またオレンジ色の太陽を直視する。
私と新浦安駅まで歩いたときに見た夕焼けとほとんど同じで、あのきれいな情景を思い出して、少しでも宏紀の心の中に居座る煙を消し去ってほしい。
部活動に精を出す子たちを、宏紀は緑色のグランドを囲む観覧席で意味もなく何かを眺めている。ざわついたメインストリート、溢れかえる学生の波に飲まれて帰るのが億劫になったみたいで、知らぬ間にここに行き着いた。
緑を背景に笑い声がこだまする。高校時代に見た景色が宏紀の視界に映る。宏紀は、心の中で力なくつぶやく。あの時と変わっていない……。
何のことかは分からないけど、宏紀にはこの光景は過去の記憶を呼び起こすきっかけになったようだ。
「宏紀」
背後から誰かの声がする。宏紀は反応せずにただグラウンドを見つめたまま。
聞こえていないのか、無視しているのか、私にも分からない。ただ宏紀の視線はブレない。
「宏紀」
二度目の呼びかけにようやく体をひねる。呼びかけてくれたのは七海だった。
「ああ、七海」
ただでさえ身長がある七海がすごく大きく見える。
「何してるの? こんなところで?」
七海は宏紀の真横に座った。七海のアパートの匂いを思い出す。一人暮らしも板についてきたのかと宏紀は想像する。
「いや……別に」
理由を探しても、理由が見つからなくて宏紀はただそう言うしかなかった。
「そうなんだ。後ろ姿、なんか絵になる感じだったよ」
笑って七海はそう言った。写真を撮りたくなるような姿だったみたいだ。
「そう? そんなにいい背中してないよ……これからバイト?」
バイトの制服らしきものが入っている七海のトートバッグを見つめた。
「うん。まだちゃんと仕事覚えてないから、なるべくシフトに入ろうと思って」
「じゃあ、あんまり時間ない感じか……」
寂しそうに宏紀の視線が落ちる。あの落ち着いた雰囲気に寂しさが加わると、なんだかすごく心配になる。
「そんなことないよ。私も講義が終わった後は、少し休みたいから大丈夫だよ」
七海の笑顔に触れる宏紀。宏紀の気持ちは何もしなくても楽になっていくのが分かる。何か重いものが取り払われて、体が風船のように浮いた気がする。
「今日はどのくらい働くの?」
「今日はね、六時からラストまで」
「そっか。頑張ってるね」
優しく頬を緩ませて宏紀は言った。
「宏紀たちがいるからだよ。大学でうまくやっていけるか不安だったけど、宏紀がいたのは大きかった。一人でも知っている子がいるって、こんなに楽なんだね」
もし私が推測する状況下であれば、宏紀はどう受け止めるのか。すごく嬉しい言葉でも、宏紀の捉え方は分からない。七海への強くなるばかりか。それを振り払うのか。
「僕も同じだよ。七海が一緒で良かった」
「今度さ、バイト先も来てよ。ごちそうはできないけど、来てくれたら嬉しい」
少しだけ宏紀に触れて七海は言った。宏紀の心を癒せるのは七海しかいない。
「うん。行きたい。コーヒー……飲めるようになったから……」
「そうだったね! どうしてまた?」
「なんか……飲んでみようって……今より、大人になりたかったのかな……」
理由がうまく定まらないけど、七海はそこまで気にしていないだろう。私はその言葉の裏の意味を取ってしまう。
「なにそれ? コーヒーで大人になれるの? 私はもっと頑張らないと!」
「無理しないでよ……」
「うん、ありがとう。じゃあ、そろそろ行くね」
七海は立ち上がって夕焼けと緑色のグラウンドを後にしようとする。
「うん……七海」
「ん?」
呼び止められて七海は振り返った。
「もう……やめたい」
「なんて?」
聞こえるはずもない。ひどく力のない声だった。この言葉にすべてが詰まっているようだった。宏紀の迷いも何もかも。
