川で紛失した巾着袋は見つかっていない。
 顔を上げると、那岐は首元を木綿の襟巻きで覆っていることに気づいた。
 ある可能性に思い当たり、私は蒼白になる。
「那岐……まさか、この逆鱗は、那岐の首から引き抜いたの……?」
 那岐は静かに頷いた。彼の面差しには、揺るぎない決意が込められていた。
「それを使って、そなたは帰れ」
「……え?」
 突然帰れと言われて戸惑う。那岐は巾着袋を捜すことは手伝ってくれたけれど、帰れなんて今までひとことも言わなかったから。
「逆鱗があれば、夢から醒めることができるのだろう? そなたは、ここでは生贄だ。俺は村人からそなたをどこまでも守り通すつもりでいるが、俺にもしものことがあったとき、そなたを巻き込みたくはない。そなたに帰る場所があるのなら、そうしたほうがよいと考えた」
「でも……私がいなくなったら、那岐は、どうするの……」
 村人たちの不満は解消していない。今後、雨を降らせることは問題ないのだろうか。生贄の私が突然いなくなれば、那岐がその説明をしなければならず、彼の立場はより窮するのではないか。
 そして、いつか、花嫁にすると那岐が誓ってくれたことは。
 反古にされてしまうのだろうか。いつかなんて日は、来ないのだろうか。
 ひとりでに唇が震える。
 那岐は哀しげに微笑んだ。
「俺は生涯、そなた以外の女を妻に娶らない。だから、そなたがいなくなっても、俺がほかの女と契ることは決してない。逆鱗を授けるのは婚姻の証と思ってほしい」
 逆鱗を自ら剥がしたのは、那岐の心は私だけを愛すると証明するものだった。
 紫陽花の花と葉は枯れてしまっても共にある。
 けれど私と那岐は一緒にいられない。
 那岐の一部を握りしめて、私は那岐と別れなければならないのだ。
 息を呑んだ私は、ぎゅっと手の中の逆鱗を握りしめる。
「そんな……そんなこと急に言われても困るよ。だって那岐はいつか神様をやめるって言ったじゃない。ただの那岐になって、夫婦の契りを交わすって言ったじゃない。私、そのときまで待つよ。村の人たちとのことも雨のことも何も解決してないし、私はなんの力にもなれてないよ。このままにしておけないよ!」
 怒濤のように感情が押し寄せた。
 夢から醒めたくないと言えば嘘になる。
 目が覚めて、何事もなかったように忘れて、様々な問題を放り出せれば楽だろう。
 けれど、このまま那岐を置いてはいけない。 
 生贄として命を捧げるだとか、雨を降らせる手助けをしたいだとか、責任感があるようなことを主張してしまうけれど、突き詰めれば私の心の底には、ひとつの確固たる想いが息づいていた。
 那岐と、別れたくない。
 ただ彼の傍にいたい。紫陽花の花と葉のように寄り添い、時が来たら共に朽ちる。それだけでいいのに。
 ひと息に捲し立てた私を、那岐は肩に手を置いて宥めた。
「また、会える。約束する」
「那岐……」
「俺は神をやめてから、そなたを迎えに行く。たとえ、どこにいても。そのときは俺の花嫁になってくれ。ただの那岐となった俺と、共に生きよう」
 那岐の静かな物言いは、すでに熟慮の上に導かれた結論なのだということを示していた。
 生贄である私の立ち入る隙はないと、暗に言われているようであった。
 私は肩を落として、目を伏せた。
「私が……生贄だから、那岐の力になれないの?」
「そんなことはない。そなたが傍にいてくれるだけで、俺の力になっている。だがそなたをこれ以上、危険に晒したくない。生贄を捧げろという村人の要求は増している。俺が不甲斐ないために、そなたを巻き込みたくないのだ」
 生贄を捧げろとはつまり、殺せという意味だろう。
 龍神の社で暮らし始めてからは村人に接していなかったので、そのような要求があることは露知らずにいた。村人の不満は次第に高まっていたのだ。
 那岐が私を儀式に参加させなかったのも、私の身に危害を及ばせないためだった。
 すべて、私のため。
 無理を言えば、那岐の足手まといになってしまう。
 理屈はわかっている。でも、感情が素直に頷くことを許さなかった。
 別れたくない、離れたくない。
 那岐の、傍にいたい。
 わがままだとわかっているのに、この想いを押し殺すのは、とても難しくて。
 瞳を潤ませる私の体を、逞しい腕が包み込んだ。
「逆鱗が、俺の身代わりだ。いつもそなたを見守っている。心は傍にいる」
 私は那岐の胸に縋りつき、声を殺して泣いた。
 逆鱗を握りしめた拳で何度も、那岐の胸を叩いた。
 胸を叩かれても那岐は何も言わず、私を抱きしめる腕にいっそう力を込めるのだった。

 私はその晩、眠りに就けなかった。目は冴え渡っている。
 いつものように那岐と布団を並べて体を横たえ、互いの手はつながれている。もらった逆鱗は水色の小さな香り袋に入れて、盆の上に置いていた。
 もう、この手を握るのも最後なのだろうか。
 最後という言葉が、重く胸に伸し掛かる。
 冷たくて、大きな手のひら。
 那岐の手を、離したくない。
 彼と共に、どこか遠い地へ行けないだろうか。
 けれど村人との問題を解決しない限り、那岐が村を離れることはできない。彼は五百年という歳月を過ごしたこの村を放り出せないだろう。それに蛟という眷属もいる。龍の那岐がいなくなれば、眷属は分散してしまうかもしれない。
 身を縛るものから、逃れられない。
 私たちが、結ばれるわけがない。
 でも……那岐は約束してくれた。神をやめてから、私がどこにいても迎えに行くと、真摯な目をして告げてくれた。
 私はその言葉を信じるしかない。
 那岐の想いを無駄にしてはいけない。わがままを言ってはいけない。
 このまま別れたほうが、お互いのためなのだ。
 切なくて苦しくて、また涙が零れ落ちそうになる。
 私の手が、震えだす。
 那岐はそっと身を起こした。
「……眠れないのか」
「ごめん……大丈夫だから」
 つないだ手に、より力が込められる。
 那岐の体温、そして息遣いをすぐ傍に感じるだけで、心は凪いでいく。
 虫の声が密やかに鳴る。
 私は那岐に寄り添いながら、一晩中彼の存在を心身に刻みつけていた。

 翌日、晴れ渡る空の下、那岐と私は川へ向かった。雨が降らないので川の水位は減り、わずかに残った水が乾いた川石の狭間を流れている。
 私は心を決めていた。
 夢から醒めよう。
 那岐の想いを無駄にしないために。