その瞳は氷のように冷たく、白けるようにして媚びを売ってきているはずの千田莉子を見ている。
千田莉子はその視線が場所的に見えていないらしく、河野由夏に冷たい目を向けられながらも笑って清水照道に「誰だよ〜」と笑いかけていた。
他人事とはいえ、同じ場所にいるのも辛い。私は扉への足を速めた。しかし「樋口さん」とはっきりとした声が聞こえてきて、反射的に呼ばれた方へ目を向ける。
「樋口さん、だよ」
清水照道がへらへらとした、嘲笑するような目でこちらを指さしていた。
奴の言葉に教室が静まり返り、時間が止まったような錯覚すら覚える。河野由夏ですら目を丸くし、きょとんとした顔で私を見ている。
普段騒がしい野球部の奴らも、口をぽかんと開けたまま私や、清水照道を見ていた。
教室の隅でアニメや漫画の話をする男子たちも、ひっそりと何かの会話をしている女子たちも、私か清水照道に注目して固まっている二種類しかいない。私もどうしていいか分からない。頭が真っ白で、たた周囲を見ているだけだ。
そんな私たちをよそに、最も早く動き出したのは千田莉子だ。奴は大きく仰け反りながら「びっくりした〜ちょっとガチっぽいテンションだから返事に迷ったわ」と清水照道の肩を叩く。先ほどまで千田莉子を睨んでいた河野由夏も合わせるように「本当だよ」と笑い出した。清水照道はすかさず「マジだって、一目惚れだから」と馬鹿にした笑いをしながら私に背を向け、大げさな手ぶりや身振りをする。
「ねえ、樋口さーん。照道樋口さんのこと好きだってー!」
それまで皆と同じように固まっていた寺田が、腹から響かせるような声を発した。
清水照道以外の目が、こちらに集中する。何かを言うことを、求められている。心臓がばくばくして、声が出せない。無理だ。何も言えない。
胃からせり上がる吐き気を感じていると清水照道が「やめろよ、告白はちゃんとするからお前がすんな!」と寺田の口を塞いだ。私は咄嗟に教室を出て、走って逃げたなんて笑われないよう、教室を通り過ぎるまで歩いてから廊下を全速力で駆け出していく。鞄を下げ、登校してくる人間をすり抜けていく。朝練から戻ってきて、汗を拭きながら教室に向かう生徒とすれ違いながら、トイレへと駆け込む。朝という時間帯もあってか、髪を整える生徒はいない。
そのまま一番奥の個室に飛び込んで、鍵を乱雑に閉めて呼吸を整える。
もう。周りには誰もいない。それなのにげらげらと笑う声が、耳に木霊する。それがいつのものなのか、昔のものと混ざっているのか分からないけど、今確かに分かるのは、清水照道があいつらと同類だということだ。
もしかして、保健室に連れて行ったり、ノートを取ったのは馬鹿にするためだったのかもしれない。いや絶対にそうだ。だって、そうじゃなきゃ家族以外で私に親切にしようと考える人間なんて、この世界にいない。
元から、あいつはおかしかったんだ。私が上手く話せないことについて、奴は何も言ってこなかった。
ああいうタイプの奴は私が上手く話せないと、必ず真似をして馬鹿にする。私がどれだけの苦労をして言葉を伝えようとしているか考えもしないで、馬鹿にして楽しい玩具だと認識する。
頭の中がぐちゃぐちゃで、お腹の奥もぐるぐるして気持ちが悪い。ばしんと、握りこぶしを太ももに落とす。
なんなんだあいつは。最悪だ。やっぱりあいつも、敵だ。
何度も何度も。私は太股を叩く。全部を誤魔化すみたいに。
昨日、そして朝に抱いていた清水照道への感謝の気持ちが、クレヨンの黒で絵をぐしゃぐしゃに潰すように消えていく。私はそのまま授業開始の鐘が鳴るまで、ずっと一人でそうしていた。
あてもなく廊下を歩いていく。
人の目を避けるように俯いて、うぇいうぇい言って馬鹿みたいに騒ぐ奴らが廊下を塞いでいるときは、道を変える。
そうして歩いていると、美術室や化学室がある別棟のほうまで来ていた。
廊下の窓を覗いて向かい側には私のいる教室が見え、廊下の前で男子たちが馬鹿みたいに騒いでいる様子が離れた距離からでも十分に分かる。
くだらない。
なのにくだらないそいつらを避けなければいけない自分にもやもやとしていると、金属のこすれる音が聞こえてきた。ちょうど廊下の向かい側から、保健室で出会った先輩が歩いてきている。先輩は今日もマスクをつけ、ただ歩いているだけなのに、テレビで見るモデルのように堂々とした雰囲気を感じた。
「ああ、君は」
踵を返すには遅すぎて、気づかれまいと俯いていると、先輩は私に近付いてきた。。
「樋口さん。どうしたの、これから保健室へ行くの?」
「い、い、いや」
「そうか。じゃあ散歩か移動教室か何かかな」
「……はい」
先輩は、考え込むようにして私を見る。
気づかれたのだろうか……。お腹の奥がぐるぐるして気持ち悪くなってきた。今すぐ逃げ出したいのに動けないでいると、先輩は「うん、やっぱり私、君に名前を名乗ってないよね?」と私に問いかけてきた。
今まで考えていたのは、名前を名乗っていないか、思い出そうとしていたから?
