朝を講義の時間が迫る。
 沙織がデータ分析室の時計を見て周囲を見渡す。私の姿がない。無料通信アプリを開いても私からの連絡はない。昨日、宏紀を追いかけて行った私を脳裏で思い返す。もう一度、周囲を見渡すと宏紀の姿もなかった。もしかして二人でどこかに出かけたのかって想像しているのかもしれない。そうだったら、どんなにいいか。
 沙織は立ち上がってデータ分析室を出ていく。無料通信アプリで電話をしてみる。長く私の反応を待っているけど、何の音沙汰もなかった。沙織は下に降りて生活環境学部の建物の入り口を覗いてみる。講義時間が近づいてきていることもあって人気はない。
 データ分析室に戻ると、ゆっくりとドアを開ける宏紀がいた。
「宏紀君!」
 呼びかけられた宏紀は勢いよく振り返った。
「あ、沙織ちゃん……おはよう」
「おはよう……未砂が来てないんだけど、何か聞いてる?」
「マジで……何も聞いてないけど……」
 宏紀には何が原因か分かっているけど、口には出さないだろう。
「そうか……入らないの?」
 立ったままの宏紀に突っ込んで沙織がドアを開けた。
「ありがとう……」
「うん……」
 七海の姿が目に入る沙織。当然真也も近くにいる。沙織はさりげなく宏紀の表情を伺う。宏紀の視線は遠くにいて居場所が確認できない。やっぱり、私の推測は正しかったのかもしれないって沙織も思ったかもしれない。
「宏紀君、どこ座る? 席もう結構埋まってきているけど……」
「本当だね……」
 データ分析室は余分なコンピューターは置いていないようで、人数が多い食品栄養学科、全学生が入ると空くスペースがない。
「私の隣に来る? 未砂、来てないみたいだし。未砂なら違う人の隣になってもなんとかなるかもだし……」
「それは未砂に悪いな……」
 私が万が一遅れてきた時に、鉢合わせするのが気まずいんだろう。
「たぶん、来ないと思うよ。連絡、何もなかったから」
 宏紀の腕にポンと軽く触れて沙織の席まで誘導した。
「ありがとう」
 
「今日の講義の内容の概要をまとめて、来週の講義までに提出してください。みなさん復習してくれると思うんです。何て言ったって、誇り高き食品栄養のみなさんですから。でも課題として出します。いつもの特設サイトに提出してください」
 もちろんみんなはやりたくないだろうけど、教授が言っているなら仕方ない。
 沙織は私のために取っておいてくれたプリントをファイルに挟んだ。
「沙織ちゃん、今日、ありがとう」
「いいよ。たまには隣が宏紀君でもいいね。気分転換になった」
「本当? 良かった」
 ファイルをかばんにしまう沙織とは対照的に、パソコンを立ち上げたままの宏紀。
「ランチは行かないの?」
「ああ……僕は、ここでレポート仕上げようかなって」
 目が泳ぐ宏紀を、不自然そうな目で沙織は見ている。
 私と仲が良い沙織だから、沙織にも自分の異変を知られているのかもしれないって、胸中で思っているかもしれない。
「そっか……すごいね、すぐに取り組むなんて」
「いや……すぐ、忘れちゃうから、今やろうって」
 沙織はそれ以上何も言わずに宏紀に対してうんうんと頷いた。前方を見ると真也が七海と荷物をまとめて、宏紀や沙織を待っているんだろう。ぼんやり真也に視線を送っていると、瞬間的に真也と視線が重なる。気まずくて重なった視線を宏紀に向けた。宏紀がレポートにタイトルをつけて作業を開始していた。
 真也が沙織と宏紀のもとへ近づいてきた。沙織はそわそわし始めた。宏紀は真也の姿は目に入っているだろうか。宏紀の集中力はレポート作成一点に注がれている。
「宏紀、お昼行かないの?」
 瞬間的に見た真也の顔はどんなだったか、宏紀の記憶には残っていないだろう。
「……行かない。先に食べてて」
「なんで? みんなでいつも行ってるのに」
