くもって意味が分からない。まだ一行も読んでいない。なのに清水照道は解説を続け、また英文の音読を開始したかと思えば、また解説をしていく。
「そんで、この教科書にのってる言い方の時は、わりと討論っつうの? 厳しめの、お堅い時に話すんだよね、例えば……」
もう、周りは音読の交代が行われてきた。このままなら、ぎりぎり清水照道の番だけで終わるかもしれない。
そのまま解説を続けてくれと思う気持ちと同時に、なんでこいつこんな熱心に、私なんかに解説してるんだという疑問も生まれる。清水照道を見ると、さも楽しそうに演技がかった顔で解説をしては、私の教科書の文字列をなぞって英文を読む。
なんだこいつ。
周りの人間は音読に夢中で、こちらを見ているのは、遠くの席でにやにやしながらこちらを見てはペアを組んでいる相手に注意される寺田。そして音読をしながらあざ笑うようにこちらを見る河野由夏たちだ。それらがこちらを見ているとはいえ、解説なんかしていても奴らに聞こえることはない。
それなのに、何のためにこいつは解説なんかしてるんだ? そんなに自分の実力を示したいほど自己顕示欲が強いのか?
「はい、じゃあおしまい! みんな席に戻って!」
先生が始まりと同じように手を叩く。清水照道は解説を止めた。結局奴は指定されたページの半分ほどしか進んでいない。
「じゃ、樋口さんまたな! また会おうな!」
清水照道は立ち上がると、わざとらしくバカみたいな声を上げて、音でも出したいかのように手を振りながら自分の席へと戻っていく。それを見て周りの奴らは「お前ここ教室ん中だからな?」「お前距離感がおかしすぎだろ!」「いつでも会えるわ」と口々に笑い声をあげた。
でも、あいつが訳分からんことをしてくれて助かった。清水照道の前で音読なんてしたら、確実に馬鹿にされていた。昨日どもっているところを少し見られたけど、きっと聞こえていなかったのだろう。
ほっと胸を撫で下ろしていると、「あれ?」と疑問を帯びた声が発された。
「なんか清水ずっと喋ってなかった? 樋口さん読んでなくない?」
声の方向……千田莉子が、純粋に疑問に思うように首を傾げる。千田莉子の言葉に先生は素早く反応し、清水照道を見た。心臓が、どきりと音を立てて鼓動する。どうしよう。今、クラスの人間の前で音読なんてさせられることになったら、終わりだ。せっかく、自分の番が来なくて済んだと思ったのに。
心臓が、激しく脈打つ。その鼓動と共鳴するみたいに、頭のあたりが痛む。
その痛みの合間に、断片的に浮かぶように、私が教卓に立ち、どもる姿、そして周囲の戸惑いから嘲りに変わる表情が頭の中で流れていく。
嫌だ。誰か助けて。
すがるようにスカートの裾を掴んでいると、先生は清水照道のほうを向いた。
「清水くん、今どこで終わったの?」
「樋口さんが読み終わって、俺が解説しながら読んでたから……最初のほう……うわ俺二行くらいしか読んでねえ!」
「清水まじずっと喋ってんなと思ったらそんなんしてたの? つうか教科書読めよ!」
「いや実力見せて恋始めようとしてたんだよ!」
先生と清水照道のやり取りに、寺田が騒がしく割って入る。教室の人間たちの笑い声も煩い。先生は場を納めるように「はい、いいからそういう話は! 終わり〜!」とあやすように静止して、「清水くん」と冷静な声で空気を変えるように奴の名を呼ぶ。
「清水くん最後まで読めてないなら、音読する? そんなに読みたいならだけど」
先生の言葉に清水照道は「いいの!? やった!」と立ち上がった。教科書を開き、何度もわざとらしく咳ばらいをすると寺田がすかさず「早く読めよ」と突っ込む。河野由夏は頬杖をつきながら愉快そうにしていた。
「じゃあ、清水照道読みまーす! 樋口さん見ててね」
唐突に会話の矛先がこちらに向けられた。しかし清水照道はすぐに英文を読み始め、クラスの注目は奴へと集中していく。すると奴は安堵したかのような表情を一瞬こちらに向けた、さきほどとはうって変わり、解説などする様子もなく真面目な様子で音読を始める。私は目を背けるように前を向いて、流れるように読まれる英文に視線を落としていた。