「もうやめたい……」
繰り返し言うことで宏紀の声が乗った。
「大学を?」
宏紀は黙ったまま何も言わない。呼び止めておいて何も言わない。七海もどうしたらいいか分からないだろう。
再び七海は宏紀のそばにつく。肩に下げていたバイトの制服が入ったトートバッグを外して宏紀の今に耳を傾けた。
「何かあったの? なんかよく見ると顔色も良くない感じだよね?」
宏紀の顔を覗き込む七海。子供を優しく看る看護師のようだった。
宏紀の心中でうごめくものを吐露したけど、この先のことは、七海にぬけぬけと話せるわけもない。口が裂けたとして絶対に伝えることは無理だろう。
「ごめん、変なこと言って。もう大丈夫」
「本当? 絶対やめないでよ。まだ入ったばっかりじゃん」
そう、まだ入学したばかりなんだ、私たちは。
こんな近くに、こんな闇が待ち構えていたなんて、宏紀は考えてもみなかっただろう。
もちろん、私の推測が正しければの話だ。
「そう……だね」
「でも、何かあったら教えて。話聞けるから」
再び七海は立ち上がって宏紀の肩をかすめるように触れた。
「ありがとう……バイト頑張って」
「うん」
七海は手を振って宏紀から離れていく。まともに七海と会話ができること。久しぶりに噛みしめているに違いない。でもそれは、今はどこか恐怖なのかもしれない。
すべては私の推測が正しければの話だ。
日曜日の横浜駅の改札前でスマホを片手に私は行き交う人々の群れから宏紀の姿を探し出す。無料通信アプリを介してメッセージを送ると、「もうすぐ着きます!」と宏紀から連絡があった。お手洗いで今の自分を確認しようと思ったけど、ここに佇む。
すぐそばにあるガラス張りのパン屋さんを見つめて、反射して映る私を見つめる。いつもより化粧を入念にしてきた。宏紀の反応が若干怖いけど、気にせず宏紀と向き合うつもりだ。『助ける』ってスタンスだけど、今日は大きな仕事を背負っているような感じだった。
今日は以前に話していた映画を観に行く予定。その前にランチに行く。
観たい映画はピックアップしてきたけど、別にこだわりはないから宏紀と相談して決めればいい。宏紀の気分で変えてもいいし、上映スケジュールの関係もあるから。
私の体がピクリと反応する。宏紀が私の姿に気が付いて、少しだけ手を振って私に近づいてきた。
「ごめん。少し遅れちゃった」
大学で会う宏紀とほとんど変わらない。
「いいよ。私もさっき来たばかりだから」
宏紀に顔を見つめられる。化粧が若干濃い目の私を物珍しい感じで見ているんだろう。
最初は恥ずかしくて目を逸らしたけど、宏紀に見つめられるなら見返さないと思って宏紀を直視する。宏紀とお出かけに大きな仕事を背負っていても、自分らしさは失いたくない。
「ランチなんだけど、カフェレストランとか、モールの中にあるすごくヘルシーなお店があるんだけど、どっちがいい?」
私はスマホに呼び出したレストランを宏紀に見せた。
「ああ……どっちもよさそうだね。未砂はどっちがいいの?」
「私は……モールのところがいいな」
映画館もモールの中にあるから効率がいい。
「じゃあ、そこにしよう」
私たちは歩いて五分ほどのモールに向かって歩き始めた。私がヒールを履いてるから最初は歩く速さがうまく合わなくて気になったけど、時計の時間を合わせるように宏紀が合わせて歩いてくれたからモールに着くころには普通になった。履きなれた靴のが良かったかなって思ったけど、合わせてくれた宏紀に感謝した。
「七海とかは誘わなかったの?」
「うん……」
ぎこちなさを消し去るように私は少しだけ威勢よく言った。
