「中原にいた仲間の龍すべてが死に絶えてしまってな。俺は海の最果てを見ようとして、この島にやってきた。そうしたらこの村が干ばつで困っているところに遭遇したので、雨雲を呼んでやったのだ。村人に龍神様と崇められ、この村に留まってほしいと懇願されたので、蛟たちと共に龍神の社を築いて、それからずっと村にいる」
「そうだったんだね。じゃあ……那岐が望んだわけじゃないんだね」
人間の都合で那岐は神様に奉られ、この地に住むことを請われたのだ。地球規模で考えると、干ばつに困っている地域はこの村だけではないわけで、那岐が村に留まる理由もないと思える。
「まあな。だが困っている者を見過ごすわけにもいかないし、この地の眷属を纏める必要もあった。この地には龍がいないので、蛟たちは頼る者がないのだ。物の怪として野放しにはしておけないからな」
社にいる蛟たちを始めとして、この地には百年を生きた蛟がいくつも存在するようだ。物の怪として屠られてしまう蛟は人の世に息づくために、人間の信頼を得ている那岐を頼る。那岐が龍神としての存在を示すのも、意義のあることなのだと私は改めて認識した。
窓の外から、密やかな虫の声が耳に届く。
ふたりきりの室内には、しばらく沈黙が流れた。
眠気に襲われた私は、瞼が重くなる。
「ニエ……手をつないでもいいか? そうすれば安心して眠れる」
「うん……那岐……手を、つないで……」
布団から出した手が宙を掻くと、すぐに握りしめられた。
冷たくて大きな那岐の手のひらが心地好くて、ほうと吐息が零れる。
その安堵と共に、私はまどろみの中に沈んでいった。
龍神の社での暮らしは静かで、私は心穏やかに過ごせた。
相変わらず毎日那岐と川へ出かけては巾着袋の行方を捜していたが、これほど捜しても見つからないからにはもう下流から海へ流されてしまったのだと諦めかけていた。
始めは巾着袋を捜すという目的だったものの、いつしか那岐とふたりの時間を過ごせることが嬉しくて、そちらのほうに傾いていたのかもしれない。
川辺で那岐と語らう時間は特別なものだった。
いくら話しても、時は足りない。陽が沈むまでずっと川辺で語り合うこともあった。
内容はあとから思えば実に些細なことばかり。
私の髪に草がついていると手を伸ばした那岐がずっと髪を梳いているので嘘だとわかり、怒ったふりをしたりと、まるで恋人のように戯れていた。
那岐は、私に赤い着物を着せようとしなかった。蛟が用意してくれる着物は瑠璃紺や薄紅などの麗しい色ばかりで、生贄の証である毒々しい赤色は避けられた。異なる色の着物を纏っている私を見かけた村人が眉をひそめることもあったが、常に隣に那岐が付き添っているので何も言われることはなかった。
川で語らい、一緒に食事を取り、寄り添わせた布団で眠る。
那岐は毎晩、手をつないで眠ってくれた。
「悪夢を見ないようにな」
そう言って左手を握りしめてくれる那岐の存在が頼もしかった。
七日に一度の雨乞いの儀式の際には、私は社に留まり、出て来ないようにと那岐に言いつけられていたので、庭園の見える縁から空模様を窺っていた。
ぱらり、ぱらりと雨は降るのだけれど、村人が満足のいく量でないことは明らかだった。雨が上がると、広場からは言い争う村人の声が聞こえる。
私は庭園に降り立つ鳩に餌をやりながら、辛抱強く儀式が終わるのを待った。
戻ってきた那岐に声をかけると、決まって那岐は疲労を滲ませながら「心配ない」とだけ返した。
雨雲を呼ぶ能力は人間には理解不能のもので、龍神である那岐にしかその調整の度合いはわからない。一定量を降雨させることは難しいらしいのだが、茂蔵を始めとした村人たちが無茶な要求を那岐にぶつけているのであろうことは想像に易い。そして那岐を龍神様と崇める村人は擁護して、村は分裂する。非難されることも、神として崇められることも、そして村が対立することも那岐にとっては望まないことばかりだ。何もできない私はもどかしさを覚えた。
そうして瞬く間に、ひと月ほどが経過した。
照りつけるような陽射しは空に棚引く雲に遮られ、いつのまにか蝉の鳴き声は聞こえなくなった。朝晩の空気はひんやりとしている。
秋の気配がそこかしこに色濃く滲み始めた頃、私は那岐に連れられて、とある場所へ向かった。
社の裏から伸びた小さな山道は、龍神の社の敷地内にあるため誰も通らないようだ。柔らかな木漏れ日が、前を行く那岐の背を彩る。
「ここに道があったんだね。どこに続いてるの?」
「行けばわかる。もうすぐだ」
