彼は私に何を気づいてほしいのだろう。
私はまだ、西河くんの名前を、呼べない。
そこはかとない苦い思いをカフェラテで押し流したあとは、龍宮神社へ向かうため、一晩お世話になった西河くんの家を出た。
私は昨日の学校帰りのままなので制服だけれど、宮司への取材の申し込みという名目があるので制服でよいと思える。西河くんは私服だけれど、白のシャツに黒のスラックスというコーディネートで、限りなく制服に近い服装だ。
駅前のバス乗り場から、神社へ向かうバスに乗り込む。
車内は空調が効いているためか涼しい。
私たちはふたりがけの席に、隣り合って腰を下ろした。
「西河くんは、龍宮神社に行ったことあるの?」
彼は迷いなく神社行きのバスに私を誘導した。西河くん自身は参拝したことがあるのではないだろうか。
窓から射し込む夏の陽のもとで、西河くんは光を撥ねる睫毛を瞬かせる。
「あるよ。何度も」
「そうなんだ。私もテレビの特集では見たことあるんだけど、行くのは初めて」
それは、龍宮城があるという投稿のもとに取材したバラエティ番組だった。
浦島太郎のお伽話とは関係がありませんでした、という結論で締めくくられていたけれど、龍神伝説については番組の趣旨とは異なっていたためか、紹介されていなかった。
「龍宮城に引っかけて時々話題になるんだよね。でもこぢんまりとした神社だから、龍宮城をイメージして参拝に来た人はがっかりするみたいだよ」
「へえ。龍宮城は海の中にあるんだから、地上の神社が龍宮城のわけないのにね」
「あはは。龍のおかげで水害に遭った村という話よりは、夢を持てるんじゃないかな。なんにしろ、参拝客が来てくれるのはありがたいことだよ」
話しているうちに、いくつかの停留所を通り過ぎる。
やがてバスは龍宮神社近くの停留所に辿り着いた。
私たちがバスを降りると、すぐ傍に朱塗りの鳥居がそびえ立つ姿が見えた。
ここが龍宮神社らしい。閑静な住宅街にある、聞いたとおりのこぢんまりとした神社だ。
少々の石段を上れば、手前に社務所がある。奥には社が建てられている。どれも一般的な造りで、確かに龍宮城のイメージには程遠いだろう。テレビで話題になれば参拝客も押し寄せるのであろう神社の境内には、ひと気がなかった。朝早いせいかもしれない。
「とりあえず、お参りしようか」
「うん。五円玉あったかな……」
小銭入れを探るが、五円玉どころか小銭が乏しかった。五百円玉がひとつと、一円玉が二枚しかない。どちらも賽銭箱に入れるのは、ためらわれる。
「ほら」
西河くんが黄金に煌めく五円玉を、二枚差し出した。私はそのうちの一枚を礼を述べながら指先で摘まむ。
「ありがとう。あとで返すね」
「いやいや。こういうのは返さなくていいから。同時に投げよう」
彼が大仰に振りかぶるポーズをしたので、私も五円玉を握った手を差し出す。
ふたつの五円玉は、チャリンと軽い音を立てて賽銭箱に吸い込まれていった。
「ご縁がありますように」
両手を合わせて祈る西河くんを真似て、私も手を合わせる。大勢の願い事を聞いている神様も大変だろうから、お願い事はしないでおいた。
「ほら、あれだよ」
ふいに西河くんに指摘されて、瞼を開ける。
彼は拝殿の奥に設置された神棚を指し示していた。
「あれって、なにが?」
神棚にはお供え物である御神酒や鏡、三方に乗せられた品々が綺麗に並べられている。
西河くんは、さらりと述べた。
「逆鱗。ちゃんとあるって言ったろ?」
「え……」
私の目が三方のひとつに吸い寄せられた。
白木で作られた台座の上に、お供え物としては不釣り合いなガラスケースが鎮座している。
「あれは……まさか⁉」
私は靴を脱いで拝殿に上がり、ガラスケースに近づいた。
七色に輝く鱗が、そこにあった。
那岐の逆鱗だ。
そう直感した。
那岐から婚姻の証として受け取り、サヤに奪われた逆鱗。
私はスエードの巾着袋を取り出して中身を確認した。
西河くんの逆鱗は、確かにここにある。双方は輝きも形も同じものに見えた。けれど逆鱗は二枚存在したわけなので、全く同一の品ではないということになる。
驚愕している私のもとに、足音が近づいてきた。
「龍の逆鱗ですよ。美しいでしょう?」
はっとして目を向ければ、そこには見知った顔があり、私はまた驚かされる。
「茂蔵さん……⁉」
那岐を拘束した村人の茂蔵だった。
彼は白衣に焦茶色の袴という装束を纏っている。神社の神主さんが着用する普段着の衣装だ。
