「新人戦のことがあって以来、直ぐに一から卒業しようと思った。ずっと近くで、同じ競技者として一を見てきたからこそ、真剣に取り組まない奴をライバルとして認めたくなかった」
 橘は立ち上がると、一歩前に足を踏み出した。
「でも、卒業できなかった。簡単にライバルを変えられなかった。俺の中で一は偉大だったんだ。弓道の神様みたいな存在だった」
「神様って。大袈裟だよ」
「大袈裟じゃない。俺にとってはそうなんだ。だからこそ、一には弓道を諦めてほしくなかったんだ。俺にとって、弓道を続けようと思ったきっかけは一だったんだから」
 橘は左手に弓を持ったまま、右手で左肘の近くまで弦を引っ張り、弾く。
「弓返り、角見(つのみ)の練習。これだって一に教わった。弓道の基礎を教えてくれたのも一だ。そんな大切な存在を記憶から消すことは、俺にはできなかった。もし消してしまったら、俺の弓道を否定することになるって気づいたから」
 橘の訴えは真剣だった。その真剣さに僕の心は少しずつ動かされているのか、心臓の鼓動が徐々に早くなっているのがわかった。
「だから一は、ずっと俺の憧れだ」
 橘の言葉に目頭が熱くなった。
 僕も同じ思いを抱いたことがあった。弓道を始めたきっかけ。それは人によって違うと思う。だけど少なくとも僕と橘は同じみたいだ。憧れる人がいたからこそ、弓道を始めることができた。そのきっかけとなる人を、僕だって失いたくない。
「今日の試合、お互い最高の試合にしよう。そして、関東大会でまた戦おうぜ」
「……うん。僕達は負けない」
「それはこっちのセリフだ」
 橘は持っていた弓を再度右手で支えると、左手を差し出してきた。僕はそれを力強く握って応える。橘も笑みを見せ、強く握り返してくれた。