疑問を浮かべている間にも、先輩は一人で頷きながら口を開く。
「私は君の名前を保健室の来訪者カードで知っているけど、私は名乗っていなかった。何となく何かしていないような気だったんだけど、そういうことか。私の名前は萩白咲、植物のはぎに、白色のしろ、そして咲くと書くんだ。よろしくね樋口さん」
萩白先輩は私に手を差し出した。恐る恐る手を握ると、先輩はその柔らかな手をきゅっと力をこめる。そして繋いだ手を離すと目を細めた。
「じゃあ、私は図書室に用事があるから失礼するね。また保健室で会おう……と言うと、何だか君の体調不良を望んでいる意味合いになってしまうね……、まぁ、私はいつでも保健室にいるから、体調が悪くなったらいつでも来なよ。先生がいなくても私が引き継ぐから」
ひらりと手を振って萩白先輩は去っていく。その後ろ姿も、堂々としている。
先輩は、たぶん保健室登校だ。マスクをつけているから、身体が弱いのか、それとも……。
そう考えて、不意に昔の記憶がよみがえった。暗い扉、悲しそうなお母さんとお父さんの顔、私を見る、担任の先生の、困ったように馬鹿にするような顔……。
その顔をかき消すようにして頭を振ると、休み時間の終わりを知らせる鐘が鳴り、私はすぐに教室へと足を速めていった。
教室が見えるにつれ、どんどん心が重くなる。けれど戻る以外の選択肢はないから、渋々教室へと戻っていく。
出来ることならどこかへ走って逃げてしまいたい。
でも逃げるにしても教室には鞄があるし、今逃げてしまったら『清水照道の言葉によって逃げた奴』として私は見られるだろう。この先清水照道の言葉で誰かに何か言われる可能性が今はなくても、逃げたことで追々言われるかもしれない。
クソ。本当にクソだ。
あいつの軽はずみな一言のせいで、穏便に何事もなく過ごそうとしていた高校生活が脅かされようとしている。
憤りを堪えながら、誰とも目を合わせないように教室へ入り、自分の席へと真っすぐに向かっていく。
清水照道らはここ最近の面白い動画配信者について話をしているらしく、私が教室に戻ってきたことに気付いた気配がない。安心しながら席に座り、鞄から本を取り出し目を落とす。
これは、自衛だ。ぼっちだと思われないように、あくまで本が好きだと思われるように振る舞う。
付け入る隙を与えたら最後嫌な目に遭うし、こうしていればどんなに親切、善良だと思われる人間も話かけてはこない。話かけられても話せないし、馬鹿にされたり真似されるだけだ。
でも、ずっと本を読み続けているせいで家の本は全て読み終わり、もう今読んでいる文庫本も何週目か分からない。
本屋を回ったりするのは嫌いじゃないし、買いたい本もあるけど、近くの書店は全てポイントカードの制度を導入し、やたらと加入を勧めてくるようになった。首を横に振り続けていると、返事をするのも嫌かと睨まれて、それ以降行けてない。校外校内関係なく図書室で借りることは話さなきゃいけないことが多くて行きたくないし、宅配はお母さんやお父さんに頼めるけど、したくない。
出来ないということを改めて知らしめてしまうようで、頼めない。
だから、昔は好きだった読書も今はあまり好きじゃない。
もう次の展開も、台詞も、大体予想できてしまう小説に目を通していると、しばらくしてから安堂先生が焦った様子で教室へと入ってきた。黒板の上、教室を二等分するような位置に置かれた時計を見て、「ああ、もう休みはなしね」と呟く。
時間は確かにいつも朝のホームルームを開始する時間よりも十分ほど遅い。一時間目は安堂先生の担当する現代文だし、きっと朝のホームルームから、そのまま一時間目に移行するのだろう。
安堂先生の号令によって立ち上がり、黙って頭だけ下げて、また着席をする。
高校に入って、日直はあるけど、仕事は雑用を請け負ったり、日誌を書いたり、黒板を消すだけだ。号令をかけることはない。