沙織は「私はお邪魔だからいいよ」って言っていた。「約束が違う!」と沙織に抗議したら、「二人の邪魔はできないでしょ? 私が浮いちゃうよ! 大丈夫! ちゃんとどこかから見守ってるから」と言っていた。二人で行きたいのは事実だから、「まぁ、いいか」って思った。
七海や真也は誘っていない。七海を誘ったら自動的に真也もっていうことになるだろう。今の宏紀にこの組み合わせは合わない。私にとってもその方がありがたい。
「そっか……楽しみだね!」
声は小さめだったけど、宏紀がそう言ってくれて安心した。
「うん。映画なんだけど、この映画が観たいな」
スマホの画面を見せて、宏紀に見せた。
「これか。すごく人気のやつだよね? いいよ、これで。映画館に行くのは久しぶりだ」
「そうなの? いつも家で観るタイプ?」
「いや……そうでもないんだけど、行く機会がなかったっていうか……」
「そうなんだ。二ヵ月に一回行ってた、私」
「観たい映画がたくさんあるんだね、未砂は。たくさん友達もいるしね」
納得感に包まれたように息を吹いて、宏紀は私を見た。
「私が、『行こう』って強引に連れてっているだけだよ」
過去の行動を思い返して少し苦笑してしまう私。宏紀を無理に歩かせて新浦安駅に行ったのもかなり強引だった。
「それでも付き合ってくれる人がいるんだからいいじゃん。相手は嬉しいと思うよ」
「そうだといいな」
嬉しさを十二分に噛みしめる。宏紀の言葉には魔法に似た不思議な力がある。どんどん浮ついていく私をコントロールしながら、モールの中にあるレストランに着いた。
日曜日だからかなりの行列だったけど、宏紀と暇つぶしするなら時間はいくらあってもいい。それに今日は大仕事が待っている。
今の宏紀を知りたい。
でもこうやって宏紀と話していると、そんな話には蓋をして永遠に出てこられないようにしたい。宏紀もわざわざその話題を出されて、心をかき乱されたくないだろう。
沙織との会話からふと小さな勇気をもらった。その勇気を無駄にしたくないけど、笑顔のままの宏紀を残しておきたいのもある。
「どうしたの? 未砂?」
「えっ?」
私の目が遠くに行ったままだった。それを宏紀が取り戻してくれた。
「大丈夫?」
「大丈夫、大丈夫」
今は考えない方がいいかもしれない。このいい雰囲気に冷たい風を迎え入れなくてもいい。
「未砂、どれにするの?」
行列の一部になっている間に、店員さんから渡された簡易メニューを私の目の前に持ってきた。
宏紀が簡易メニューを渡されたことに気付かなかったから、私の目はどこに遊びに行っていたのか。自分で自分に相当なプレッシャーをかけているみたいだ。
私は特に考えずにすぐ目に入った牛肉とズッキーニのトマト煮込みを選んだ。
「おいしそうだね。僕もそれにしようかな」
「うん」
私は脳裏で飛び交っている思考を隠すように笑う。そして前をしっかり見据えて冷静さを取り戻す。
宏紀の今を知りたい。
助けてあげたい。私がそばにいる。それをしてどうなるか分からない。このまま手探りで宏紀と向き合うのも気が進まない。それに私の勘違いってこともある。それならすべての邪念を振り払って、また自然な笑顔で宏紀を迎えられる。
でも複雑なんだ。
宏紀と真也の間で何もないなら、宏紀はただ七海に向かってひた走るだろう。中学時代の思い出を駆け抜けるように。爽快感が体中から溢れるように駆け抜けるんだ。
それなら私に勝ち目なんてない。七海に勝てるわけがない。もちろん、宏紀に七海への気持ちを叶えほしい気持ちもある。でも、それを私がただ眺めるだけの覚悟は据え置いてない。宏紀ももしかしたら、同じ気持ちだったかもしれない。それでも突然に真也の気持ちを受け取った……宏紀はきっと、何の前触れもなく受け取ったんだ。
もしも私の推測が正しいなら、あぶりだされるように私の勝機は顔を出す。
