湯船から上がると、脱衣場で薄い木綿の着物を着せられた。そして、先程の座敷に連れて行かれる。そこに浴衣と帯を広げて待っていた蛟たちに、丁寧な所作で着付けられた。
髪も乾かしてから結い上げてもらい、花簪を挿してもらう。首を傾ければ、垂れ下がる珊瑚玉がしゃらりと鳴った。
「見違えたな」
感嘆の声を漏らした那岐が座敷に入ってきた。蛟たちは一斉に跪き、頭を下げる。
傅かれる那岐はまるでお城の若様のようだ。きっと龍神の那岐は、眷属の中でもっとも格が高いのかもしれない。
「浴衣用意してくれて、ありがとう。似合うかな?」
「ああ。よく似合っている」
愛しいものを見るように、那岐は双眸を細めた。
彼もすでに着替えを済ませている。雨乞いの儀式のときの装束とは違う、ゆったりとした浅葱色の浴衣姿だ。
涼しげな紬には、腰元から裾にかけて清楚な百合が描かれている。私の浴衣にも、同じ柄の百合が彩られていた。
おそろいの浴衣なんて、なんだか恥ずかしい。
でも、とても嬉しくて。
私の胸の前に、すいと手のひらを差し出した那岐は微笑んだ。
「今宵は灯籠を飾る。一緒に見よう」
「うん」
那岐の大きな手のひらに、自らの手を重ね合わせる。節くれ立った長い指が、優しく私の白い手を包み込んだ。冷たい手のひらから伝わる体温が、風呂で火照った私の体を心地良く冷やしていく。
手をつなぎながら廊下をわたり、少しの階を上った先にある露台へ導かれた。まるで舞台のように広い露台は欄干に囲われていて、庭園と、その先にある広場を見渡すことができる。
露台の周囲には、ぐるりと灯籠が巡らされていた。ひとつひとつの灯籠は細木で組まれた上に、白い和紙を貼ったものだ。灯籠の中から漏れている灯火が、薄らと和紙に透けていた。
西の空を見やれば、茜色の雲が織り成された狭間から、最後の陽光が放たれている。
もう太陽は沈みかけていた。時と共に、天は藍色に染め上げられていく。
「綺麗だね……」
「ああ、そうだな」
言葉少なに、並んで夕焼けを眺めた。つないだ手は離れず、しっかりと握られたまま。
浴衣に描かれた揃いの百合が寄り添い、つがいのように二輪になる。
やがて辺りが闇色に染まると、灯籠の明かりはより輝きを増す。幾重にも巡らされた灯火は幻想的に浮かび上がり、夜に溶け込んでいく。
「今日は、お祭りなのかな?」
「そうだな。客は俺とそなたの、ふたりだけだが」
ふたりきりの、灯籠祭り。
そこにはお囃子も露店もなく、ただ静かに灯り続ける灯籠と、互いの息遣いだけがある。
まるで世界にふたりきりしかいないよう。
私は無数の灯籠が描き出す刹那の輝きを、瞳に映した。
「ニエ」
ふいに名を呼ばれ、すぐ傍の那岐を見上げる。
ぎゅっと、つないだ手が強く握られた。
灯籠の明かりがひとかけら、影に隠れる。
那岐は真剣な顔をして、じっと私に目線を注いでいる。彼の精悍な面差しを、橙色の明かりが照らして濃い陰影を形作っていた。
「好いている」
低く、けれど明瞭に発せられた言葉には真摯さが滲んでいる。
私の心が揺さぶられ、どくんと脈打つ。
なんと答えて良いかわからず、目を瞬かせていた。
「これまでの生贄はみな断っていたが、ニエを龍神の社に招いたのは、そなたを俺の傍に置きたかったからだ。不遇な目に遭っているそなたを見過ごせない。だがそれは同情ではない。好いているから、いつも傍にいてほしいのだ。決して、生贄の役目を果たさせるためにそなたの身を預かったのではない。それはわかってほしい」
那岐の想いが身に染み渡るようだった。
同情ではない。好きだからこそ、那岐は私だけを見てくれて、傍に置きたいと願ってくれた。
彼の気持ちは私の胸の奥の、もっとも深いところまで届いた。そして砂糖菓子のように、ふわりと甘く溶けていく。那岐の告白は、私の体の一部になった。
「……ありがとう、那岐」
好きになってくれて、ありがとう。
平凡で、特別に美しいわけでもなく、特殊な能力があるわけでもない。そんな私を那岐が好きになってくれるなんて、信じられないほどの僥倖だった。
「私の、どこが好きなの?」
「そうだな……。初めは妙なことを言う娘だと思ったんだが、俺を個人として見て、親身になってくれたことだな。大概の者は龍神としての俺しか見ないのだが、そなたはそうしなかった。今日も村人に糾弾された俺を、声を上げて庇い立てしてくれた」