神主さんは柔和な笑みを浮かべて、朗らかな笑い声を上げた。
「はは、惜しかったですな。私の名前は茂樹です。本も出しているので、ちょっとした有名宮司ですよ」
茂樹さんが手のひらでかざした棚には、『龍宮神社の成り立ち』というタイトルの書籍が飾られていた。私たちが図書館で借りたのと同じものだ。彼がこの本の著作者であり、龍宮神社の宮司である鑓水茂樹氏のようだ。
「失礼しました。私は県立高校二年の相原絆と申します。今日は総合情報部の活動で、鑓水さんにお話しをお伺いに来ました」
名乗った私は頭を下げた。
冷静に考えてみれば、茂蔵のわけはない。彼は夢の中にしか存在しないのだから。
それに宮司の鑓水さんはふくよかで、優しそうな面立ちをしている。顔色が悪く、目つきが鋭い茂蔵とは受ける印象が違っていた。
「ほう。高校の部活動のね。取材でよく聞かれるんですが、うちの神社は龍宮城とは関連ありませんので、乙姫様はいないのかという質問は勘弁してくださいよ」
鑓水さんは自分で言った言葉が可笑しかったようで、また笑っている。
私は早速、目の前の逆鱗について質問した。
「あの、この逆鱗ですが、どういった経緯で神社にあるんですか?」
「お嬢さんは変わった質問をしますねえ。大概は本物の龍の鱗かと聞く人が多いんですが。しかもこの龍の鱗が、逆鱗だとご存じでいらっしゃる」
逆鱗を眺めた鑓水さんは、鱗の輝きを目に映しながら語り出した。
「もうご存じかもしれませんが、かつての水池村ではひどい干ばつに見舞われましてね。江戸時代のことですよ。そこで村人は龍を神として奉り、雨乞いの儀式を行っていたんです。笑っちゃいけませんよ。本当に龍族は存在したんですから。この逆鱗は当時村にいた龍のものだそうです。青年の格好をしていたそうですけどね。ですが雨乞いをまやかしだとして、龍の青年を殺そうとしたところ祟りが起き、村が水没するほど雨が降ってしまった。強欲は身を滅ぼすということですな。ここまでは本に書いてあることなのですが、実は人様にはちょっと言いにくい裏事情がありまして」
私は慌てて鞄から筆記用具を取り出し、鑓水さんの話をメモした。西河くんは平静に鑓水さんに聞き返す。
私はまだ、西河くんの名前を、呼べない。
そこはかとない苦い思いをカフェラテで押し流したあとは、龍宮神社へ向かうため、一晩お世話になった西河くんの家を出た。
私は昨日の学校帰りのままなので制服だけれど、宮司への取材の申し込みという名目があるので制服でよいと思える。西河くんは私服だけれど、白のシャツに黒のスラックスというコーディネートで、限りなく制服に近い服装だ。
駅前のバス乗り場から、神社へ向かうバスに乗り込む。
車内は空調が効いているためか涼しい。
私たちはふたりがけの席に、隣り合って腰を下ろした。
「西河くんは、龍宮神社に行ったことあるの?」
彼は迷いなく神社行きのバスに私を誘導した。西河くん自身は参拝したことがあるのではないだろうか。
窓から射し込む夏の陽のもとで、西河くんは光を撥ねる睫毛を瞬かせる。
「あるよ。何度も」
「そうなんだ。私もテレビの特集では見たことあるんだけど、行くのは初めて」
それは、龍宮城があるという投稿のもとに取材したバラエティ番組だった。
浦島太郎のお伽話とは関係がありませんでした、という結論で締めくくられていたけれど、龍神伝説については番組の趣旨とは異なっていたためか、紹介されていなかった。
「龍宮城に引っかけて時々話題になるんだよね。でもこぢんまりとした神社だから、龍宮城をイメージして参拝に来た人はがっかりするみたいだよ」
「へえ。龍宮城は海の中にあるんだから、地上の神社が龍宮城のわけないのにね」
「あはは。龍のおかげで水害に遭った村という話よりは、夢を持てるんじゃないかな。なんにしろ、参拝客が来てくれるのはありがたいことだよ」
話しているうちに、いくつかの停留所を通り過ぎる。
やがてバスは龍宮神社近くの停留所に辿り着いた。
私たちがバスを降りると、すぐ傍に朱塗りの鳥居がそびえ立つ姿が見えた。
ここが龍宮神社らしい。閑静な住宅街にある、聞いたとおりのこぢんまりとした神社だ。
少々の石段を上れば、手前に社務所がある。奥には社が建てられている。どれも一般的な造りで、確かに龍宮城のイメージには程遠いだろう。テレビで話題になれば参拝客も押し寄せるのであろう神社の境内には、ひと気がなかった。朝早いせいかもしれない。