小学校中学校と号令をさせられ、「何事にもチャレンジは大事だよ」と酷い目に遭わされたけど、そんな悪しき習慣からは解放された。今日もどんよりと曇った空を見ながら、安堂先生の連絡事項に耳を澄ます。聞こえてきたのは、明日が時間割変更になったことで、調理実習があるという説明だ。
昨日のこと、そして今日のことを思い出し、清水照道の顔が思い浮かんで気が沈む。
これから先、あいつの不用意な発言のせいで目をつけられたら最悪だ。ただでさえ今の席は、動画だの写真だのの撮影のせいで変に目立っている。
ぎりりと歯を食いしばっていると、安堂先生は「じゃあ遅れているから、このまま現代文に移行するわね」と言って、教科書を取り出し黒板に向き直る。
「ええ、まじかよ俺トイレ行きたいんだけどー!」
煩い寺田が立ち上がり、わざとらしく股間を押さえながら体を揺らす。先生は「なら今のうちに行ってきなさい」と促しながら、皆を見回した。
「他にトイレに行きたい人も行っていいわよ。それと教科書をロッカーにしまっている子も取ってきていいわ」
先生の言葉に、ちらほら生徒が立ち上がって後ろへと向かっていく。私は机から現代文のノートと教科書を取り出した。後ろからは、ロッカーが開いたり閉じたりする音が聞こえる。
私はあれを、一度も使ったことがない。ロッカーに鍵はつけられていなくて不用心だし、鍵がつけられたとしても鍵穴に接着剤を詰められたりして開かなくさせられるだけだ。学校に教材を置いていけば最後壊されたり、落書きをされる。上履きも面倒だけど、毎日持って帰る。
忘れてしまうこともあるけど、何度も無くなって買いなおすよりずっといいということは、小学校、中学校の頃に嫌というほど覚えた。
教科書を取り出し、ノートも出す。昨日も現代文の授業はあったし、昨日終わったところをページをめくり開いていると、安堂先生は「そうだ」と明るい笑顔をこちらに向けた。
「今日はペアで音読をしましょうか!」
名案を詠うように安堂先生はページを開く。
その笑顔に、聞こえてくる単語に、吐き気がこみ上げてきた。
音読なんて、出来ない。絶対にからかわれ、笑いものにされる。背中に冷や汗が伝うのに、目の奥が暑い。
千田莉子が「ペアって自由? それとも席順とか?」なんておどけたように先生に尋ねた。しかしその声は近いはずなのに遠く聞こえて、視界すらどんどん教室から離れていくような錯覚がする。
「ペアは普通に席順よ、転入してきた清水くんもいることだし」
先生はそう言って、千田莉子を見る。私の隣の生徒は静かで、人と会話をすることに興味がなさそうな感じの男子だ。私が音読がつっかえて、笑うようなことは、多分しない。
でも私の後ろの、後ろ。その隣の、ぎりぎり会話が可能なくらいの距離には河野由夏と仲のいい女がいる。
私がどもっていたら確実に馬鹿にしてくるだろうし、河野由夏に報告される可能性だってある。ただでさえ今日は、清水照道のせいで変な注目を浴びたのだ。
俯いていると、「せんせー!」と、大きな声が教室の後ろのほうから響く。
「ペア、自由でいいよ! 俺もうクラスの全員の顔と名前、完全に覚えたから」
立ち上がり、注目をもろともしない姿の清水照道が、手を挙げている。クラスの人間たちは何が楽しいのか笑い、寺田が「まじかよ清水」と、胡散臭そうな野次をとばした。
「ちゃんと覚えてるよ。お前はペロ田だろ?」
「いや寺田だわ! なんだペロ田って! ……先生こいつ全然覚えてねえ!」
清水照道と寺田のやりとりを見て、先生は呆れながらもそして「仕方ないなあ」と呟いて、教卓に手をつき辺りを見渡した。
「もう、じゃあ自由でいいわね。好きに組んでいいわよ。ただせーので音読始めるから、ペアを組み終わったら座ってね? そうしないと分からないから」
「やった! じゃあ俺誰とやろっかな」
先生の言葉に、教室にいる人間たちが一斉に立ち上がった。もう皆誰と組みたいか決まっているらしく、寺田がわざとらしく厳選するように一人一人の顔を見ていく。