那岐が好きという感情を抱いてくれたのは、私の心から滲む言動のひとつひとつをよく見ていてくれたからなのだ。
彼は饒舌に言葉を紡いだ。
「俺は……これまでひとりだった。龍神と崇められてはいるが、神という名称は、実は人間が名付けたものだ。俺の正体は、ただの龍だ。雨を呼ぶという力を役立てられたために人間から神と奉られた。彼らの信仰心を否定するつもりはないが、いつしか重荷を感じていたのも事実だ。誰にも言えず抱えてきたその苦痛を和らげてくれる存在に出会った。それが、ニエだ。そなたの勇気ある心も、優しい心も、すべてが愛しい」
那岐の苦悩と孤独は途方もない年月の間、誰にも知られずに抱えられてきたのだ。
龍神として崇められ、龍神の社に住んで眷属に囲まれて、何不自由ない身分に見えるが、彼の心の裡は神としての役割に辛さを覚えていた。
それを、私だけに打ち明けてくれた。
癒したい。那岐を、支えてあげたい。
私の胸に愛しさが溢れた。ふわりと微笑んで、那岐を見上げる。
「那岐。神様、やめちゃおう」
突飛な提案に、那岐はこれ以上ないほど双眸を見開く。
「……なに? そなたはまた、何を言い出すのだ……」
「いつかね、神様をやめて、ただの那岐になろう。雨を降らせるのは、自然に任せるの。きっとそれでも上手くいくよ。そうしたら那岐は自由になれるよ」
「神をやめるか……。はは、面白い。そうすれば俺は雨を要求されることもなくなって、ただの那岐になれるな」
那岐の笑い声が灯籠の燦爛たる明かりの中に響き渡る。那岐が笑ってくれるたびに、私も笑顔になれた。
「ただの那岐になったら、那岐は何をしてみたい?」
「もし俺が神をやめて、そなたも生贄でなくなれば、そのとき俺は……そなたと夫婦の契りを交わしたい」
今度は私が驚かされる番だった。夫婦の契りを交わすというのは、結婚することだ。
那岐がそれを望むのは、本心なのだと思えた。
結婚して、生涯を共にする。
那岐と結婚できたら、ずっと一緒にいられる。
龍神と生贄としてではなく、ただの那岐と私として、何のしがらみもなく、ふたりでごはんを食べたり色々な話をしたり、笑い合える。
那岐と結婚するということを考えてみると、それは胸の中心にすとんと入っていった。
「私……那岐のお嫁さんになりたい」
髪も乾かしてから結い上げてもらい、花簪を挿してもらう。首を傾ければ、垂れ下がる珊瑚玉がしゃらりと鳴った。
「見違えたな」
感嘆の声を漏らした那岐が座敷に入ってきた。蛟たちは一斉に跪き、頭を下げる。
傅かれる那岐はまるでお城の若様のようだ。きっと龍神の那岐は、眷属の中でもっとも格が高いのかもしれない。
「浴衣用意してくれて、ありがとう。似合うかな?」
「ああ。よく似合っている」
愛しいものを見るように、那岐は双眸を細めた。
彼もすでに着替えを済ませている。雨乞いの儀式のときの装束とは違う、ゆったりとした浅葱色の浴衣姿だ。
涼しげな紬には、腰元から裾にかけて清楚な百合が描かれている。私の浴衣にも、同じ柄の百合が彩られていた。
おそろいの浴衣なんて、なんだか恥ずかしい。
でも、とても嬉しくて。
私の胸の前に、すいと手のひらを差し出した那岐は微笑んだ。
「今宵は灯籠を飾る。一緒に見よう」
「うん」
那岐の大きな手のひらに、自らの手を重ね合わせる。節くれ立った長い指が、優しく私の白い手を包み込んだ。冷たい手のひらから伝わる体温が、風呂で火照った私の体を心地良く冷やしていく。
手をつなぎながら廊下をわたり、少しの階を上った先にある露台へ導かれた。まるで舞台のように広い露台は欄干に囲われていて、庭園と、その先にある広場を見渡すことができる。
露台の周囲には、ぐるりと灯籠が巡らされていた。ひとつひとつの灯籠は細木で組まれた上に、白い和紙を貼ったものだ。灯籠の中から漏れている灯火が、薄らと和紙に透けていた。
西の空を見やれば、茜色の雲が織り成された狭間から、最後の陽光が放たれている。
もう太陽は沈みかけていた。時と共に、天は藍色に染め上げられていく。
「綺麗だね……」
「ああ、そうだな」
言葉少なに、並んで夕焼けを眺めた。つないだ手は離れず、しっかりと握られたまま。
浴衣に描かれた揃いの百合が寄り添い、つがいのように二輪になる。
やがて辺りが闇色に染まると、灯籠の明かりはより輝きを増す。幾重にも巡らされた灯火は幻想的に浮かび上がり、夜に溶け込んでいく。
