朝の教室は、私――樋口萌歌がこの世界で嫌いな物のひとつだ。

 教室、窓際の中央の席に座って、鞄からゆっくりと教科書とノートを取り出し、周囲の人間に気付かれないよう俯きながら周りを確認する。

 窓の外は分厚い鈍色一色で、教室にいる人間はまるで最初から決められているようにそれぞれ輪を作って、スマホや雑誌なんかを広げながら会話を繰り返していた。どれも内容は薄っぺらいものなのに、何が楽しいのかどこもかしこも笑い声が響いている。そんな人間たちを横目に朝の日課であるペンケースの整理を繰り返していると、後ろから耳を貫くような高い声が聞こえた。

「ねえ動画撮ろうよー!」

 明るく、それでいてどこか嫌な感じをさせる声。きっと河野由夏だ。

 四月、入学式で教室に集まった時から奴は全く変わらない。きっと今もその長い髪を靡かせ、ぱっちりした目を忙しなく動かしながらスマホを掲げているのだろう。

 奴は入学当初から、スポンジが水を吸収するみたいに周りの人間を吸収していき、瞬く間にクラスの中心人物となった。それからは毎朝自分と似たような女を三人ほど引き連れ登校してきては、先生が来るまでの間、教室の後方を陣取りたむろしている。さらにその周りには、光にハエが集まるよう、運動部の馬鹿が集まってやたらとうるさい。

 弱肉強食の食物連鎖をピラミッドの図のような、教室での力関係、階級をスクールカーストという言葉で表すと聞いたことがあるけれど、まさしく奴はそのカーストのトップにいるだろう。

「何この黒っぽいやつ。何か変なの映っちゃってるんだけど。ゴミ?」

「樋口さんじゃん?」

 河野由夏が心底気分を害したような声を発すると、即座に阿るような返事が聞こえた。あの声は、千田莉子。芸人のような真似ごとをして、河野由夏に気に入られようと必死の痛い奴だ。あいつは多分ピラミッドの真ん中の、少し上のほうにいる。

「なんかこの間もチダリコの横になんかあるなと思ってたけどあいつかあ~。てっきりチダリコ憑りつかれてるのかと思った」

「いや憑りつかれてないし!」

 けらけらと、河野由夏と千田莉子を囲う女の笑い声が聞こえる。周りの女たちは、千田莉子より少し上くらい、けれど河野由夏には及ばない立ち位置の人間たちだ。

「でも、お化けみたいなもんだよね。声聞いたことないし」

「分かるー! 自己紹介の時も頭下げて終わりだったもんね」

 そして、私はそのカーストで最も低い、最底辺の立場にいる。

 何故なら体育祭も終わり、入学から二か月が経過したにも関わらず、いまだ私はこのクラスの誰とも一分以上の会話をしたことがないからだ。当然友達なんていないし、お弁当も移動教室も常に一人だ。

 それでも河野由夏たちが私の名前を憶えていたのは、教室の壁に自己紹介カードが貼られているからだろう。高校に入学して最初のホームルームで書いた、名前や誕生日、特技が記され貼られたカードたち。きちんと整列するようにそれらは貼られているけれど、このクラスの人数が奇数のためぽつんと空白がある。

「ちょっとチダリコ話かけてきてよ」

「ええ?」

「声どんな感じか聞きたいじゃん? アニメみたいな声だったりして。なんか名前も萌え~って感じだもんね」

 こそこそ話をしているのか、聞かせようとしているのか分からない声の大きさだ。こういう時が一番苦痛だ。突然話しかけられるのも困るけど、少しでも私が反応していたら「聞こえてた」と馬鹿にされることが目に見えている。

 ……でも、このまま何もしなくて話しかけられるのも嫌だ。立ち上がってトイレに行くふりをして逃げようか。でもそれをきっかけに話をしてきたり、トイレにまで追いかけられたらどうすればいいのか

 私は拳を握って、「放っておいて」と声に出すことを、心の中で練習し始める。心の中では、何の問題もなく言えた。でも、心の中で言えても、声に出して大丈夫じゃなかったことは何度もあるから気が抜けない。

「じゃあチダリコ行ってきまーす」

 おどけた様な声に身体が強張った。

 千田莉子と思われる足音が教室の雑音を縫うように聞こえてきた。頭が熱を帯び始め、滲んだ汗が首筋から背中を伝って急速に身体が冷えていく。

 いやだ。怖い。

 ぎゅっと目を閉じると同時に、大きく扉をあけ放つ音が聞こえた。