クラスの人数は、清水照道が来るまでは奇数だった。でも奴が転校してきたことで、偶数に変わった。小学校、中学校とペア組では必ず余っていたけど、ここは余って先生とするほうが、何百倍とマシだったかもしれない。
今日、学校に来なければ良かった。
机の下にあって見えない足が、震えているのがはっきりと分かる。
今日学校に来なければ、清水照道にふざけたことを言われずに済んだかもしれないし、今日、こんなことに参加せず済んだ。
奥歯をぐっと噛んでいると、周りはがたがたと椅子と机を引きずるような音が聞こえ、まさに和気あいあいといった、クソみたいな空気が流れていく。これからどうするかも決められず木目を睨んでいると、不意に茶色い一面を刺すように、筋張ったような手が出てきた。
顔を上げると、教科書を持った清水照道が口角を上げ、子供にじゃれつくような笑顔で立っている。
「ひーぐちさん。まだペア組んでないよな? 一緒に組も」
清水照道は「お、空席じゃん」と、私の隣の席に勝手に座り、こちらへと寄せてきた。
突然のことに唖然としていると「俺英検一級持ってるから、音読には期待してて」と、閉じたままの私の教科書を開きだす。
周りも、清水照道の行動に唖然としている。河野由夏も同じだ。清水照道を見て「てる……?」と目を丸くしてる。そんな周囲の疑問を代弁するように千田莉子が「え? 清水なんで樋口さんなんかと組んでんの?」と口を開いたまま疑問を口にした。
「いや樋口さんなんかじゃねえよチダリコ氏〜、俺これを機に樋口さんと親睦深めんだよ」
何とも勝負をしていないのに、勝ち誇ったような、清水照道のにやけ面。
寺田はそんな清水照道の発言にぽかんとした後、「まじかよ! 恋の始まりじゃん!」と笑う。
その笑顔に、清水照道が何を考えているのか察しがついてきた。
清水照道は、また、また私のことを馬鹿にする気なのだ。
おそらく、朝私のことを指名したことの延長のつもりなのだろう。趣味は笑える動画を見ることって言っていたし、他人のことを、笑えるコンテンツの、ネタのようなものにする気なのだ。
現に、河野由夏も、その取り巻きのような人間たちも清水照道と私を見て「生ライブじゃん」と嘲笑を浮かべている。
何が生ライブだ。クソ。
でも、座席を立とうにも、もう大体の人間はペアを決め着席している。立っているのはふざけたままの寺田くらいだ。先生もそれが分かったのか「じゃあ音読はじめ」と手を叩く。その合図によって、周りは先行か後行かを決め、各々音読を始めていった。
どうしよう。目の前の清水照道だけ、音読して、この時間が終わってくれないだろうか。
今私が奴の前で音読すれば、格好の餌食になる。きっと今日の昼には、いや授業終わってすぐに「樋口の真似しまーす!」と、私がどもっている姿を真似するだろう。そうして、笑いものにするんだ。
周りが音読を始める中、口を引き結び俯く。
清水照道に開かれた私の教科書には、ただ無機質に文が並んでいる。この文字列が憎い。そして目の前の男にも苛立つ。ぐっとこぶしを握り締めていると、清水照道は「なあ」と私を見た。
「俺から読んでいい? なんなら英検一級の解説込みで読んでやるから」
さっきから何だこの男は、英検一級英検一級って。なんのアピールがしたいんだ。ふざけやがって。
しかしそれを言葉に出来ず頷くと、清水照道は「よっしゃ!」とわざとらしい声で英文の音読を始める——が、
「ってことで、この意味はここに書いてある意味も合ってるっちゃ合ってるんだけど、あっち……海外では否定形の意味合いが強めだから、あんま使わないほうがいいんだよ。こういう時は……」
すぐに、解説を始めた。
全くもって意味が分からない。まだ一行も読んでいない。なのに清水照道は解説を続け、また英文の音読を開始したかと思えば、また解説をしていく。
