明日も、那岐と会える。
そして明日こそ、きっと見つかる。
どんなにひとりで過ごす小屋で孤独を感じても、白粥ばかりの食事でお腹が空いていても、その希望が私の心をつないでいた。
外出するところを村長に見つかると、叱られて小屋に戻されてしまうので、私は人目を忍んで川へ赴いた。穢れた生贄とみなされている私は、できるだけ人目に触れてはいけないのだそうだ。
けれど那岐はほかの人のように、私を哀れとも汚いとも見なかった。それが私の心を支えてくれた。
ひとしきり川を探ってから川辺に上がると、濡れた足を乾かすため、私たちは草むらに並んで座る。
「川の水が少ないな……」
那岐は胡座を掻いて川を眺めながら、独りごちた。
照りつける夏の陽射しのためか、川の水位は初めに見たときよりも下がっている。
今はもう、わずかに足首が濡れるほどだ。川底が完全に剥き出しになれば、捜し物は見つけやすいかもしれない。
脱いだ草履はふたり分、並べて揃えられている。ひたすら川を凝視している那岐の隣で、私は足を乾かそうと、白い脛を投げ出して踵を振る。
きゅう、と私のお腹が鳴った。
顔を朱に染めて俯くと、那岐は懐を探り出す。彼は笹で包んだ三角形のものを私に手渡した。
「なにこれ?」
「粽(ちまき)だ」
美味しそうな香りが漂ってくるので、中身は食べ物のようだ。笹の葉を開けば、見覚えのある純白の米が現れる。輝く白い米を目にして、私の喉がこくりと鳴る。
「これ……食べていいの?」
那岐は深く頷く。彼は懐からもうひとつの粽を取り出すと、笹を剥いて米にかぶりついた。
「毎日腹の虫を鳴かせているから、腹が空いているのだろうと思ってな」
「……いただきます」
かじりついた粽は、もち米の甘みが染みていた。夢中で頬張り、何度も噛んで存分に味わう。体中に染み渡るほどの美味しさに感激の涙が零れた。
「おいしい……」
こんなに食べ物のありがたみを感じたのは、生まれて初めてだった。
頬を透明の雫で濡らしながら粽を頬張る私を、那岐はじっと見ていた。
泣いてしまうなんて恥ずかしいけれど、込み上げる感情を抑えられない。
やがて食べ終えると、那岐は器用に笹の葉を折り始めた。
「村長のところでは、ろくにものを食べてないのか?」
世間話といったふうに投げかけた那岐は、手元の笹に目線を注いでいる。私は、きゅっと青碧の笹を握りしめた。
「……朝晩の白粥だけ。でも、奉公人のみんなも同じもの食べてるから、我慢しないと」
「だが、そなたは小屋に住まわされているだろう。食事もそこでひとりで食べるのか?」
「そうだよ。いつも女中さんが持ってきてくれるの」
本当はひとりで食べるのは寂しいのだけれど、生贄である私は穢れていると人々から思われているので、母屋の台所で奉公人たちと共に食事を取ることは許されない。
「厨を受け持っている女中は主人の目を盗んで、漬物や煮物を奉公人たちの食事に加えるんだ。厨には主人は滅多に顔を出さないからわからないし、そうすることで奉公人同士で融通を利かせている。どこの地主の屋敷でも行われている暗黙の了解だぞ」
「そうなんだ……」
みんながひもじい思いをしているのだから我慢しなければいけないと自らに言い聞かせていたけれど、実はそういった裏があったらしい。
私には余分な食事は回せないということなのだろう。仲間はずれにされたようで哀しいけれど、穢れた生贄として嫌われているので仕方ない。それに女中の仕事をこなしているわけではないので、もっと食べさせてほしいと要求できる立場でもなかった。
私の仕事は、生贄だ。
生贄として、いずれ那岐にこの身を捧げなければならないのだ。
美味しくないと思うのだけれど。
「じゃあ那岐と粽を食べたのも、ひみつだね」
なんだか哀しみを通り越してしまって、可笑しくなった。乾いた笑いを零す私を、那岐は手を止めて凝視する。
「ああ……そうだな。ひみつだ」
腰を上げた那岐は水面に笹舟を浮かべた。笹舟は川の流れに乗り、ゆったりと下流へ向かっていく。
笹舟が見えなくなるまで、ふたりで黙して眺めていた。さらさらと木立を揺らす風の音色が優しく耳に届く。
ふいに那岐は呟いた。
「明日は、雨を降らせる」
「あ……週に一度って、決まってるんだよね」
龍神として祀られている那岐は、村のために七日に一度、雨を降らせるのだという。
