彼は自らの逆鱗を引き抜いてくれた。その痛みを無下に扱ってはならない。
 いつか、また会えると言ってくれた那岐を信じる。私の言葉を那岐が信じてくれたように、私もまた那岐を信じたいから。
 社から村を通り、川へ向かう道すがら、ほとんど言葉を交わさなかった。
 私の手の中には、那岐の逆鱗が入った香り袋がある。
「この辺りだったな。そなたが溺れかけていたのは」
 那岐と共に川縁に立ち、そこから見える景色を眺める。
 川で溺れそうになり、子どもたちに囃されていた私が、那岐に初めて会ったところだ。
 緑に囲まれた川は、どこにでもあるような山の風景だけれど、私にとっては大切な思い出の場所になった。
「そうだね……ここだったよね」
 言葉少なに那岐を見上げれば、彼はどこか硬い表情を浮かべていた。
 さよなら、とは言いたくない。さよならは永遠の別れのような気がするから。
 けれど、また明日、とも言えない。
 私が足を踏み出して、川石を跨ごうとしたとき、ふいに力強い腕に引き寄せられた。
「あ……」
 逞しい胸に、情熱的に抱きしめられる。
 私の胸を甘くて酸っぱいものが湧き上がる。
 那岐は何も言わず、ただ黙したまま、私の体を抱きしめていた。
 けれど腕の力強さから、伝わる胸の鼓動から、那岐が別れに耐えているということが如実に伝わる。
 これが、最後かもしれない。
 私はありったけの想いを込めて、回した腕で那岐の背を抱きしめる。
 那岐の体温を、腕の力強さを、息遣いまで、忘れないように。 
 小さな川のせせらぎだけが響き、そよぐ風が枝葉をわずかに揺らす。
 自然の囁きが織り成す中、しばらくそうして抱き合っていた。 
 那岐の低い声音が、鼓膜を撫でる。
「いずれ、俺の花嫁として迎えに行く。それを忘れないでくれ」
「うん……待ってる。私、ずっと那岐を待ってるね」
 那岐の精悍な面差しが傾けられる。
 とくりと鼓動がひとつ打たれた。
 私は瞼を閉じて、頤を上げる。
 柔らかなくちづけと共に、誓いは交わされた。
 名残惜しげに互いの絡めた腕を離す。私の指先には、那岐の体温が仄かに残った。
 川の中央に赴いて、香り袋から逆鱗を取り出す。
 逆鱗を掲げた私は、那岐のいる川辺をちらりと窺った。
 那岐は、深く頷いた。
 もう、迷いは断ち切らなければ。
 迎えに行くと、那岐は約束してくれたのだから。
「逆鱗……私を、夢から醒めさせて」
 七色に光り輝く逆鱗を手にして、私は瞼を閉じる。
 川の水の流れだけが、時が過ぎたことを伝えた。
「……あれ?」
 何も起こらない。
 手の中の逆鱗を見るが、変化は見られなかった。逆鱗は凜然と輝きを放っている。
 私のやり方がよくなかったのだろうか。
 川に屈んでみたり、向いている方角を変えてみたりといろいろなことを試みたけれど、やはり逆鱗は沈黙を続けている。幾度瞬きを繰り返しても、そこにあるのは変わらない川の風景だ。
 夢から、醒めない。
「どういうこと……?」
 訝しんだ那岐が川へ下りてきた。逆鱗の様子を窺い、私の手を握りしめる。
「力が発揮される兆候は見られないな……」
 那岐も不思議そうに首を捻っている。
 そもそも、龍の鱗があれば夢から醒めるという説は、私が立てた仮説に過ぎない。
 けれど、ここへやってきた原因で思い当たることといえば、西河くんの龍の鱗を手にしたことしかない。
 西河くんと瓜二つの、龍神の那岐。
 西河くんの鱗が、那岐のもとへ導いたのだとしか思えなかった。
「それとも、西河くんの鱗じゃないと帰れないってことなのかな?」
 結局、西河くんの龍の鱗が入った巾着袋は見つかっていない。
 あの鱗だけは特別な力があったということなのだろうか。
 話は振り出しに戻ってしまった。
 首を傾げた那岐は、思いもかけなかった盲点を突いた。
「あれほど捜したのに、見つからなかったからな……。巾着袋は、手に持っていたものを川に流されたのだな? 烏が咥えていったということはなかったか?」
「えっ……」
 当時の状況を確認されて、あのときの光景が脳裏によみがえる。
川で溺れかけたときには、すでに赤い着物を着ていた。
 巾着袋は、制服のポケットに入れていた。
 つまり、西河くんの龍の鱗が入った巾着袋は、制服のポケットの中にある。
 おそらく、今も。
 川に流されたというのは完全な思い込みだった。
 どうして今まで気がつかなかったのだろう。いくら捜しても見つからないわけだ。本当に捜すべきは、制服だった。
 己の愚かさに、逆鱗を握りしめた手が震える。
「ごめん……私の勘違いだった。あの巾着袋は流されたんじゃなくて、初めから、持っていなかったみたいなの……」
 どう捉えても、私のくだらない嘘にしか聞こえない。
 那岐は連日、川でありもしない巾着袋を捜したばかりか、ひどい痛みを堪えて逆鱗を引き抜いてくれたというのに。
 私の思い違いで那岐を振り回してしまった。
 私は罪の意識から、深く項垂れた。
「ごめんなさい、那岐……。私のせいで、逆鱗を毟らせてしまって……」
 私の脳裏を、とある考えが掠める。
 もしかして、あちらのほうが夢だったのだろうか。
 学校や両親のこと、沙耶や西河くんのこと。
 すべて、身寄りのない生贄の私が生み出した夢想で、あれは現実ではなかったのだろうか。
 私は夢と現実の境がわからなくなってしまった。
 自分はいったい、何者なのだろう。どうして、ここにいるのだろう。
 混乱する私の肩に、大きな手のひらが置かれる。それは確かな質感を伴っていた。
「謝らなくていい。俺の逆鱗は婚姻の証として、そなたに授けたものなのだから」
 那岐は柔らかな微笑みを向ける。彼の優しい心遣いが、乾いた体に水が染み込むかのように滔々と満たされていった。
 愚かな私を責めることすらしない那岐の心根がありがたくて、私は顔をくしゃりと歪ませた。
「ありがとう……那岐……」
「気にするな。俺は、そなたが留まることになって、実は喜んでいる」
 逆鱗を再び香り袋に入れて袂に仕舞うと、那岐は私の手を取る。夜に眠るときにそうするように、自然に握りしめた。そうして手をつないで語りながら、川辺からの道を戻っていく。
「いざ、そなたがいなくなってしまうと思うと、胸が引き裂かれるような痛みを覚えた。逆鱗を引き抜いたときの比ではなかった。だから、そなたがまだ傍にいてくれるとわかって、安堵したのだ。そんな勝手な俺に謝る必要はない」