「そんで、この教科書にのってる言い方の時は、わりと討論っつうの? 厳しめの、お堅い時に話すんだよね、例えば……」
もう、周りは音読の交代が行われてきた。このままなら、ぎりぎり清水照道の番だけで終わるかもしれない。
そのまま解説を続けてくれと思う気持ちと同時に、なんでこいつこんな熱心に、私なんかに解説してるんだという疑問も生まれる。清水照道を見ると、さも楽しそうに演技がかった顔で解説をしては、私の教科書の文字列をなぞって英文を読む。
なんだこいつ。
周りの人間は音読に夢中で、こちらを見ているのは、遠くの席でにやにやしながらこちらを見てはペアを組んでいる相手に注意される寺田。そして音読をしながらあざ笑うようにこちらを見る河野由夏たちだ。それらがこちらを見ているとはいえ、解説なんかしていても奴らに聞こえることはない。
それなのに、何のためにこいつは解説なんかしてるんだ? そんなに自分の実力を示したいほど自己顕示欲が強いのか?
「はい、じゃあおしまい! みんな席に戻って!」
先生が始まりと同じように手を叩く。清水照道は解説を止めた。結局奴は指定されたページの半分ほどしか進んでいない。
「じゃ、樋口さんまたな! また会おうな!」
清水照道は立ち上がると、わざとらしくバカみたいな声を上げて、音でも出したいかのように手を振りながら自分の席へと戻っていく。それを見て周りの奴らは「お前ここ教室ん中だからな?」「お前距離感がおかしすぎだろ!」「いつでも会えるわ」と口々に笑い声をあげた。
でも、あいつが訳分からんことをしてくれて助かった。清水照道の前で音読なんてしたら、確実に馬鹿にされていた。昨日どもっているところを少し見られたけど、きっと聞こえていなかったのだろう。
ほっと胸を撫で下ろしていると、「あれ?」と疑問を帯びた声が発された。
「なんか清水ずっと喋ってなかった? 樋口さん読んでなくない?」
声の方向……千田莉子が、純粋に疑問に思うように首を傾げる。千田莉子の言葉に先生は素早く反応し、清水照道を見た。心臓が、どきりと音を立てて鼓動する。どうしよう。今、クラスの人間の前で音読なんてさせられることになったら、終わりだ。せっかく、自分の番が来なくて済んだと思ったのに。
心臓が、激しく脈打つ。その鼓動と共鳴するみたいに、頭のあたりが痛む。
その痛みの合間に、断片的に浮かぶように、私が教卓に立ち、どもる姿、そして周囲の戸惑いから嘲りに変わる表情が頭の中で流れていく。
嫌だ。誰か助けて。
すがるようにスカートの裾を掴んでいると、先生は清水照道のほうを向いた。
「清水くん、今どこで終わったの?」
「樋口さんが読み終わって、俺が解説しながら読んでたから……最初のほう……うわ俺二行くらいしか読んでねえ!」
「清水まじずっと喋ってんなと思ったらそんなんしてたの? つうか教科書読めよ!」
「いや実力見せて恋始めようとしてたんだよ!」
先生と清水照道のやり取りに、寺田が騒がしく割って入る。教室の人間たちの笑い声も煩い。先生は場を納めるように「はい、いいからそういう話は! 終わり〜!」とあやすように静止して、「清水くん」と冷静な声で空気を変えるように奴の名を呼ぶ。
「清水くん最後まで読めてないなら、音読する? そんなに読みたいならだけど」
先生の言葉に清水照道は「いいの!? やった!」と立ち上がった。教科書を開き、何度もわざとらしく咳ばらいをすると寺田がすかさず「早く読めよ」と突っ込む。河野由夏は頬杖をつきながら愉快そうにしていた。
「じゃあ、清水照道読みまーす! 樋口さん見ててね」
唐突に会話の矛先がこちらに向けられた。しかし清水照道はすぐに英文を読み始め、クラスの注目は奴へと集中していく。すると奴は安堵したかのような表情を一瞬こちらに向けた、さきほどとはうって変わり、解説などする様子もなく真面目な様子で音読を始める。私は目を背けるように前を向いて、流れるように読まれる英文に視線を落としていた。