村長を始めとした村人たちが集まり、雨乞いの祈りを捧げるのがこの土地の風習だそうだ。那岐からその話を聞いた私は、祈祷師のようなものかなと思った。雨を降らせるという能力ゆえに、村長は那岐を敬っているのだ。
明日は会えないと暗に告げられて、私の胸に秘かな落胆が広がる。
残念だけれど、それが那岐の大事な役目なのだ。
目線を落とした私が握りしめた笹の葉を、那岐の大きな手のひらが攫う。
那岐はまた笹舟を折りだした。
「そなたも来ないか。龍神の社に」
「え……。私も見に行っていいの?」
「無論だ。そなたは、俺の生贄なのだから」
那岐が住まいにしている龍神の社で雨乞いの儀式は行われる。私は一度も見に行ったことはない。村人が大勢いるので、私がいては迷惑だろうと気後れするからだ。
私が身につけている着物に赤色しかないのは理由があった。
どこにいても赤は目立つので、そこに穢れた生贄がいるという目印になるから。
道を通れば、村人は眉間に皺を寄せて臭いものにそうするように私から目を背ける。
だから私も人前には極力出ないように気をつけていた。
那岐だけだ。
彼だけは私を疎んだりしない。
それがたとえ己の生贄だからという理由であっても、那岐が親身に接してくれることは私のよすがとなっていた。
「行きたい……那岐が雨を降らせるところ、見てみたい」
私が見たことのない那岐に会いたいという想いが、胸の奥から泉のように湧いて出た。
儀式の邪魔にならないよう、樹木の陰からそっと窺うだけなら、大丈夫ではないだろうか。
微笑んだ那岐は、私の手のひらに笹舟を握らせてくれた。
私は水面にそうっと、笹舟を浮かべる。手を離れた笹舟はくるりと舳先を回転させながら、緩やかな川の流れに添って流れていく。
あのような脆そうに見える笹舟でも、懸命に川を下っていけるのだ。
笹舟に勇気をもらえた私は、雨乞いの儀式に訪れることを那岐と約束した。
翌日の朝餉を終えると、浮き立つ気分と不安な心持ちの双方を抱えた私は小屋の土間で逡巡した。
浮き立つのは、普段は見ない那岐の姿を儀式で見られるから。不安なのは、もし村人に見つかったら受け入れられないのではないかという憂慮だ。
そして明日こそ、きっと見つかる。
どんなにひとりで過ごす小屋で孤独を感じても、白粥ばかりの食事でお腹が空いていても、その希望が私の心をつないでいた。
外出するところを村長に見つかると、叱られて小屋に戻されてしまうので、私は人目を忍んで川へ赴いた。穢れた生贄とみなされている私は、できるだけ人目に触れてはいけないのだそうだ。
けれど那岐はほかの人のように、私を哀れとも汚いとも見なかった。それが私の心を支えてくれた。
ひとしきり川を探ってから川辺に上がると、濡れた足を乾かすため、私たちは草むらに並んで座る。
「川の水が少ないな……」
那岐は胡座を掻いて川を眺めながら、独りごちた。
照りつける夏の陽射しのためか、川の水位は初めに見たときよりも下がっている。
今はもう、わずかに足首が濡れるほどだ。川底が完全に剥き出しになれば、捜し物は見つけやすいかもしれない。
脱いだ草履はふたり分、並べて揃えられている。ひたすら川を凝視している那岐の隣で、私は足を乾かそうと、白い脛を投げ出して踵を振る。
きゅう、と私のお腹が鳴った。
顔を朱に染めて俯くと、那岐は懐を探り出す。彼は笹で包んだ三角形のものを私に手渡した。
「なにこれ?」
「粽(ちまき)だ」
美味しそうな香りが漂ってくるので、中身は食べ物のようだ。笹の葉を開けば、見覚えのある純白の米が現れる。輝く白い米を目にして、私の喉がこくりと鳴る。
「これ……食べていいの?」
那岐は深く頷く。彼は懐からもうひとつの粽を取り出すと、笹を剥いて米にかぶりついた。
「毎日腹の虫を鳴かせているから、腹が空いているのだろうと思ってな」
「……いただきます」
かじりついた粽は、もち米の甘みが染みていた。夢中で頬張り、何度も噛んで存分に味わう。体中に染み渡るほどの美味しさに感激の涙が零れた。
「おいしい……」
こんなに食べ物のありがたみを感じたのは、生まれて初めてだった。
頬を透明の雫で濡らしながら粽を頬張る私を、那岐はじっと見ていた。
泣いてしまうなんて恥ずかしいけれど、込み上げる感情を抑えられない。
やがて食べ終えると、那岐は器用に笹の葉を折り始めた。
