真也が緊張を顔に張り付かせて落ち着かない。
 七海のアパートの前で待機しているんだから仕方がない。好きな人の家の前って、私たちにとって特別な場所だろう。
 買いたての食材が入ったスーパーの袋を、真也がぶらさげている。また七海と自炊の話で盛り上がったんだろう、少し大切に食材を見つめている。間違いなく真也の一人暮らしの活力は、七海だ。
「真也君!」
 七海が部屋着のまま出てきた。眼鏡もかけていて目新しい姿だ。真也は七海をスクリーンショットするように目を光らせている。
「眼鏡かけてる姿、初めて見た」
「うん。こんな格好でごめんね」
 七海は少しだけ苦笑しながら言った。少しだけ出ていくだけだから、そのままでいいと思ったんだろう。私も同じことをしたかもしれない。七海はかわいいからこの格好でも問題ない。
「いいよ。その方が楽だから」
「ありがとう。これ、今日言ってたやつね」
 七海は真也にきんちゃく袋に身にまとったタッパを一つ渡した。七海が作りすぎた野菜炒めだった。宏紀も口にしたことのある、私の気持ちを最大限まで落とした野菜炒め。すごく美味しそうだから食べてみたいけど。
「すごく美味しそうだね」
「どうだろうね……真也君の口に合えばいいけど。宏紀はおいしいって言ってたよ」
 宏紀の名前を出されて真也はどんな気持ちだろうか。先越されたなって思っているかもしれない。
「そうなんだ……美味しいに決まってるよ!」
 ネガティブな七海を真也は一蹴した。
「ありがとう! でもそんなに持ち上げておいてあんまりだったら嫌だから期待値は低くしておいて」
「大丈夫! 高いままで! ダメだったら細かく教えてあげるよ!」
 おどけて言う真也に、七海は「えー怖い!」と後退りした。
「そんな辛辣なことは言わないよ!」
「そんなこと言って、手厳しいこと言いそう」
「大丈夫、大丈夫」
 話がひと段落すると、七海は足元を見つめた。
「真也君さ、聞いているか分からないんだけど……」
 おどけていた真也が嘘のように、真面目な顔に変形した。
 七海も話していいのかどうか分からないのか、口を紡いだ。
「どうしたの? 何か言いにくいこと?」
 七海がもったいぶっていると真也も気になるだろう。
「宏紀が、なんか今悩んでいるみたいで」
「マジで?」
「うん……まだ大学も始まったばかりだから、心配で」
 宏紀のことを思う七海がいる。宏紀にも伝えてあげたい。でもそれを知っても、宏紀に返せる言葉はあるんだろうか。
「どうしたのかな……僕も聞いてみるよ」
 七海が求めていた言葉だったようで目を輝かせた。
「うん……女子には言えないことかもしれないし……プライドもあると思うから……真也君の方が話しやすいかなって」
 でも、宏紀が答えてくれるかどうか。誰にも開けられない秘密の箱に挑戦することになる。私が感じる波風は、私の心の中だけでおさめておきたい。
 二人の優しさがにじむ中でも、私は冷静だ。

「どうだった? 何か言ってた?」
 沙織が学食のテーブルに手をついて言った。
「たぶん、私の思った通りだと思う」
 沙織は口を抑えて私の言葉を耳に入れている。
「特に、何かを言っていたわけではないんだけど、間違いないと思う」
「そっか……じゃあ、辛いね。真也君の前でどうしたらいいか分からないよね」
 私は俯いて膝の上に添えている手を見つめる。ハンドクリームを塗ってあげること以外に、この手で何かできることはあるだろうか……何もない。
「もう触れない方がいいのかな……周囲に気付かれ始めているって思ってるだろうし……」
「だね。でもとりあえず、宏紀君の今が分かったのは良かった。何かできること探してみたらいいんじゃない?」
「そうだね……」
 沙織が私から視線を外した。でも私は俯いているから気づかない。テーブルを小刻みに叩いて、沙織は私の視線を持ち上げた。
「あれ、宏紀君じゃない?」
 その言葉にすごい勢いで後ろを振り返った。振り返る速さを測りたくなったぐらい。
 ゆっくりとした足取りで、足跡を確認するように生活環境学部の建物を出ていく宏紀の姿だった。
 スマホで時間を確認するとまだ講義中のはず。宏紀は一人で講義室を出てきたのか。
「宏紀君って、講義あったよね?」
 私のおかげで宏紀の講義スケジュールを把握させられた沙織がそう言った。
「うん」
 立ち上がって宏紀の後を追う私と沙織。夢中で宏紀の足跡をたどる私に対して、沙織は気を遣って尾行する刑事さんのように影に隠れた。