やがて道が開けた。勿忘草色の空が広がる。
空に溶け込む優しい色合いをした、手鞠型の紫陽花たちが出迎える。
「わあ……!」
紺碧と赤紫色の織り成す花弁が、萌葱色の葉を従えて、凜と咲き誇っている。優しい色合いは心を和ませてくれた。
小高い丘の上に植えられた無数の紫陽花は、今が盛りとばかりに瑞々しさを湛えている。
「この辺りは龍神の社の影響を受けているためか、紫陽花が晩秋まで咲いているんだ。この紫陽花をぜひ、そなたに見せたかった」
真夏の陽射しにも枯れず、雨露が滴るかのようにしっとりとした潤いを見せている紫陽花の姿は、私の胸に深く染み込んだ。
今まで、こんなにも花を見て美しいと感じたことはなかった。
那岐と出会い、共に過ごし、彼の心の裡に寄り添ってからは、世界が違って見える。
花の色も空の色も鳥の羽ばたきも、鮮やかに目に映り、ひとつひとつが奇蹟的な輝きとして心に刻まれていく。那岐の姿と共に。
「こんなに綺麗な紫陽花、初めて見たよ。紫陽花は綺麗だから、那岐みたいだね」
紫陽花はまるで、那岐のようだ。
瑞々しくて優しくて、大らかな姿。それなのに、凜と静かに佇んでいる。その美しさから一時も目を離せない。
「俺のようか……? では、そなたはどの花だ」
「私は……これかな」
卵形をした紫陽花の葉を指先で摘まむ。
美しい花でなくていい。私は物静かな葉となって、麗しい花の那岐に寄り添っていたい。
那岐の、傍にいたいから。
那岐は目を細めて、くっきりと葉脈の通る萌葱色の葉を見つめた。
「紫陽花は、桜のように花が散るということがない。いつまでも葉と共にあるのだ。枯れても、離れることはない」
それはまるで、那岐と私が離れないと示唆しているかのようだ。紫陽花の花と葉のように、その命を終えても共にいると、那岐は望んでくれるのだろうか。
「私……ずっと、那岐の傍にいてもいいの?」
那岐は答えない。紫陽花の前に佇むふたりの間に、沈黙が下りた。
紫陽花の花言葉は『辛抱強い愛情』だと、私は思い出す。
ふたりを取り巻く状況を考えれば、今の質問は那岐を困らせるものだったと、私は己の辛抱が足りなかったことを悔やむ。
やがて那岐は私に向き合うと、懐から何かを掴んで取り出した。
「これをやろう」
手のひらに握らされたそれを見てみる。
細長い鱗は陽の光を受けて、七色に輝いていた。
これは、まさか。
私は驚きの声を上げる。
「これ……逆鱗⁉ どうして、いつ、見つけたの?」
「そうだったんだね。じゃあ……那岐が望んだわけじゃないんだね」
人間の都合で那岐は神様に奉られ、この地に住むことを請われたのだ。地球規模で考えると、干ばつに困っている地域はこの村だけではないわけで、那岐が村に留まる理由もないと思える。
「まあな。だが困っている者を見過ごすわけにもいかないし、この地の眷属を纏める必要もあった。この地には龍がいないので、蛟たちは頼る者がないのだ。物の怪として野放しにはしておけないからな」
社にいる蛟たちを始めとして、この地には百年を生きた蛟がいくつも存在するようだ。物の怪として屠られてしまう蛟は人の世に息づくために、人間の信頼を得ている那岐を頼る。那岐が龍神としての存在を示すのも、意義のあることなのだと私は改めて認識した。
窓の外から、密やかな虫の声が耳に届く。
ふたりきりの室内には、しばらく沈黙が流れた。
眠気に襲われた私は、瞼が重くなる。
「ニエ……手をつないでもいいか? そうすれば安心して眠れる」
「うん……那岐……手を、つないで……」
布団から出した手が宙を掻くと、すぐに握りしめられた。
冷たくて大きな那岐の手のひらが心地好くて、ほうと吐息が零れる。
その安堵と共に、私はまどろみの中に沈んでいった。
龍神の社での暮らしは静かで、私は心穏やかに過ごせた。
相変わらず毎日那岐と川へ出かけては巾着袋の行方を捜していたが、これほど捜しても見つからないからにはもう下流から海へ流されてしまったのだと諦めかけていた。
始めは巾着袋を捜すという目的だったものの、いつしか那岐とふたりの時間を過ごせることが嬉しくて、そちらのほうに傾いていたのかもしれない。
川辺で那岐と語らう時間は特別なものだった。
いくら話しても、時は足りない。陽が沈むまでずっと川辺で語り合うこともあった。
内容はあとから思えば実に些細なことばかり。
私の髪に草がついていると手を伸ばした那岐がずっと髪を梳いているので嘘だとわかり、怒ったふりをしたりと、まるで恋人のように戯れていた。
