僕が弓道を続ける理由

 年末最後の道場での練習に、大前は遅れてきた。今まで遅れてきたことがなかったからかもしれない。僕は大前のことが気になって仕方がなかった。
通常練習が終わり、自主練習へと入る。そのタイミングで僕は大前に声をかけた。
「遅刻って珍しいね」
 僕の問いかけに、大前は渋面をつくった。聞かれたくないことだったのかもしれない。
「今日は……寝坊しただけです」
「そっか。大前さん、しっかりしてると思ってたから、寝坊って予想できなかった。変な心配しちゃったよ」
「心配ですか?」
大前は小首を傾げる。
「うん。早気に嫌気がさして、弓道やりたくなくなったのかなって」
 言い終えた瞬間、失敗したと思った。大前に言っていいことではなかった。やりたくなくなったのは自分であって大前ではない。僕は大前から視線を逸らした。
 しばらく沈黙が続いた後、大前がゆっくりと口を開いた。
「先輩。ちょっと、散歩しませんか?」
 笑顔を向けてくる大前の勢いに乗せられ、僕はこくりと頷いた。
 流石に袴姿だと寒かったので、上に羽織るものを着て大前の後についていく。大前も羽織るものにマフラーと、防寒対策を施していた。
 大前に連れられてやってきたのは、校舎の屋上だった。屋上の鍵は壊れており、誰でも侵入できる状態。当時と何一つ変っていなかったことに、自然と僕は嬉しさを覚えた。
「懐かしいな」
「ここ、私のお気に入りの場所なんです」
「僕もそうだった」
「本当ですか?」
「うん。一人になりたいときに、よく来てたんだ」
 屋上に足を踏み入れると突き当りに設えてあるベンチに腰を掛けた。
 この場所も変わっていない。時折吹く穏やかな風が、とても心地よかったのを覚えている。大前は大きく手を広げて伸びた。白い息を吐きながら、気持ちよさそうな表情を晒している。
「先輩は、どうして弓道を始めたんですか?」
 唐突な質問に少し躊躇する。それでも、真剣な表情を晒す大前を見たら、何故だか話そうと思えた。
「僕の四つ上の先輩に、弓道がすごく上手い人がいたんだ。その人に弓道の楽しさを教わって、弓道をやろうと思ったんだ」
「その人ってどんな人ですか?」
「一言で言ったら、弓道の天才だよ。優しいし、格好いいし。全ての面で非の打ちどころのない人だった。皆中は当たり前で、外したところを僕は見たことがないんだ」
「それは……すごいです」
 大前は目を輝かせながら話を聞いてくれている。翔兄ちゃんのすごさは、誰の目から見てもわかるからすごい。憧れない人はいないと思う。
「でも、先輩もすごいじゃないですか。中学の全国大会で二連覇なんて」
「僕は……たいしたことないよ」
 すごいのは昔の僕であって今の僕ではない。
 しばらく沈黙が続いた。当時と変わらない風が心地よい。気持ちが楽になっていく気がする。ふと空を見上げると、雲一つない青空が広がっていた。そんな空気の澄んだ冬の空に、通る声が響き渡った。
「実は今日、寝坊したって言うのは嘘なんです」
 笑顔で嘘だと告げてきた大前に、僕は驚きを隠せなかった。そんな僕の反応を見て、大前は微笑んだ。
「今日はその、お姉ちゃんの命日で。お墓参りに行ってました」
「……なんか、ごめん……」
 大前の口から紡がれた言葉に、僕は苦し紛れの回答しかできなかった。
「大丈夫ですよ。もう二年前のことなので」
 しっかりとした口調で語る大前は、決して落ち込んだりする素振りも見せずに笑顔を晒している。
「私、弓道を始めたきっかけがお姉ちゃんなんです。お姉ちゃんから弓道の楽しさを教わりました。最初は全く面白くなかったんですけどね」
 正座なんて足が痺れるだけじゃないですかと言うと、弓道で嫌なことをいくつか挙げた。そのどれもが、僕も共感できることだった。