「村長のところでは、ろくにものを食べてないのか?」
世間話といったふうに投げかけた那岐は、手元の笹に目線を注いでいる。私は、きゅっと青碧の笹を握りしめた。
「……朝晩の白粥だけ。でも、奉公人のみんなも同じもの食べてるから、我慢しないと」
「だが、そなたは小屋に住まわされているだろう。食事もそこでひとりで食べるのか?」
「そうだよ。いつも女中さんが持ってきてくれるの」
本当はひとりで食べるのは寂しいのだけれど、生贄である私は穢れていると人々から思われているので、母屋の台所で奉公人たちと共に食事を取ることは許されない。
「厨を受け持っている女中は主人の目を盗んで、漬物や煮物を奉公人たちの食事に加えるんだ。厨には主人は滅多に顔を出さないからわからないし、そうすることで奉公人同士で融通を利かせている。どこの地主の屋敷でも行われている暗黙の了解だぞ」
「そうなんだ……」
みんながひもじい思いをしているのだから我慢しなければいけないと自らに言い聞かせていたけれど、実はそういった裏があったらしい。
私には余分な食事は回せないということなのだろう。仲間はずれにされたようで哀しいけれど、穢れた生贄として嫌われているので仕方ない。それに女中の仕事をこなしているわけではないので、もっと食べさせてほしいと要求できる立場でもなかった。
私の仕事は、生贄だ。
生贄として、いずれ那岐にこの身を捧げなければならないのだ。
美味しくないと思うのだけれど。
「じゃあ那岐と粽を食べたのも、ひみつだね」
なんだか哀しみを通り越してしまって、可笑しくなった。乾いた笑いを零す私を、那岐は手を止めて凝視する。
「ああ……そうだな。ひみつだ」
腰を上げた那岐は水面に笹舟を浮かべた。笹舟は川の流れに乗り、ゆったりと下流へ向かっていく。
笹舟が見えなくなるまで、ふたりで黙して眺めていた。さらさらと木立を揺らす風の音色が優しく耳に届く。
ふいに那岐は呟いた。
「明日は、雨を降らせる」
「あ……週に一度って、決まってるんだよね」
龍神として祀られている那岐は、村のために七日に一度、雨を降らせるのだという。
村長を始めとした村人たちが集まり、雨乞いの祈りを捧げるのがこの土地の風習だそうだ。那岐からその話を聞いた私は、祈祷師のようなものかなと思った。雨を降らせるという能力ゆえに、村長は那岐を敬っているのだ。
明日は会えないと暗に告げられて、私の胸に秘かな落胆が広がる。
残念だけれど、それが那岐の大事な役目なのだ。
目線を落とした私が握りしめた笹の葉を、那岐の大きな手のひらが攫う。
那岐はまた笹舟を折りだした。
「そなたも来ないか。龍神の社に」
「え……。私も見に行っていいの?」
「無論だ。そなたは、俺の生贄なのだから」
那岐が住まいにしている龍神の社で雨乞いの儀式は行われる。私は一度も見に行ったことはない。村人が大勢いるので、私がいては迷惑だろうと気後れするからだ。
私が身につけている着物に赤色しかないのは理由があった。
どこにいても赤は目立つので、そこに穢れた生贄がいるという目印になるから。
道を通れば、村人は眉間に皺を寄せて臭いものにそうするように私から目を背ける。
だから私も人前には極力出ないように気をつけていた。
那岐だけだ。
彼だけは私を疎んだりしない。
それがたとえ己の生贄だからという理由であっても、那岐が親身に接してくれることは私のよすがとなっていた。
「行きたい……那岐が雨を降らせるところ、見てみたい」
私が見たことのない那岐に会いたいという想いが、胸の奥から泉のように湧いて出た。
儀式の邪魔にならないよう、樹木の陰からそっと窺うだけなら、大丈夫ではないだろうか。
微笑んだ那岐は、私の手のひらに笹舟を握らせてくれた。
私は水面にそうっと、笹舟を浮かべる。手を離れた笹舟はくるりと舳先を回転させながら、緩やかな川の流れに添って流れていく。
あのような脆そうに見える笹舟でも、懸命に川を下っていけるのだ。
笹舟に勇気をもらえた私は、雨乞いの儀式に訪れることを那岐と約束した。
翌日の朝餉を終えると、浮き立つ気分と不安な心持ちの双方を抱えた私は小屋の土間で逡巡した。
浮き立つのは、普段は見ない那岐の姿を儀式で見られるから。不安なのは、もし村人に見つかったら受け入れられないのではないかという憂慮だ。