落ち着きのある那岐の物言いに、場の空気は一旦熱が引いたように沈静化した。だが一部の若い男は怒りが収まらないようで、那岐に言葉で噛みつく。
「すまないというなら、今すぐ雨を降らせてくれ。神のくせにそんなこともできないのか!」
「もうやめて!」
 思わず叫んだ私の声に、村人たちは一斉に振り向いた。
 那岐ばかりを責めるなんて、理不尽だと思った。龍神の那岐は昔からこの土地にいて、村人から望まれるまま雨をもたらしてきたのに、今は調子が優れないからといって罵倒するのは恩知らずのすることではないか。
 人々の注目を浴びた私は己を奮い立たせ、樹木の陰から姿を現した。毅然として村人たちと向かい合う。
「那岐は今、村のために雨を降らせてくれたじゃないですか。量が少なかったからといって全く結果を出していないような言い方をするのは、ひどすぎると思います」
 赤い着物を纏う私を、人々は禍々しいものを見たように眉をひそめた。批判していた男は私の言い分に激昂する。
「生贄の分際で偉そうなことを言うな! おまえは誰が作ったものを食べているんだ。俺たちが作った麦や米だぞ。雨が降らなきゃ、それも食べられなくなるんだ。村長、穀潰しの生贄なんかさっさと殺して龍神に喰わせればいいんじゃないか?」
 ぎくりとして身が強張る。
 名指しされた村長は気まずそうに唇を歪めながら、那岐と男の双方に目を配る。
 両方に配慮しなければならないのでどちらの味方もできないという村長の立場が、その態度で察せられた。
 村人たちの私を見る目に、侮蔑と、訴えを込めた意思が混じる。
 穀潰し、という男の指摘は正しかった。
 私は、村人たちが作った食べ物を、働きもせずに食べているのだ。
 食べた分を、生贄の役目を果たして返すのは当然だと、村人たちは眼差しに込めている。
 もし私の命を捧げることによって那岐が批判を免れるのなら、それでもいいと思えた。私は凜然として村人に訴えた。
「私は、生贄として、那岐に命を捧げます。だから、どうか那岐を信じてあげてください。彼は必ず雨を降らせると、約束してくれているんです」
 那岐の双眸が驚きに見開く。
 私の決意に、村人たちは恐れ戦いたように身を引いた。
 腰を上げた村長は手のひらをかざしながら、まあまあ、と間に入る。
「事を成すには、何かと準備が要りますのでな。今日のところはこの辺にしておこうか、茂蔵殿。水組長なので気苦労が多いことは、重々承知しておるよ」
 那岐を批判していた男は茂蔵という名らしい。茂蔵は渋々頷くと、さっと身を翻して広場を出て行った。幾人かの男たちがあとに続く。
 嘆息した村人たちも腰を上げると、やれやれと呟きながら家路へ向かっていった。
 私が口出ししたことにより、那岐を庇ったつもりが逆に迷惑をかけてしまったようだ。
 でも、那岐が罵倒されるのを黙って見ていられなかった。彼は村人のために、懸命に雨を降らせようとしているのに。
 唇を噛んで俯いた私の傍に、那岐がやってくる。
 余計なこと言うなって、怒られちゃうかな……。
 ふいに振り向いた那岐は、村長に向けてひとこと放った。
「今日からニエは、龍神の社に住まわせる」
 村長は瞬きをした。那岐の突然の宣言に、私も瞬きを繰り返す。そんな話は何も聞いていなかった。
 返答をしない村長の代わりに、サヤが父親を押し退けて前へ出る。
「なぜですか、龍神様。穢れた生贄は龍神様の住まわれる神聖な社にふさわしくありません」
「ふさわしいかどうかは、俺が決める。ニエは俺の生贄なのだから、こちらで面倒を見る。これまで世話をかけたな」