「お姉ちゃんは絶対に私の為になると言って、形の指導しかしてくれなくて。ずっと弓を握ることを許してくれなかったんです。それなのにお姉ちゃんは、的に向かって練習してたんですよ」
 ひどいですよねと大前が言ってくる。僕は大前の気持ちが理解できたので首を縦に振った。
 僕も翔兄ちゃんに教わった時に全く同じ扱いを受けた。ひたすら射法八節に習って形の反復練習を行ったり、翔兄ちゃんの射を見たりした。正直、これのどこに楽しさなんてあるのだろうかと最初は何度も思った。
「今はお姉ちゃんから教わったことの大切さに気付けたんでよかったですけど。できれば、お姉ちゃんと一緒に立に入りたかったですね」
 辛いことなのにもかかわらず、常に笑顔で話してくれる大前に、僕はただ圧倒された。
 僕よりも何倍もしっかりしている。目の前の女の子に僕は頭が上がらない。
「私とお姉ちゃんを唯一繋いでいるのが弓道なんです。私の弓道は、お姉ちゃんの射形そのものなんです。だから私は、お姉ちゃんがどれだけすごかったかを弓道を通して証明したいんです」
 言葉に詰まった大前はマフラーに顔をうずめる。咳払いをして、満面の笑みで僕に答えた。
「だから私は、早気なんかに負けるつもりはこれっぽっちもないんです」
「大前さん……」
「先輩も一緒に克服しましょうよ。何度も挑み続けましょうよ。先輩に弓道を教えてくれた人も、絶対にそう思っていると思いますよ」
 大前と出会って、まだ一ヶ月だけど練習パートナーとして常に一緒にいた。本来は僕が大前にかけるべき言葉を逆に言われている。自分が本当に情けない。
「先輩?」
 大前の顔を見ることができず、僕は俯いたままでいた。
 大切なお姉さんを失くしたにも関わらず、大前は必死に思いを繋げるために努力している。それに比べて僕は怯えてばかりで、ようやく踏み出した一歩ですら大前に比べると、とてつもなくちっぽけだ。小さくてか細さしか感じない。
「なんか情けないな。本当に」
 ようやく出てきた言葉も、自分を否定する言葉だった。それでも、今までとは違う感じが僕にはあった。
 顔を上げ、大前に視線を向ける。大前は黙ったまま、僕のことを見続けていてくれた。
「これから、もっと指導厳しくなってもいいかな?」
 大前の早気を治してあげたい。大前の力になりたい。最初は弓道部の練習場所を確保するたに、仕方なく大前の指導を引き受けた。だけど、目の前でこんなに真剣に取り組もうと努力している人間がいる。今は力になれることを精一杯してあげたいと、心の底から思えた。
「お願いします。先輩! 一緒に頑張りましょう」
 大前は頭を下げると、満面の笑みを見せてくれた。
 大前の笑顔は変わらなかった。それは大前の強さなのかもしれない。お姉さんを思う気持ちや早気に臆することなく立ち向かう気持ちがあるからこそ、大前はいつも笑うことができるのかもしれない。
 大前は僕とは違った。僕が行ってこなかったことを既に行っている。早気と真正面から向き合っている。たとえ苦しくても、決して諦めることを考えていない。それは大前の目を見ていれば明らかだ。
 早気を絶対に克服できる。
 大前になら、すぐにでもその言葉をかけることができる。慰めでもない、克服できるだけの根拠がある気がした。
 ――真弓君は大丈夫。
 先輩は大前のように、僕にも根拠があるから言ってくれたのかもしれない。でも、それはいったい何なのか。今の僕には全くわからなかった。
 年が明け、練習試合まで一ヶ月を切った。