宏紀は足元に釘を打たれて動けないはず。その中で苦しんでいるはず。
目の前にいる宏紀を、私のことを肯定してくれる宏紀を、苦しめてまで私は宏紀を手の中に収めたいのか。
私の宏紀への気持ちは嘘じゃない。宏紀が大好きだ。
でもその気持ちとは裏腹に、真也の気持ちを受け取って、身動きが取れなくなった宏紀で片づけたい気持ちが勝っている。そうなら、息を飲みながらも、顔を出して私に挨拶をしてくる勝機に手を伸ばすんだろう。
メニューを眺める宏紀の表情を伺う。
『助けたい』と銘打った私の正当化は宏紀の視界にはどう映るんだろう。
「宏紀……」
「何?」
きょとんした宏紀の顔。
私が神妙な顔をしているからだろう。私の真面目な顔は怖いらしい。
「最近、気になることが……あるんだけど……」
宏紀は少し後退りをしたような気がした。このひしめき合うような行列の後方に十分なスペースなんてないはずだ。それでも後退した。
「……なに?」
後ろに一歩下がっても、私が距離を詰めることで相殺する。
目を逸らして私は宏紀の胸板の辺りを見つめた。
「最近、なんか……元気、なくな……い?」
ためを作ったり作らなかったり、意味がよく分からないかもしれない。
少しだけ硬直する宏紀の体。少しだけ触れて硬さを取り除きたくなった。顔は見られない。怖くて見られない。ただ音や私たちを包む雰囲気で判断することになる。
「真也……君と何か……」
私の推測が正しければ『真也』という名前はダメ押しになるだろう。
「……」
口を紡ぐってことは、私の推測は間違いないのかもしれない。宏紀は何も言わずにただそこにいるだけだ。私に何事もないことを強調しようと、言葉を選んでいるのか。
こうしていると、宏紀を責めているみたいだった。宏紀は何も悪いことはしてないはず。だんだんこの沈黙が苦しくなってくる。今日は日曜日。私たちの前後にはカップルや女友達でご飯に来ている。店内を見てみても活気があふれている。嫌な雰囲気が漂っていること、周囲にも伝わっているかもしれない。聞かなければよかった。わざわざ宏紀の根幹に触れなくてもよかった。
自己嫌悪になった。私は最低だ。
「未砂」
宏紀の声で頭を秒速で上げた。
「……」
「特にないよ。最近、疲れてるのかな。ほら、大学まだまだ慣れてないし」
無理に頬を上げる宏紀がいた。でもそれが私は痛くて目をどこかに投げたくなった。投げたくなったって、傷口をえぐったのはここにいる私だ。
「そっか……ごめん、変なこと聞いて」
宏紀はただ頷いて私の言葉を飲み込んだ。
今の反応でなんとなく答えは見つかった。宏紀は私が思い描いた妄想に、すっぽりとはまっている。そこから私が宏紀を助け出す。
「宏紀、私これも食べたい!」
私が指をさしたのは食後のデザートだった。落ち込んだ雰囲気は持ち前の明るさでなんとかしようと、私は自分で背中を押した。これで私が自ら取り込んだ嫌な空気を取り払ってくれたら嬉しい。
「うん」
宏紀は小さく笑った。
一度落とした気持ちをすぐに持ち直すのがどれだけ大変か私は知っている。宏紀は無理に笑ってくれているんだ。申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
その後、宏紀は何事もなかったかのように話してくれた。宏紀も周囲に少なからず自分の異変を感じ取られているって思っているのかもしれない。
宏紀の前でこんなに無理に笑おうとするのは違和感があるけど、今日は仕方ない。
食事を済ませると、私たちは映画館のある階へ移動した。最初は緊張感のある病院を舞台にした映画を観ようと思ったけど、どうしよう。今の私たちをいい雰囲気にしてくれる映画って、何だろう。
