「ありがとう、那岐、美味しいよ。今まで食べたごはんのなかでいちばんおいしい……!」
「はは。喉に詰まらせないよう、気をつけろ。ゆっくり食べるといい」
 那岐が私の身柄を預かると申し出たのは、村長の屋敷で提供されている食事の話をしたからではないだろうか。お腹を空かせている私を、彼は不憫に思ったのだ。
 ごはんを食べたら、次は私が食べられるのかな……。
 ふと、そんなことを考える。生贄を捧げれば、那岐は雨を降らせることができるのだろうから。雨乞いの結果が満足のいかないものなので、茂蔵を始めとした村人たちは不満を抱いている。
 食事を平らげて箸を置いた私は、覚悟を決めた。
「ごちそうさまでした」
「お粗末様」
「……それで、次は私が那岐に食べられるんだよね?」
 なぜか動揺を見せた那岐は箸を取り落とす。窺うような眼差しを私に向けてきた。
「そなたは、操を俺に捧げる覚悟をしているのか?」
「みさお? 生贄が捧げるのは、命だよね」
「あ……ああ、そちらのことか。いや、すまない。俺の思い違いだ。気にするな」
 咳払いをした那岐は心を落ち着かせるかのように虚空を見つめる。けれどすぐに険しい目つきを見せた。
「先程、茂蔵が口にした物騒なことを気にしているのか。あの男もサヤもそうだが、若い者はすぐに己の望みどおりになるものと決めつけて急く傾向がある。生贄を捧げることで神の栄養になるかのように、彼らは思い違いをしているのだ。そなたの命を取ることなどしないから安心してほしい」
「そうなの……? 那岐に頭から食べられるのかなって思ってた」
「俺はそこまで悪食ではないのだが……」
 ぷっ、と笑った那岐は声を立てて笑い出した。私の発想が可笑しかったらしい。
 また、笑ってくれた。
 那岐が笑うと、口元にえくぼが出る。私はそのえくぼを見られることがたまらなく嬉しかった。彼が笑ってくれることで、私の心もじんわりと温まる。
 ようやく笑いを収めた那岐は眦の涙を指先で拭う。
「どうもそなたには調子を狂わされるな。だから生贄という存在は人間側が決めた貢ぎ物で、俺が要求したわけではないのだ。今年のように雨の量が少ないときは特に、生贄を使った儀式を行うことを勧めてくる。俺は今までに何度も人間に対して、生贄と雨雲を呼ぶことに因果関係がないことを説明しているし、すべての生贄を断っている。だが彼らは古い因習に倣って、力を持つ者に捧げ物をするのは意義があると信じているのだ。それが彼らが培ってきた常識だ。根深い価値観を覆すことは容易ではない」
 私の前にも生贄となった娘はいたのだ。すべての生贄を那岐が断ったと知り、なぜか安堵の息が零れた。
 那岐は言葉を紡いだ。
「彼らが俺に不満を持つのは、自分たちの命がかかっているゆえだ。極端に雨が少なければ作物が枯れてしまい、年貢も納められず、食べるものがなくなる。雨が降らないことは命を削られることという危機感がある。特に茂蔵は水組長という役があるからな。田の水の管理を任されているのに肝心の水がないので、村人はさも茂蔵に責任があるかのように詰め寄っているのだ」
 那岐を激しく詰る茂蔵にも、己の置かれた立場というものがあるのだ。そしてすべては雨を降らせない那岐が悪いという結論へ向かっていく。
「そんな……天気のことは文句言っても仕方ないよ。お天気の良い日が続くのは、誰のせいでもないもの」
「人間は誰かに責任を取らせたい生き物なのだ。俺は己が不甲斐ない。村の老人が俺を敬うのは、昔は雨雲を自在に操ることができたからだ。だが……ここ数年はもう、その力も失われかけている。そのことは村人にはとても言えないがな」
 自嘲するように唇を歪めた那岐は、目を伏せる。
 那岐の力が失われかけていることを、村人は薄々勘付いているのかもしれない。だからこそ早急な結果を求めるのだ。
 けれど焦るほどに事態は空回りするのではないかと思えた。
「那岐が雨雲を呼ぶ力を取り戻すには、どうしたらいいの?」
「さあな……俺は長く生きすぎたようだ」
 二千才の龍神である那岐は、若々しい容貌に苦い笑みを浮かべて嘯いた。

 那岐が力を取り戻すために、何か方法はないのだろうか。
 私にも、できることがあればいいのに……。
 食事を御馳走になったあと、座敷に設えられた透かし彫りの窓から外を眺めた私は、庭の緑を瞳に映しながら考えた。
 生贄を喰らっても龍神の力にならないのであれば、私が命を投げ出す意味はなかった。生贄となる決意をしたものの、死ななくてもよいとわかれば、それは確かな安堵をもたらした。
 那岐は人間と共存していく道を模索している。 
 茂蔵に罵倒されても怒ったりせず、村人の不安を宥めていた。彼らが意見の相違により対立することを避けていた。
 一部の村人が、那岐をいくらでも使える降水機のように捉えていることが私には許しがたい。
 けれど那岐自身が、村のために雨を降らせることを望んでいるのならば、私もその意思を尊重したい。
 窓から臨める庭園には松や紅葉などが配置されており、見る者の目を潤してくれる趣のある景色だ。ここからでも、広場にある樫の巨木から生い茂る枝葉が見える。
 さらり、と襖が開かれた音に振り向くと、白い着物を纏った蛟たちが数名、座敷の敷居を跨がずに額ずいていた。
「あ……どうかしましたか?」
 蛟たちは人型だけれど、喋ることはできないようだ。
 静かに立ち上がると、携えていた長方形の盆を私に見せる。
 盆の上には浅葱色の浴衣と、黄の帯が乗せられていた。これに着替えましょうということらしい。
「わかりました」
 小屋の長持に入っていた着物はすべて赤で、それは生贄を表す色だからなのだけれど、古くて生地が傷んでいたので、着用していると皮膚が擦れて痛かった。この社にいる限りは那岐と蛟たちの目にしか触れないだろうから、違う色の着物に着替えても差し支えないだろう。
 自らの帯を解こうとして手をかけると、ひとりの蛟がそっと押し留める。手を取られて廊下へ出た。どこで着替えるのだろうかと首を捻っていると、廊下の奥にある湯屋に導かれる。脱衣場はまるで銭湯のように広く、奥には湯気を上げている檜造りの風呂があった。
「お風呂に入っていいの……?」
 案内してくれた蛟は静かに頷いた。
 今までいた小屋には風呂がなく、少しの盥に汲まれた井戸水で行水していた。お風呂に入れるなんて、とてもありがたいことだ。
 蛟は私の帯を解くと、赤い着物の袷を開いて、肩から下ろす。裸になった私は石造りの床に、ひたりと足を忍ばせた。
 すると、すでに着物の裾をからげている蛟も湯屋に入ってくる。桶を手にして海綿を用意していた。
「あの……ひとりで入れます」
 また頷いた彼女は海綿を構えている。どうやら洗われなくてはいけないらしい。
 私は差し出された小さな椅子に腰を下ろす。海綿が優しく背中を擦った。体を洗ってもらうなんて、まるでお姫様のようだ。
 髪まで洗ってもらい、全身を綺麗にされてから湯船に浸かる。
「ふう……きもちいい」
 思わず声が漏れてしまった。檜の木の香りが、鼻孔をくすぐる。