 正月休みなど考えもせずに、ひたすら練習をし続けていた僕達の努力が、少しずつ見え始めていた。三人立で入った実践形式の練習では、三人の的中数を総計九中まで伸ばすことができた。お互いが外した後は、絶対に中てようという意識が芽生え始めていることが大きい。それと、個々のレベルアップが確実に結果として出始めていた。特に顕著だったのが初心者の高瀬だった。弓に触ってからおよそ二ヶ月しか経っていないのに、常に羽分け以上の成績を出すことができている。経験者の古林は、皆中を四回に一回出せるまで射が安定してきた。そして僕は、早気は治っていないけど、高瀬と同等の的中を維持することができていた。
 個々のレベルが上がった今、次はチームとしてのレベルを上げていかないといけない。弓道はチームで試合に臨む。チームとして強くなるためには決めないといけないことがある。
「そろそろ立ち位置を決めて、本格的に練習していきたいと思ってるんだけど」
 自主練習が終わった後、僕は高瀬と古林を喫茶店に誘った。
「おっ、俺も思っていたところだよ」
「そうだな」
 二人が首を縦に振って、決めるのに同意してくれた。僕は以前からずっと考えていた案を二人に話すことにした。
「高瀬君は中で、古林君は落でどうかなって思ってる」
「うん。いいと思う」
 高瀬は二つ返事で僕の提案を受け入れてくれる。一方の古林は渋面をつくっていた。
「俺は真弓の提案、受け入れることはできない」
「えっ……」
 古林の言葉を僕は受け入れることができなかった。現在の技量を考えても、この順番で射るのがベストだと思っていたから。
「もしかして、僕が大前だから?」
「そうじゃない。俺が言いたいのは」
 古林は声を荒げた。喫茶店内にいた一部の人達が、僕達のテーブルに視線を向けてくる。
 僕には古林が否定する理由がわからなかった。確かに高瀬は大前に向いている。その明るい性格で確実に一射目を仕留め、チームに勢いを与えることができれば、どれだけ楽になることだろう。でも、高瀬は決定的に足りていないところがある。
 圧倒的に試合慣れをしていない。
 僕や古林は中学生の頃から多くの場数を踏んできた。試合勘はどうしても経験の多さでしか養うことができない。それに、今回の練習試合は男子弓道部の未来がかかっている。危ない橋を渡るべきではないはずだ。
 色々と考えを膨らませていると、目の前の古林が大きく息を吐いた。そして僕に視線を向けると口を開いた。
「お前が落をやらなくてどうするんだって言いたいんだ」
 僕は古林の言葉を理解しようとした。確かに落をやるのは不可能なことではない。でも、それだと試合に勝てる勝算が見えない。
「僕の状況を知っているだろ? 中りを期待できないのに、落にいる意味なんてない」
「中らないから落は駄目って、誰が決めつけたんだよ」
 古林の発言は間違っていない。でも、今は中りを求めるべきだ。
 間髪入れずに古林はそのまま続けた。
「落は弓道の花形だろ。真弓は中学の大会ではずっと落だっただろ」
「それは古林君だって……」
「確かに俺も落をやっていた。それでもこのチームは、真弓中心のチームだと思っている。真弓の支えがあるからこそ、今だって俺らは弓道をすることができているんだ」
 古林の言葉に高瀬もしきりに頷いている。
「でも、練習試合で上位に食い込まないと部活自体が……」
「だから、俺らはお前と心中するって決めたんだ。なあ高瀬」
 古林の声に高瀬が反応する。
「そうだよ。真弓君と心中するんだよ。男子弓道部の最初の部員は俺だ。でも、チームのエースと言われたら、経験が豊富な真弓君なんだよ。俺は古林君でもいいと思ってる。自分がへたくそだから。でも、どちらかを選べと言われたら必ず真弓君を落に推す」
 二人の思いが胸に刺さる。目の前で心中するとまで言ってくれた二人に対して、僕は胸が熱くなる思いでいっぱいになった。