「宏紀!」
 宏紀は聞こえていないのか、そのまま私の呼びかけに動じずに歩いていく。私、大きな声で呼んだつもりだったけど。
「宏紀!」
 宏紀はゆっくりと振り返って私を瞳の中に収める。
 宏紀の表情を見た瞬間、私の顔は強張った。青ざめた、色彩のない顔が宏紀の今を物語っている。
「未砂……」
 小粒のような声だった。聞こえなかったけど、口の微かな動きで宏紀が何を発したか理解した。
「今講義中じゃないの? 大丈夫?」
 講義中に出てきた自分が後ろめたいのか、宏紀は何も言わない。
「何か私にできること……」
 何もないと思う。でも、今の宏紀をただ見ているのは酷だった。
「大丈夫……ちょっと体調が悪いだけ。すぐによくなるから」
 何一つ信じることができない宏紀の言葉たち。全てを振り払って、本音をぶつけてきてほしいけど、できないのが今の宏紀だ。
 そう言い残して宏紀はまた歩き始めた。
 宏紀のあまりにも軟弱で頼りない背中を見つめる。私は居ても立っても居られなくて学食に戻って放置したままになっているリュックサックを取りに戻る。
「沙織、宏紀についてく。心配だから」
「うん」
 事態の深刻さを悟った沙織は私よりも先に私のリュックサックを手にした。
「ありがとう」
「また何かあったら教えて」
「うん」
 リュックサックを背負わずに駆け足で宏紀を追いかける。
 建物を出ても、まだ宏紀が見える場所にいた。どれだけゆっくり歩いているんだろう。距離を置いて宏紀の背中を追いかける。
 誰かの気配を感じたのか、宏紀は再び振り返った。私に呼ばれてもないのに。大きな声よりも人の気配の方が宏紀には効くみたいだ。
 宏紀の顔を直視できなかった。宏紀が一人になりたいのは分かっている。でも、そんなことできない。
「未砂……帰るの?」
 顔を上げて宏紀を見つめて、「……うん。一緒に帰ってもいい?」と頬を上げた。
「……ごめん、今日は一人にしてくれない?」
 そう言って宏紀はまた歩き始めた。
 そこで立ち尽くすことができない私は、距離を保ったまま歩いていく。まるで、おつかいに出かけた子供を心配そうに後ろからついていくお母さんのように。
 バスの中、新浦安駅、東京駅に着いても、私はずっと同じように距離を保った。
 宏紀は少しだけ背後を確認して、私の存在を確認した。再び歩き始めた宏紀だったけど、また振り返って私を見た。
「何?」
「えっ……」
 何もない。ただ宏紀についてきただけだ。
「一人になりたいって言ったでしょ?」
「……」
 宏紀が私に向かって歩いてくる。後退りしながら私自身が小さくなっていくのが分かった。宏紀は何も言わずに私のそばをただの通行人のように通り過ぎて行った。私は振り返って縮こませた体をもとに戻した。
「宏紀……どこ行くの?」
 宏紀は何も答えない。さっきまでの軟弱で頼りない背中にピリピリした空気が漂っている。
「ねぇ宏紀!」
 宏紀は私の問いかけを無視したままだ。今日は私の相手なんてしている暇はないんだろう。
「宏紀」
 背中を追いかけながら問いかける私に反応するようにいきなり宏紀は立ち止まった。私は急ブレーキをかけたけど、間に合わずに宏紀にぶつかってしまった。私の後ろを歩いていた人も険しい表情で舌打ちをして宏紀と私に抗議した。
「あ、ごめん……痛かった?」
 私が宏紀の背中に触れようとした瞬間、宏紀は振り返って私を見た。それはいつになく鋭い目つきだった。あまりの目力に少しだけ距離を置いた。
「……一人になりたいって言ったよね? 日本語通じないの?」
 宏紀の色彩のない表情に鋭い目つき。
 言葉が出ずに私はその場に立ち尽くしたままだ。
「無神経だよ! いやがらせでもしたいわけ?」
「いやがらせ? いやがらせじゃない」
「じゃあ何だよ?」
 私は唇を噛んで言葉が外に出ないように必死で止めている。少しだけ潤んだ目で宏紀を見ると憤慨した宏紀がいる。優しい宏紀には似合わない姿だった。
 伝えたい気持ちはあるけど、今は伝えても意味がないみたいだ。
「私はただ……」
 その先が出てこない。こんなことになったのは誰のせい? 誰のせいでもない。
「ただ何だよ?」
 低い声がほとばしる。そんな怖い声を出さないでほしい。余計に恐怖を感じて声が出せなくなる。でも出せたとしても今の宏紀には伝わらない。
 私は背を向けて宏紀の問いかけに答えることなくゆっくりと歩き出した。別に宏紀の真似をしているわけじゃない。