私と新浦安駅まで歩いたときに見た夕焼けとほとんど同じで、あのきれいな情景を思い出して、少しでも宏紀の心の中に居座る煙を消し去ってほしい。
部活動に精を出す子たちを、宏紀は緑色のグランドを囲む観覧席で意味もなく何かを眺めている。ざわついたメインストリート、溢れかえる学生の波に飲まれて帰るのが億劫になったみたいで、知らぬ間にここに行き着いた。
緑を背景に笑い声がこだまする。高校時代に見た景色が宏紀の視界に映る。宏紀は、心の中で力なくつぶやく。あの時と変わっていない……。
何のことかは分からないけど、宏紀にはこの光景は過去の記憶を呼び起こすきっかけになったようだ。
「宏紀」
背後から誰かの声がする。宏紀は反応せずにただグラウンドを見つめたまま。
聞こえていないのか、無視しているのか、私にも分からない。ただ宏紀の視線はブレない。
「宏紀」
二度目の呼びかけにようやく体をひねる。呼びかけてくれたのは七海だった。
「ああ、七海」
ただでさえ身長がある七海がすごく大きく見える。
「何してるの? こんなところで?」
七海は宏紀の真横に座った。七海のアパートの匂いを思い出す。一人暮らしも板についてきたのかと宏紀は想像する。
「いや……別に」
理由を探しても、理由が見つからなくて宏紀はただそう言うしかなかった。
「そうなんだ。後ろ姿、なんか絵になる感じだったよ」
笑って七海はそう言った。写真を撮りたくなるような姿だったみたいだ。
「そう? そんなにいい背中してないよ……これからバイト?」
バイトの制服らしきものが入っている七海のトートバッグを見つめた。
「うん。まだちゃんと仕事覚えてないから、なるべくシフトに入ろうと思って」
「じゃあ、あんまり時間ない感じか……」
寂しそうに宏紀の視線が落ちる。あの落ち着いた雰囲気に寂しさが加わると、なんだかすごく心配になる。
「そんなことないよ。私も講義が終わった後は、少し休みたいから大丈夫だよ」
七海の笑顔に触れる宏紀。宏紀の気持ちは何もしなくても楽になっていくのが分かる。何か重いものが取り払われて、体が風船のように浮いた気がする。
「今日はどのくらい働くの?」
「今日はね、六時からラストまで」
「そっか。頑張ってるね」
優しく頬を緩ませて宏紀は言った。
「宏紀たちがいるからだよ。大学でうまくやっていけるか不安だったけど、宏紀がいたのは大きかった。一人でも知っている子がいるって、こんなに楽なんだね」
もし私が推測する状況下であれば、宏紀はどう受け止めるのか。すごく嬉しい言葉でも、宏紀の捉え方は分からない。七海への強くなるばかりか。それを振り払うのか。
「僕も同じだよ。七海が一緒で良かった」
「今度さ、バイト先も来てよ。ごちそうはできないけど、来てくれたら嬉しい」
少しだけ宏紀に触れて七海は言った。宏紀の心を癒せるのは七海しかいない。
「うん。行きたい。コーヒー……飲めるようになったから……」
「そうだったね! どうしてまた?」
「なんか……飲んでみようって……今より、大人になりたかったのかな……」
理由がうまく定まらないけど、七海はそこまで気にしていないだろう。私はその言葉の裏の意味を取ってしまう。
「なにそれ? コーヒーで大人になれるの? 私はもっと頑張らないと!」
「無理しないでよ……」
「うん、ありがとう。じゃあ、そろそろ行くね」
七海は立ち上がって夕焼けと緑色のグラウンドを後にしようとする。
「うん……七海」
「ん?」
呼び止められて七海は振り返った。
「もう……やめたい」
「なんて?」
聞こえるはずもない。ひどく力のない声だった。この言葉にすべてが詰まっているようだった。宏紀の迷いも何もかも。