「じゃあ皆、さようなら」
今日の授業がすべて終わり、帰りの支度を終えた鞄を肩に背負う。
一時間目の音読以降、清水照道が何か言ってくるのではないか、という私の警戒は杞憂として終わってくれた。
授業終了以降、清水照道はいつも通り私の存在に触れず、河野由夏らと騒いでいる。
きっとあの件は一過性のものだったのだろう。
安堵しながら教室を出て、人目を避けるように廊下の端を歩いて下駄箱へと向かっていく。すると、下駄箱に通りかかったところで「おーい」と今日散々聞いた声が後ろからかかった。
無視を貫き歩みを進めると、ぱたぱたと喧しい足音とともに、「樋口さんちょっと」と人を馬鹿にしたような声が響く。
渋々振り返ると、やはり清水照道がへらついた顔でこちらに向かって駆け寄ってきた。その後ろには河野由夏、千田莉子、寺田、そしてその他もろもろの、クソキラキラグループがくすくすと笑いながらこちらを見ている。
下駄箱に隠れて、バレていないつもりなのか、バレても平気だと見下しているのか、どちらにしても不愉快だ。
「樋口さん、一緒に帰ってくんない?」
くんない。
そう答えてやりたいけど、どもっているところを目の前にいるこの男や、河野由夏たちに見られたくない。
首を横に振って否定を示すか、今この場でそれをしたら不自然に見えるか。結論が出せず沈黙していると清水照道は「迷ってる感じ? なら連れ去っちゃお」なんて道化じみた声を発しながら勝手に私の腕を取り、すたすたと下駄箱まで歩いていく。そして迷うことなく私の下駄箱から靴を取り出すと、揃えるようにして床に並べた。
「お嬢様、お靴を履き替えて差し上げましょー、なんて」
清水照道はそう言うと、私の足首をつかみ、勝手に上履きを脱がす。そして靴に履き替えさせると「はい」と上履きを差し出してきた。
「……え」
「持ち帰るんだろ? ほら」
促すように、ずいと上履きをまた差し出された。何でこいつは私が持ち帰ることを知っているんだ。戸惑いながら上履きを受け取り、それを入れるために用意している靴入れに入れて鞄にしまう。清水照道はへらへらしながら、自分も靴を履き替え、乱暴に靴箱の扉を閉じると私に向き直った。
「じゃ、帰ろ樋口さん」
こちらを見透かすような、目つき。
今すぐ突き飛ばして、ここから逃げたい。
でも逃げてしまえばどうなるか、私は知っている。明日さらに酷い目に遭わされるだけだ。だから、私に選択肢なんて、最初から与えられてない。
こんな奴、消えちゃえばいいのに。
心の中で呪いながら一歩進むと、清水照道は満足げに頷いた。そして私の後ろのほう、こちらを見張っているクソキラ連中に勝ち誇ったような笑みを浮かべる。
私は憎しみを抱きながらも、校門へ向かって歩き出した清水照道について行ったのだった。
「一緒に帰った記念ってことで、撮っていい?」
そう言って、清水照道は黒いケースに入ったスマホをこちらに向ける。
背後に視線を感じながら学校を出て、大体三十分が経ったけれど、全然学校の最寄りの駅に着く気がしない。
学校を出る時に「樋口さん電車通学でしょ?」と言われ頷いて以降、さっきから訳の分からない路地を、ただぐるぐると歩いているだけだ。
私のような人間と歩くところを見られたくないからと思っていたけど、時折人通りの多いところを歩いたり、店に入ったかと思えば、ぐるりと一周して出てきたりとよく分からない。
こいつは一体何を考えているんだ。
鞄の紐をぎゅっと握りしめながら、私の前を愉快そうに隣を歩く清水照道の真意を探っていると、奴は道の端によりスマホをインカメラモードにして、私の肩を抱き寄せた。
「初めて帰り記念ーっと」
カシャン、と電子音が響く。
「よし、最高じゃん! 絶対誰にも送らないようにしよ。悪用されたらやだもんな」
清水照道はわざわざスマホの画面をこちらに向け、撮った写真を見せてくる。
満面の笑みを浮かべた清水照道と、俯く私。