「面倒を見るとはお優しいことです。これは生贄ですから、牢につないでおくのですか? それならば我が屋敷にも相応の牢がございます」
 サヤは必死な形相で那岐に詰め寄った。彼女は、どうしても私を龍神の社に行かせることは避けたいようだった。
 那岐は、すうっと目を細める。その眼差しには微量の侮蔑が含まれていた。
「牢につなぐことはしない。おまえは生贄の意味を取り違えているようだな。ニエはおまえたちの願いを叶えるために身を投げ出すと言ったのだぞ。感謝の心を持て」
 叱責を受けたサヤは肩を震わせていた。泣き出しそうなサヤの腕を、慌てて村長は引く。
「申し訳ございません、龍神様。娘が差し出がましい口を利きまして。龍神様の仰ること、ごもっともです。生贄の処遇はお任せいたします」
 サヤを連れて、逃げ出すように村長は場をあとにした。
 広場には、那岐と私だけが残される。
 様々なことがあって、理解が追いつかない。とりあえず、私はもうあの小屋に戻らなくていいらしい。
 樫の巨木に留まった蝉が嗄れた声で鳴き始めた。蝉を見上げながら、ぽつりと那岐は呟く。
「飯にしないか」
「……え?」
「腹が減った。ひとまず飯にしよう」
 龍神の社に向かって歩く那岐の背を、ぼんやりとして見送る。私がついてこないのに気づいた那岐は振り向いた。
「来い」
 たったそのひとことに、喜びが胸に湧き上がる。
 那岐と一緒にいられるという実感がじわりと、体中に甘く染みていった。
 私は棒立ちになっていた足を繰り出して、那岐のもとへ駆け寄る。
 眼前に広がる龍神の社は荘厳さを湛えた建造物で、母屋から翼を広げたような形をして左右に棟を伸ばしている。厳かさに満ちていて、由緒ある佇まいは神聖な気配を帯びていた。
 幾重にも連なる朱の鳥居をくぐれば、すうと冷感が染み渡る。
 まるで澄んだ水が体中を満たしていくような充足感を覚えた。
 玄関の敷居を跨ぐと、広い土間から続く奥の部屋には誰もおらず、しんとしていた。
 草履を脱ぎ揃え、那岐のあとに続いて広い廊下をわたり、奥の部屋へ赴く。床の間に掛け軸がかけられたその部屋には、すでにひとり分の膳が用意されている。膳の前に腰を下ろした那岐は、襖の向こうに声をかけた。
「膳をもうひとつ頼む」
 返事はないのだが、何者かの気配を感じた。
 ややあって、白い着物を纏った女中が音もなく膳を運んでくる。細面の彼女は異様に目尻が吊り上がり、妖しい雰囲気を纏わせていた。
「蛟(みずち)だ。この社のことや俺の身の回りの世話は、龍の眷属に任せている」
 蛟とは、水に棲む蛇が源とされる水神だ。日本書紀では毒を吐いて悪さをする蛟を、県守が退治したと伝えられている。
「そうなんだね。龍の眷属はみんな人に変身できるの?」
「百年生きた蛟は人型になれる。蛟たちは人間と共存して、この世界に息づいている。物の怪として斬られてしまうこともあるから正体は隠しているがな。この膳の食べ物も、すべて蛟たちが手に入れてくれたものだ」
 膳には素晴らしい御馳走が並んでいた。鮎の塩焼き、白磁の小鉢には山菜の煮物、漆塗りの椀に入れられた蛤の潮汁が湯気を立てている。それに茶碗には大盛りの白米。
「すごい……本物の白いごはんだ。お魚、久しぶりに見たよぉ……」
 感激した私は手を合わせて、「いただきます」と感謝を捧げた。
 夢中でごはんを頬張りながら、豪華な食事を食べさせてもらえるありがたみを噛みしめる。
 これも那岐と、それから食事を用意してくれた蛟のおかげだ。
 上品に汁物を啜っている那岐に礼を述べる。