「もうやめたい……」
繰り返し言うことで宏紀の声が乗った。
「大学を?」
宏紀は黙ったまま何も言わない。呼び止めておいて何も言わない。七海もどうしたらいいか分からないだろう。
再び七海は宏紀のそばにつく。肩に下げていたバイトの制服が入ったトートバッグを外して宏紀の今に耳を傾けた。
「何かあったの? なんかよく見ると顔色も良くない感じだよね?」
宏紀の顔を覗き込む七海。子供を優しく看る看護師のようだった。
宏紀の心中でうごめくものを吐露したけど、この先のことは、七海にぬけぬけと話せるわけもない。口が裂けたとして絶対に伝えることは無理だろう。
「ごめん、変なこと言って。もう大丈夫」
「本当? 絶対やめないでよ。まだ入ったばっかりじゃん」
そう、まだ入学したばかりなんだ、私たちは。
こんな近くに、こんな闇が待ち構えていたなんて、宏紀は考えてもみなかっただろう。
もちろん、私の推測が正しければの話だ。
「そう……だね」
「でも、何かあったら教えて。話聞けるから」
再び七海は立ち上がって宏紀の肩をかすめるように触れた。
「ありがとう……バイト頑張って」
「うん」
七海は手を振って宏紀から離れていく。まともに七海と会話ができること。久しぶりに噛みしめているに違いない。でもそれは、今はどこか恐怖なのかもしれない。
すべては私の推測が正しければの話だ。
日曜日の横浜駅の改札前でスマホを片手に私は行き交う人々の群れから宏紀の姿を探し出す。無料通信アプリを介してメッセージを送ると、「もうすぐ着きます!」と宏紀から連絡があった。お手洗いで今の自分を確認しようと思ったけど、ここに佇む。
すぐそばにあるガラス張りのパン屋さんを見つめて、反射して映る私を見つめる。いつもより化粧を入念にしてきた。宏紀の反応が若干怖いけど、気にせず宏紀と向き合うつもりだ。『助ける』ってスタンスだけど、今日は大きな仕事を背負っているような感じだった。
今日は以前に話していた映画を観に行く予定。その前にランチに行く。
観たい映画はピックアップしてきたけど、別にこだわりはないから宏紀と相談して決めればいい。宏紀の気分で変えてもいいし、上映スケジュールの関係もあるから。
私の体がピクリと反応する。宏紀が私の姿に気が付いて、少しだけ手を振って私に近づいてきた。
「ごめん。少し遅れちゃった」
大学で会う宏紀とほとんど変わらない。
「いいよ。私もさっき来たばかりだから」
宏紀に顔を見つめられる。化粧が若干濃い目の私を物珍しい感じで見ているんだろう。
最初は恥ずかしくて目を逸らしたけど、宏紀に見つめられるなら見返さないと思って宏紀を直視する。宏紀とお出かけに大きな仕事を背負っていても、自分らしさは失いたくない。
「ランチなんだけど、カフェレストランとか、モールの中にあるすごくヘルシーなお店があるんだけど、どっちがいい?」
私はスマホに呼び出したレストランを宏紀に見せた。
「ああ……どっちもよさそうだね。未砂はどっちがいいの?」
「私は……モールのところがいいな」
映画館もモールの中にあるから効率がいい。
「じゃあ、そこにしよう」
私たちは歩いて五分ほどのモールに向かって歩き始めた。私がヒールを履いてるから最初は歩く速さがうまく合わなくて気になったけど、時計の時間を合わせるように宏紀が合わせて歩いてくれたからモールに着くころには普通になった。履きなれた靴のが良かったかなって思ったけど、合わせてくれた宏紀に感謝した。
「七海とかは誘わなかったの?」
「うん……」
ぎこちなさを消し去るように私は少しだけ威勢よく言った。