「とりあえず、お参りしようか」
「うん。五円玉あったかな……」
小銭入れを探るが、五円玉どころか小銭が乏しかった。五百円玉がひとつと、一円玉が二枚しかない。どちらも賽銭箱に入れるのは、ためらわれる。
「ほら」
西河くんが黄金に煌めく五円玉を、二枚差し出した。私はそのうちの一枚を礼を述べながら指先で摘まむ。
「ありがとう。あとで返すね」
「いやいや。こういうのは返さなくていいから。同時に投げよう」
彼が大仰に振りかぶるポーズをしたので、私も五円玉を握った手を差し出す。
ふたつの五円玉は、チャリンと軽い音を立てて賽銭箱に吸い込まれていった。
「ご縁がありますように」
両手を合わせて祈る西河くんを真似て、私も手を合わせる。大勢の願い事を聞いている神様も大変だろうから、お願い事はしないでおいた。
「ほら、あれだよ」
ふいに西河くんに指摘されて、瞼を開ける。
彼は拝殿の奥に設置された神棚を指し示していた。
「あれって、なにが?」
神棚にはお供え物である御神酒や鏡、三方に乗せられた品々が綺麗に並べられている。
西河くんは、さらりと述べた。
「逆鱗。ちゃんとあるって言ったろ?」
「え……」
私の目が三方のひとつに吸い寄せられた。
白木で作られた台座の上に、お供え物としては不釣り合いなガラスケースが鎮座している。
「あれは……まさか⁉」
私は靴を脱いで拝殿に上がり、ガラスケースに近づいた。
七色に輝く鱗が、そこにあった。
那岐の逆鱗だ。
そう直感した。
那岐から婚姻の証として受け取り、サヤに奪われた逆鱗。
私はスエードの巾着袋を取り出して中身を確認した。
西河くんの逆鱗は、確かにここにある。双方は輝きも形も同じものに見えた。けれど逆鱗は二枚存在したわけなので、全く同一の品ではないということになる。
驚愕している私のもとに、足音が近づいてきた。
「龍の逆鱗ですよ。美しいでしょう?」
はっとして目を向ければ、そこには見知った顔があり、私はまた驚かされる。
「茂蔵さん……⁉」
那岐を拘束した村人の茂蔵だった。
彼は白衣に焦茶色の袴という装束を纏っている。神社の神主さんが着用する普段着の衣装だ。
神主さんは柔和な笑みを浮かべて、朗らかな笑い声を上げた。
「はは、惜しかったですな。私の名前は茂樹です。本も出しているので、ちょっとした有名宮司ですよ」
茂樹さんが手のひらでかざした棚には、『龍宮神社の成り立ち』というタイトルの書籍が飾られていた。私たちが図書館で借りたのと同じものだ。彼がこの本の著作者であり、龍宮神社の宮司である鑓水茂樹氏のようだ。
「失礼しました。私は県立高校二年の相原絆と申します。今日は総合情報部の活動で、鑓水さんにお話しをお伺いに来ました」
名乗った私は頭を下げた。
冷静に考えてみれば、茂蔵のわけはない。彼は夢の中にしか存在しないのだから。
それに宮司の鑓水さんはふくよかで、優しそうな面立ちをしている。顔色が悪く、目つきが鋭い茂蔵とは受ける印象が違っていた。
「ほう。高校の部活動のね。取材でよく聞かれるんですが、うちの神社は龍宮城とは関連ありませんので、乙姫様はいないのかという質問は勘弁してくださいよ」
鑓水さんは自分で言った言葉が可笑しかったようで、また笑っている。
私は早速、目の前の逆鱗について質問した。
「あの、この逆鱗ですが、どういった経緯で神社にあるんですか?」
「お嬢さんは変わった質問をしますねえ。大概は本物の龍の鱗かと聞く人が多いんですが。しかもこの龍の鱗が、逆鱗だとご存じでいらっしゃる」
逆鱗を眺めた鑓水さんは、鱗の輝きを目に映しながら語り出した。
「もうご存じかもしれませんが、かつての水池村ではひどい干ばつに見舞われましてね。江戸時代のことですよ。そこで村人は龍を神として奉り、雨乞いの儀式を行っていたんです。笑っちゃいけませんよ。本当に龍族は存在したんですから。この逆鱗は当時村にいた龍のものだそうです。青年の格好をしていたそうですけどね。ですが雨乞いをまやかしだとして、龍の青年を殺そうとしたところ祟りが起き、村が水没するほど雨が降ってしまった。強欲は身を滅ぼすということですな。ここまでは本に書いてあることなのですが、実は人様にはちょっと言いにくい裏事情がありまして」
私は慌てて鞄から筆記用具を取り出し、鑓水さんの話をメモした。西河くんは平静に鑓水さんに聞き返す。