 一人はみ出して、輪を崩す。それが真也はどこか不満げだった。
「……」
 ひとつひとつの行動に理由は必要か。そう思っているかもしれない。広がる沈黙は沙織を窮屈にさせる。真也も穏やかでない空気は分かっているだろう。
「宏紀、どうかした?」
 真也がまっすぐに聞いた。あたふたしていた私とは対照的だ。
「……何が?」
「いや、なんか悩んでるみたいだって」
 『悩み』という言葉を耳にした瞬間、宏紀の目の前には七海とグラウンド近くで話した時のことが目に映っているだろう。そこから漏れたに違いない。
「別に……大丈夫」
 あくまでも毅然とした態度だった。いや、ただ冷たくて感じ悪いだけだ。
「本当? 話聞けるけど……」
「いや、大丈夫」
 明らかに宏紀から疎ましく振る舞われて、真也の気分は良くないだろう。触れてほしくない何かに手が伸びてきて宏紀はそれを必死に振り払おうとしているようだ。
「今日は、レポート仕上げるみたいだよ。忘れちゃうんだって。あはは」
 沙織がフォローに入った。二人のやりとりに沙織は冷や冷やしながら聞いていたと思う。
「そうなんだ……それにしても感じ悪いよな」
 真也の目が吊り上がって、声からただならぬ気配を感じ取って七海は真也のそばについた。
「……」
 それでも宏紀は声を口の中に留めている。
「おい、聞いてるのかよ!」
 真也は少しだけ宏紀の肩を突き飛ばした。パソコンへの集中力は一瞬にして分散してファイルに入ったプリントが床に散らばった。
 宏紀は立ち上がって真也を睨みつけた。
「……」
 真也も宏紀を睨み返す。
「何なんだよその態度! こっちは心配して言ってるんだよ!」
 荒げた真也の声はデータ分析室全体に広がった。宏紀たちのほかにも数人学生が残っていたけど、不穏な空気に押し出される形でデータ分析室を後にした。
「うるせぇな! 別にお前に関係ないだろ!」
「何だと!」
 真也が宏紀の胸倉を掴んだ。
「ちょっと二人ともやめてよ! ごめん、私が余計なこと言ったから」
 七海が宏紀と真也の間に切れ目を入れようとするけど、興奮状態の二人の前に入れないでいる。
 沙織は宏紀の腕を掴んで真也から引き離そうとしている。興奮して詰め寄る宏紀の頬のふくらみが今にも爆発しそうで怖くてさっき以上に強く宏紀の腕を握る。
「友達だから何かできることはって考えてたのに何なんだよ!」
「友達……」
 宏紀はその言葉で一瞬勢いを止めた。唇を震わせて言葉を噛み砕いているように見える。
「そうだよ……お前がそう言ってくれたように、俺もそうしようって思ってたのに……」
 その時のこと、宏紀は覚えているだろうか。今は複雑な気持ちに埋没されて記憶から追い出されたのだろう。
「……」
 真也は怒りの中でも宏紀への気持ちがふつふつと浮かんで、宏紀を突き放した。
 七海は二人を遠ざけて、宏紀の肩をポンポンと触れている。七海と目を合わせないでいる宏紀。沙織も念のため宏紀の腕を掴んだままだ。
 再び宏紀は真也を視界に捉える。
「お前に、俺の気持ちは分からない……」
 そう言い残して宏紀はデータ分析室を出て行った。
 真也は目で宏紀を追いかけるけど、身をもって追いかけることはなかった。
「宏紀待ってよ」
 追いかけて来てくれる七海を無視している。宏紀はどんな気持ちなんだろう。
「宏紀!」
 宏紀は立ち止まったけど、後ろを振り返ることはない。
「何?」
「ごめんね……私が変なこと言ったから」
「七海のせいじゃないよ……」
 七海に謝られても、宏紀は虚しくなるだけだろう。
「……宏紀、どうしたの?」
 宏紀は何も言えないだろう。宏紀はいったい何度口を閉ざせば暗闇から抜け出せるんだろうか。誰にも分からない。分からないから辛いんだ。
「何もない……」
 そう言い残して、宏紀は足早に歩いて行った。