「今日は、お祭りなのかな?」
「そうだな。客は俺とそなたの、ふたりだけだが」
ふたりきりの、灯籠祭り。
そこにはお囃子も露店もなく、ただ静かに灯り続ける灯籠と、互いの息遣いだけがある。
まるで世界にふたりきりしかいないよう。
私は無数の灯籠が描き出す刹那の輝きを、瞳に映した。
「ニエ」
ふいに名を呼ばれ、すぐ傍の那岐を見上げる。
ぎゅっと、つないだ手が強く握られた。
灯籠の明かりがひとかけら、影に隠れる。
那岐は真剣な顔をして、じっと私に目線を注いでいる。彼の精悍な面差しを、橙色の明かりが照らして濃い陰影を形作っていた。
「好いている」
低く、けれど明瞭に発せられた言葉には真摯さが滲んでいる。
私の心が揺さぶられ、どくんと脈打つ。
なんと答えて良いかわからず、目を瞬かせていた。
「これまでの生贄はみな断っていたが、ニエを龍神の社に招いたのは、そなたを俺の傍に置きたかったからだ。不遇な目に遭っているそなたを見過ごせない。だがそれは同情ではない。好いているから、いつも傍にいてほしいのだ。決して、生贄の役目を果たさせるためにそなたの身を預かったのではない。それはわかってほしい」
那岐の想いが身に染み渡るようだった。
同情ではない。好きだからこそ、那岐は私だけを見てくれて、傍に置きたいと願ってくれた。
彼の気持ちは私の胸の奥の、もっとも深いところまで届いた。そして砂糖菓子のように、ふわりと甘く溶けていく。那岐の告白は、私の体の一部になった。
「……ありがとう、那岐」
好きになってくれて、ありがとう。
平凡で、特別に美しいわけでもなく、特殊な能力があるわけでもない。そんな私を那岐が好きになってくれるなんて、信じられないほどの僥倖だった。
「私の、どこが好きなの?」
「そうだな……。初めは妙なことを言う娘だと思ったんだが、俺を個人として見て、親身になってくれたことだな。大概の者は龍神としての俺しか見ないのだが、そなたはそうしなかった。今日も村人に糾弾された俺を、声を上げて庇い立てしてくれた」
那岐が好きという感情を抱いてくれたのは、私の心から滲む言動のひとつひとつをよく見ていてくれたからなのだ。
彼は饒舌に言葉を紡いだ。
「俺は……これまでひとりだった。龍神と崇められてはいるが、神という名称は、実は人間が名付けたものだ。俺の正体は、ただの龍だ。雨を呼ぶという力を役立てられたために人間から神と奉られた。彼らの信仰心を否定するつもりはないが、いつしか重荷を感じていたのも事実だ。誰にも言えず抱えてきたその苦痛を和らげてくれる存在に出会った。それが、ニエだ。そなたの勇気ある心も、優しい心も、すべてが愛しい」
那岐の苦悩と孤独は途方もない年月の間、誰にも知られずに抱えられてきたのだ。
龍神として崇められ、龍神の社に住んで眷属に囲まれて、何不自由ない身分に見えるが、彼の心の裡は神としての役割に辛さを覚えていた。
それを、私だけに打ち明けてくれた。
癒したい。那岐を、支えてあげたい。
私の胸に愛しさが溢れた。ふわりと微笑んで、那岐を見上げる。
「那岐。神様、やめちゃおう」
突飛な提案に、那岐はこれ以上ないほど双眸を見開く。
「……なに? そなたはまた、何を言い出すのだ……」
「いつかね、神様をやめて、ただの那岐になろう。雨を降らせるのは、自然に任せるの。きっとそれでも上手くいくよ。そうしたら那岐は自由になれるよ」
「神をやめるか……。はは、面白い。そうすれば俺は雨を要求されることもなくなって、ただの那岐になれるな」
那岐の笑い声が灯籠の燦爛たる明かりの中に響き渡る。那岐が笑ってくれるたびに、私も笑顔になれた。
「ただの那岐になったら、那岐は何をしてみたい?」
「もし俺が神をやめて、そなたも生贄でなくなれば、そのとき俺は……そなたと夫婦の契りを交わしたい」
今度は私が驚かされる番だった。夫婦の契りを交わすというのは、結婚することだ。
那岐がそれを望むのは、本心なのだと思えた。
結婚して、生涯を共にする。
那岐と結婚できたら、ずっと一緒にいられる。
龍神と生贄としてではなく、ただの那岐と私として、何のしがらみもなく、ふたりでごはんを食べたり色々な話をしたり、笑い合える。
那岐と結婚するということを考えてみると、それは胸の中心にすとんと入っていった。
「私……那岐のお嫁さんになりたい」