「ありがとう。だけど、僕には二人を支えるだけの力がまだない。早気だって未だに克服できないでいるんだ。心中なんて、僕には重すぎるよ」
 視線を二人から逸らす。僕のせいで二人が弓道をできなくなることが嫌だった。これは、僕のわがままなのかもしれない。だけど自分の問題も解決できていないのに、他人の希望を背負うことなんて愚かなことだと思う。
「真弓君は一人で弓道やってるの?」
 高瀬の問いに虚を付かれた。
 そんな訳がない。そう答えたいのに言葉に詰まってしまう。
「今まで言わなかったけど、俺や古林君に一言も相談してくれたことなかったよね?」
「それは……二人に心配かけたくなくて」
「それがだめなんだよ!」
 高瀬が声を荒げた。喫茶店にいる人達が再度視線を向けてくる。高瀬はその視線を気にせずに続けた。
「心配かけたくないって、俺達のことを信頼してないってことだよね?」
「それは……違う」
「違うなら、真っ先に打ち明けてくれても良かったんじゃないの? チームメイトである俺達にさ」
 高瀬の叫びに言い返す言葉が見つからない。心配をかけたくないから黙っている行為は、相手を信頼してないから生まれる。高瀬の言葉を僕は否定できなかった。
「俺達は真弓君を助けたい。これから試合までの間に、俺達にだってできることがあるはずだから」
 高瀬は言い切ると、一度古林の方に視線を向けた。古林はそれに無言のまま頷く。それを確認した高瀬は、僕に視線を戻す。
「俺達を信じてよ」
 信頼しているからこそ、二人は落に僕を選んでくれた。それなのに、僕だけが二人を信頼していなかった。実際に組みたいと思っていた理想の立ち位置を、最初から言うこともできなかった。弓道は個人競技ではない。チームで戦うスポーツだ。
「ごめん。僕は大切なことを忘れていた」
 目の前の二人がいなければ、チームとして試合に臨むこともできなかった。仲間について考えることもしなかった。
「ようやくだな」
 古林は一息吐き、安堵の表情を晒している。
「ああ。俺達はみんなで支え合わないと」
 高瀬の笑顔が眩しかった。
「大前は高瀬君でいきたい。古林君は中で。そして、僕が落。それでいいよね?」
 聞かなくてもわかっていたけど、二人に問いただしてみる。二人とも笑顔を浮かべていた。
「「おう!」」
 ここからが試合に向け一番の正念場となる。このチームで大切な試合を勝ち抜かないといけない。ようやく僕達の男子弓道部が動き出した。一人で戦っているのではない。チームで戦っている。周りを見渡せば、大切な仲間がいる。
 そう実感できている僕は、本当に幸せなんだと思った。

「最近どうなの?」
「まあ、順調かな」
 そっか、と凛は安堵の表情を見せる。こうして凛と会話するのが久しぶりで、自分のことに集中していたと気づかされる。
 喫茶店から家に帰り、自分の部屋の電気をつけると直ぐに携帯が震えた。画面を見ると凛からだった。電話に出るなり「窓の外を見て」と言われカーテンを開けると、目の前に凛の姿があった。
「今から家に行くから!」
 そう言い残した凛は、数分後に玄関のチャイムを鳴らし、今に至っている。
「こうして凛の形を見るの、久しぶりだね」
「一が見ていない間に、私も成長したんだから」
 凛はゴム弓を引き始める。打起しの段階で僕は直ぐに変化に気づいた。以前は肩に力が入っているのが見ているだけでもわかったのに、今はリラックスできている。全く力が入っていない感じがした。さらに、凛は打起し後に馬手が弓手よりも下がる癖があったのに、それも解消されている。引分けも打起しで土台が出来ていたので、左右均等に引くことができていた。
「どうだった?」