沙織は「私はお邪魔だからいいよ」って言っていた。「約束が違う!」と沙織に抗議したら、「二人の邪魔はできないでしょ? 私が浮いちゃうよ! 大丈夫! ちゃんとどこかから見守ってるから」と言っていた。二人で行きたいのは事実だから、「まぁ、いいか」って思った。
七海や真也は誘っていない。七海を誘ったら自動的に真也もっていうことになるだろう。今の宏紀にこの組み合わせは合わない。私にとってもその方がありがたい。
「そっか……楽しみだね!」
声は小さめだったけど、宏紀がそう言ってくれて安心した。
「うん。映画なんだけど、この映画が観たいな」
スマホの画面を見せて、宏紀に見せた。
「これか。すごく人気のやつだよね? いいよ、これで。映画館に行くのは久しぶりだ」
「そうなの? いつも家で観るタイプ?」
「いや……そうでもないんだけど、行く機会がなかったっていうか……」
「そうなんだ。二ヵ月に一回行ってた、私」
「観たい映画がたくさんあるんだね、未砂は。たくさん友達もいるしね」
納得感に包まれたように息を吹いて、宏紀は私を見た。
「私が、『行こう』って強引に連れてっているだけだよ」
過去の行動を思い返して少し苦笑してしまう私。宏紀を無理に歩かせて新浦安駅に行ったのもかなり強引だった。
「それでも付き合ってくれる人がいるんだからいいじゃん。相手は嬉しいと思うよ」
「そうだといいな」
嬉しさを十二分に噛みしめる。宏紀の言葉には魔法に似た不思議な力がある。どんどん浮ついていく私をコントロールしながら、モールの中にあるレストランに着いた。
日曜日だからかなりの行列だったけど、宏紀と暇つぶしするなら時間はいくらあってもいい。それに今日は大仕事が待っている。
今の宏紀を知りたい。
でもこうやって宏紀と話していると、そんな話には蓋をして永遠に出てこられないようにしたい。宏紀もわざわざその話題を出されて、心をかき乱されたくないだろう。
沙織との会話からふと小さな勇気をもらった。その勇気を無駄にしたくないけど、笑顔のままの宏紀を残しておきたいのもある。
「どうしたの? 未砂?」
「えっ?」
私の目が遠くに行ったままだった。それを宏紀が取り戻してくれた。
「大丈夫?」
「大丈夫、大丈夫」
今は考えない方がいいかもしれない。このいい雰囲気に冷たい風を迎え入れなくてもいい。
「未砂、どれにするの?」
行列の一部になっている間に、店員さんから渡された簡易メニューを私の目の前に持ってきた。
宏紀が簡易メニューを渡されたことに気付かなかったから、私の目はどこに遊びに行っていたのか。自分で自分に相当なプレッシャーをかけているみたいだ。
私は特に考えずにすぐ目に入った牛肉とズッキーニのトマト煮込みを選んだ。
「おいしそうだね。僕もそれにしようかな」
「うん」
私は脳裏で飛び交っている思考を隠すように笑う。そして前をしっかり見据えて冷静さを取り戻す。
宏紀の今を知りたい。
助けてあげたい。私がそばにいる。それをしてどうなるか分からない。このまま手探りで宏紀と向き合うのも気が進まない。それに私の勘違いってこともある。それならすべての邪念を振り払って、また自然な笑顔で宏紀を迎えられる。
でも複雑なんだ。
宏紀と真也の間で何もないなら、宏紀はただ七海に向かってひた走るだろう。中学時代の思い出を駆け抜けるように。爽快感が体中から溢れるように駆け抜けるんだ。
それなら私に勝ち目なんてない。七海に勝てるわけがない。もちろん、宏紀に七海への気持ちを叶えほしい気持ちもある。でも、それを私がただ眺めるだけの覚悟は据え置いてない。宏紀ももしかしたら、同じ気持ちだったかもしれない。それでも突然に真也の気持ちを受け取った……宏紀はきっと、何の前触れもなく受け取ったんだ。
もしも私の推測が正しいなら、あぶりだされるように私の勝機は顔を出す。