どう考えても、最高の写真ではない。
しかし手慣れたような操作でキラキラしたクソフレームをつけて、明るさを調整し、楽しそうに編集していく。そうして私や、自分の周りに、馬鹿らしいキラキラをつけながら、清水照道は「あのさあ」と切り出した。
「ちょっとついて来てもらいたいとこあんだけど、まだ時間ある?」
「……え」
「雰囲気最高の場所あるんだけど、樋口さんと一緒に行きてえなーって思って」
そう言って清水照道は私の腕を掴むと、一気に走り出した。
意味も分からず足が縺れると、私の腕を掴む奴はそれをカバーするように速度を上げる。時折後ろをちらちら確認しては、速度をまた上げる。その速さは何かを振り切りようにも感じられて、また頭に疑問が浮かんだ。
なんだこいつは。一体何がしたいんだ。
玩具に感情なんかないだろと舐めているのか。
景色は目まぐるしく変わり、街並みから住宅街へと、そして人気のない道へと変わっていく。並んでいた建物は家々に変わり、それらは木々へと移ろいで行く。
私をどこへと連れて行こうとしているんだ。
清水照道はやがて後ろを振り向くのを止め、走ることに集中し始めた。私の様子を伺うけれど、すぐにそのふざけた顔より茶色い髪が靡いていくのが視界を埋める。
「こんぐらいならあいつらも着いてこられないだろ」
ただただ引かれるままに足を動かしていると、履き捨てるような声が聞こえた。
その声色は、忌々しいものを口にするみたいな言い方で、確実に同じ仲間内の人間に対して発した声には聞こえない。
こいつの言う「あいつら」は、きっと下駄箱でこちらを笑っていた河野由夏たち……ウェイのクソキラ連中に対する言葉のはずだ。でもなんでその連中に対して、履き捨てるような物言いをするんだ?
こいつの目的が、全くつかめない。
一緒に帰ろうとこいつが誘ってきたとき、私を馬鹿にする為だと思っていた。
でも今、馬鹿にされる恐怖ももちろんのこと、得体のしれない人間に腕を引かれるという恐怖のほうが勝り始めている。
このままついていっても、いいことなんて起きない。むしろ嫌なことしか起きない気が学校を出る前からしていた。けれどこの男が、私の想像を越えた、違う何かをしてきそうな気がしてならない。
「……ちょ、ちょっと」
目の前を走る男に、意を決して問いかけようとすると、清水照道は不自然に足を止めた。
「ついたよ、俺のお気に入りの場所」
清水照道は私の腕から手を離す。「樋口さん、ほら見てよこの景色」と言って、前方を指で示した。
言われたとおりにして視界に入ってきたのは、赤に近い、血のようにも見える濃いオレンジと、べったりした黒い木々。そしてその景色を囲うように新部られたベンチたちだ。
清水照道の連れて来たかった場所というのは公園のことらしい。
ベンチと、水飲み場、トイレだけが置かれた簡素な公園で、遊具と言われるようなものは何一つなく、子供もいなければ、周囲に人の気配がない。音もほとんど無く、烏の鳴き声もしない。
何だここは。
遠くに見えるのは、古びた団地だ。同じ団地がいくつも並び群れを成しているみたいで、新しさはなく威圧感がある。
「結構景色良くね? いいでしょ」
清水照道は嬉々として周囲をぐるりと見渡す。視界は、開けていると思う。周囲とはわずかに高低差があるのか、高台のようになっている。けれど周囲は木々が生い茂り後ろに団地の群れもあることで、空も、その下のの街並みも見えているのに開かれた感じは無い。
こいつが、この場所を好きだということに対して、酷く違和感を感じた。
私がこういう場所を好きだといえば、満場一致でらしいという答えが並ぶだろう。
しかし清水照道は生粋のウェイの人間だ。日差しに生き、毎日がパーティーですみたいな人種のはずだ。人の好みは自由だとは思うけど、どうもしっくり来ない。それにお気に入りの場所だと言いつつ清水照道はスマホを操作して、まるで何かを監視するように鋭い眼を画面に向けている。