那岐は、私に赤い着物を着せようとしなかった。蛟が用意してくれる着物は瑠璃紺や薄紅などの麗しい色ばかりで、生贄の証である毒々しい赤色は避けられた。異なる色の着物を纏っている私を見かけた村人が眉をひそめることもあったが、常に隣に那岐が付き添っているので何も言われることはなかった。
川で語らい、一緒に食事を取り、寄り添わせた布団で眠る。
那岐は毎晩、手をつないで眠ってくれた。
「悪夢を見ないようにな」
そう言って左手を握りしめてくれる那岐の存在が頼もしかった。
七日に一度の雨乞いの儀式の際には、私は社に留まり、出て来ないようにと那岐に言いつけられていたので、庭園の見える縁から空模様を窺っていた。
ぱらり、ぱらりと雨は降るのだけれど、村人が満足のいく量でないことは明らかだった。雨が上がると、広場からは言い争う村人の声が聞こえる。
私は庭園に降り立つ鳩に餌をやりながら、辛抱強く儀式が終わるのを待った。
戻ってきた那岐に声をかけると、決まって那岐は疲労を滲ませながら「心配ない」とだけ返した。
雨雲を呼ぶ能力は人間には理解不能のもので、龍神である那岐にしかその調整の度合いはわからない。一定量を降雨させることは難しいらしいのだが、茂蔵を始めとした村人たちが無茶な要求を那岐にぶつけているのであろうことは想像に易い。そして那岐を龍神様と崇める村人は擁護して、村は分裂する。非難されることも、神として崇められることも、そして村が対立することも那岐にとっては望まないことばかりだ。何もできない私はもどかしさを覚えた。
そうして瞬く間に、ひと月ほどが経過した。
照りつけるような陽射しは空に棚引く雲に遮られ、いつのまにか蝉の鳴き声は聞こえなくなった。朝晩の空気はひんやりとしている。
秋の気配がそこかしこに色濃く滲み始めた頃、私は那岐に連れられて、とある場所へ向かった。
社の裏から伸びた小さな山道は、龍神の社の敷地内にあるため誰も通らないようだ。柔らかな木漏れ日が、前を行く那岐の背を彩る。
「ここに道があったんだね。どこに続いてるの?」
「行けばわかる。もうすぐだ」
やがて道が開けた。勿忘草色の空が広がる。
空に溶け込む優しい色合いをした、手鞠型の紫陽花たちが出迎える。
「わあ……!」
紺碧と赤紫色の織り成す花弁が、萌葱色の葉を従えて、凜と咲き誇っている。優しい色合いは心を和ませてくれた。
小高い丘の上に植えられた無数の紫陽花は、今が盛りとばかりに瑞々しさを湛えている。
「この辺りは龍神の社の影響を受けているためか、紫陽花が晩秋まで咲いているんだ。この紫陽花をぜひ、そなたに見せたかった」
真夏の陽射しにも枯れず、雨露が滴るかのようにしっとりとした潤いを見せている紫陽花の姿は、私の胸に深く染み込んだ。
今まで、こんなにも花を見て美しいと感じたことはなかった。
那岐と出会い、共に過ごし、彼の心の裡に寄り添ってからは、世界が違って見える。
花の色も空の色も鳥の羽ばたきも、鮮やかに目に映り、ひとつひとつが奇蹟的な輝きとして心に刻まれていく。那岐の姿と共に。
「こんなに綺麗な紫陽花、初めて見たよ。紫陽花は綺麗だから、那岐みたいだね」
紫陽花はまるで、那岐のようだ。
瑞々しくて優しくて、大らかな姿。それなのに、凜と静かに佇んでいる。その美しさから一時も目を離せない。
「俺のようか……? では、そなたはどの花だ」
「私は……これかな」
卵形をした紫陽花の葉を指先で摘まむ。
美しい花でなくていい。私は物静かな葉となって、麗しい花の那岐に寄り添っていたい。
那岐の、傍にいたいから。
那岐は目を細めて、くっきりと葉脈の通る萌葱色の葉を見つめた。
「紫陽花は、桜のように花が散るということがない。いつまでも葉と共にあるのだ。枯れても、離れることはない」
それはまるで、那岐と私が離れないと示唆しているかのようだ。紫陽花の花と葉のように、その命を終えても共にいると、那岐は望んでくれるのだろうか。
「私……ずっと、那岐の傍にいてもいいの?」
那岐は答えない。紫陽花の前に佇むふたりの間に、沈黙が下りた。
紫陽花の花言葉は『辛抱強い愛情』だと、私は思い出す。
ふたりを取り巻く状況を考えれば、今の質問は那岐を困らせるものだったと、私は己の辛抱が足りなかったことを悔やむ。
やがて那岐は私に向き合うと、懐から何かを掴んで取り出した。
「これをやろう」
手のひらに握らされたそれを見てみる。
細長い鱗は陽の光を受けて、七色に輝いていた。
これは、まさか。
私は驚きの声を上げる。
「これ……逆鱗⁉ どうして、いつ、見つけたの?」