宏紀は足元に釘を打たれて動けないはず。その中で苦しんでいるはず。
目の前にいる宏紀を、私のことを肯定してくれる宏紀を、苦しめてまで私は宏紀を手の中に収めたいのか。
私の宏紀への気持ちは嘘じゃない。宏紀が大好きだ。
でもその気持ちとは裏腹に、真也の気持ちを受け取って、身動きが取れなくなった宏紀で片づけたい気持ちが勝っている。そうなら、息を飲みながらも、顔を出して私に挨拶をしてくる勝機に手を伸ばすんだろう。
メニューを眺める宏紀の表情を伺う。
『助けたい』と銘打った私の正当化は宏紀の視界にはどう映るんだろう。
「宏紀……」
「何?」
きょとんした宏紀の顔。
私が神妙な顔をしているからだろう。私の真面目な顔は怖いらしい。
「最近、気になることが……あるんだけど……」
宏紀は少し後退りをしたような気がした。このひしめき合うような行列の後方に十分なスペースなんてないはずだ。それでも後退した。
「……なに?」
後ろに一歩下がっても、私が距離を詰めることで相殺する。
目を逸らして私は宏紀の胸板の辺りを見つめた。
「最近、なんか……元気、なくな……い?」
ためを作ったり作らなかったり、意味がよく分からないかもしれない。
少しだけ硬直する宏紀の体。少しだけ触れて硬さを取り除きたくなった。顔は見られない。怖くて見られない。ただ音や私たちを包む雰囲気で判断することになる。
「真也……君と何か……」
私の推測が正しければ『真也』という名前はダメ押しになるだろう。
「……」
口を紡ぐってことは、私の推測は間違いないのかもしれない。宏紀は何も言わずにただそこにいるだけだ。私に何事もないことを強調しようと、言葉を選んでいるのか。
こうしていると、宏紀を責めているみたいだった。宏紀は何も悪いことはしてないはず。だんだんこの沈黙が苦しくなってくる。今日は日曜日。私たちの前後にはカップルや女友達でご飯に来ている。店内を見てみても活気があふれている。嫌な雰囲気が漂っていること、周囲にも伝わっているかもしれない。聞かなければよかった。わざわざ宏紀の根幹に触れなくてもよかった。
自己嫌悪になった。私は最低だ。
「未砂」
宏紀の声で頭を秒速で上げた。
「……」
「特にないよ。最近、疲れてるのかな。ほら、大学まだまだ慣れてないし」
無理に頬を上げる宏紀がいた。でもそれが私は痛くて目をどこかに投げたくなった。投げたくなったって、傷口をえぐったのはここにいる私だ。
「そっか……ごめん、変なこと聞いて」
宏紀はただ頷いて私の言葉を飲み込んだ。
今の反応でなんとなく答えは見つかった。宏紀は私が思い描いた妄想に、すっぽりとはまっている。そこから私が宏紀を助け出す。
「宏紀、私これも食べたい!」
私が指をさしたのは食後のデザートだった。落ち込んだ雰囲気は持ち前の明るさでなんとかしようと、私は自分で背中を押した。これで私が自ら取り込んだ嫌な空気を取り払ってくれたら嬉しい。
「うん」
宏紀は小さく笑った。
一度落とした気持ちをすぐに持ち直すのがどれだけ大変か私は知っている。宏紀は無理に笑ってくれているんだ。申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
その後、宏紀は何事もなかったかのように話してくれた。宏紀も周囲に少なからず自分の異変を感じ取られているって思っているのかもしれない。
宏紀の前でこんなに無理に笑おうとするのは違和感があるけど、今日は仕方ない。
食事を済ませると、私たちは映画館のある階へ移動した。最初は緊張感のある病院を舞台にした映画を観ようと思ったけど、どうしよう。今の私たちをいい雰囲気にしてくれる映画って、何だろう。