不審に思い見つめていると、奴はこちらを見ることなく「他の奴突然来たりしないから安心してていいよ」と、教室での状態が嘘みたいな、驚くほど淡々とした声で呟いた。
相手が私だから盛り上げたり笑わせる必要がないというのは十分理解できるけど、その声があまりに温度がなく、一歩退く。
すると清水照道はその距離を埋めるようにこちらに近づき、私に向けてスマホを見せてきた。
「ほら、クラスの奴、俺ら探してるみたいだけど、駅の通りにいるっぽいから」
ぼそりと「だから絶対ここなんか来ない」と続けて、馬鹿にするように低く鼻で笑う。その笑顔が苦しそうで、自分で首を絞めているみたいに見えて、私は手のひらを握りしめた。
「……お、お、お前の目的は……な、……何だ」
「樋口さんと仲良くすること!」
私と、清水照道の間に、まるで秋風のような冷たく強い風が吹いた。枝から零れるように落ちた葉が、隙間を縫うように通り過ぎていく。
「そ、そ、そーんな訳、ない……だろ」
私と、仲良くなりたい人間が学校の中にいる訳ない。
学校はクソみたいな場所で、通ってるやつらはみんなクソだ。人の気持ちも知らないで、勝手に話し方を真似して笑いものにしたり、馬鹿にしたりする奴らしかいないところだ。
清水照道を睨むと、奴は怯むこともなく自嘲気味に笑って私を見る。
「いいよ」
「……は?」
酷く、遠いものを見るように清水照道は私を見る。私の背後には夕日が沈みかけているらしく、奴の明るい髪に、温かみのある色が差した。対照的に周りの景色は黒く沈み、どんどんと色を失い影になっていく。
「萌歌は、それでいいから」
まるで自己完結をするように言ってから、清水照道は続けてまた静かに囁く。私はその言葉が聞き取れたものの、こいつがそんなことを言うはずもないと思いなおして、結局意味が分からないまま奴を見ていた。
鞄を背負いなおしながら歩き、空を見上げる。昼間は白かった雲が夕日を受けて、灰色や鬱陶しさのないピンク色に染まりながら浮かんでいた。
今日は、本当に長い一日だった。あいつのせいで。
あの後、清水照道は私に「ベンチに座ってなよ」なんてベンチに座らせた後、黙ったままだった。
その後、二十分くらいしてから唐突に「あいつら帰ったっぽいから帰るか」と言って、あっさりと私を解放した。
てっきりそのまま解散になるかと思ったけど、結局駅どころかホームまで来て、あの団地に囲まれた公園が幻であったかのように、ずっとへらへら笑っていたのだった。
あいつは一体何なんだ。
六月の変な時期に転校してくるような人間にも見えないし、馬鹿みたいに明るいかと思えば訳のわからない廃墟じみた団地の近くの公園に人を連れていく。
憑りつかれてんのかあいつは。
というか、明日には私で遊ぶこと、飽きてくれてないだろうか。
あいつに構われていたら、きっとどこかで私がどもっていることが河野由夏らにバレてしまう。
……いや、清水照道の前で、私は何度も詰まったりしていた。あいつは特に反応を示すこともなかったから私も気に留めていなかったけど、私は今日、あいつと話をした。
また、前みたいに馬鹿にされるんじゃ……。
足が止まり、地面を見つめる。体から一気に血の気が引いて、体温がすべて地面に吸い込まれていくような錯覚を覚える。
明日、絶対河野由夏たちは今日のことを聞くだろう。そして清水照道はそのまま話をする。嘘をつく必要がない。
……でも、清水照道は、今日の音読のとき、変な動きを見せた。
音読を続け、私が読み上げていないのに、読み上げたと言った。
私が音読を嫌がっていることを、察したかのように。
しかし、先生に怒られないために嘘をついたと考えることができる。けれどあいつが、先生に怒られることを気にするような人間だろうか……?
明日が来ることは怖い。でも、心が恐怖に占められることもなく、私は明日も無事に学校に通えることを祈りながら、夕焼けの道を歩いていた。