 離れを終えた凛が僕に聞いてくる。
「すごく良くなってる。以前指摘した箇所が全て解消されていたし」
「やった。鏡の前でたくさん練習したんだ」
 笑顔を晒す凛は、自らの成長を素直に喜んでいる。凛は自らの課題を着実に克服している。凛だけじゃない。一緒に練習している高瀬も古林も、日々成長を続けている。でも、僕は成長できているのだろうか。
「そろそろ練習試合だね」
「うん」
「一は弓道楽しい?」
 凛の質問は、どこか僕の心を見据えているような気がした。
「もちろん楽しいよ。だって弓道好きだし」
「そうだよね。うん……本当に良かった」
 そう言うと凛は笑顔を見せた。純粋で屈託のない笑顔が、僕の胸に刺さる。
「実は、女子も一達のことを見直しているんだよね」
「そうなんだ」
「学校では空き教室でゴム弓引いたり、ビデオカメラで撮影した射形を見て研究したり。休日は電車に乗って、使える道場に通ってるでしょ」
「やけに詳しいね」
「だって、楓先輩が言ってたから」
 楓先輩と言われ、誰のことを言っているのかわからなかった。だけど直ぐに雨宮先輩だと思い出す。
「先輩、男子弓道部について詳しく知っているみたいで。よく道場で話してくれるんだ」
 凛の言葉に僕は意外だなと思った。たしかに先輩は男子弓道部について悪く思っていない。だけど、他の弓道部員にまで話しているとは僕は思ってもいなかった。
 僕の反応を窺うように視線を向けた凛は、そのまま続けた。
「楓先輩に何か話したの?」
 冷めた声が耳に響き渡る。凛の顔を見ると、訝しむような表情で僕を眺めていた。そういえば、凛には言っていなかったことがあった。
「実はふささら祭りの日に先輩に会って。そこで男子弓道部について話したんだ」
「そうだったんだ」
「道場の相談をしたり、弓道部について色々と話したり。相談に乗ってもらった」
 僕が思っている以上に、先輩は僕達の為に働きかけてくれている。
「先輩に相談して、答えは出たの?」
「答え……」
「これからの男子弓道部について。あと……一自身について」
 凛の問いに対して、僕は直ぐに答えることができなかった。
 男子弓道部については、はっきりとした答えが出ていると思う。二月の練習試合で勝つこと。いい成績を納めて藤宮先生に一泡吹かせること。そして、男子弓道部の場所や存在意義を取り戻すこと。それは、草越高校男子弓道部の英雄である翔兄ちゃんが求めたことでもある。
 でも、自分自身についての答えは出ていないし、今の僕にはわからなかった。
 それは早気という病気に打ち勝っていないからなのかもしれない。でも、もし早気になっていなかったとしたら、僕は何のために弓道を続けるのだろう。
 翔兄ちゃんに憧れたからかもしれない。大前にもそう答えた。でも、今思うとそれは単なるきっかけにすぎない。
 憧れだけでは弓道は続けられない。
 僕はどうして弓道を続けているのだろう。
「先輩のおかげで、男子弓道部の印象が少しずつ変わっている。それは、僕達がこれからも弓道を続けるために必要不可欠なことだと思う。だから先輩には本当に感謝しているし、僕達は練習試合で勝って、弓道部を廃部にさせたくないと思ってるよ」
 これは逃げているだけなのかもしれない。僕は凛の問いの片方だけ答え、もう一つの質問には答えなかった。口から発せられた言葉の全てが欺瞞に思えて仕方がない。男子弓道部の存在を盾にして、結局は自分自身を守っているだけだ。
 凛はそれをわかっているみたいだ。僕の返事に頷くだけで、それ以上追及してこなかった。
 男子弓道部の運命が決まる日。僕達は会場である大宮公園弓道場を訪れていた。僕にとっては秋の新人戦以来の大宮公園。凛の応援をするために訪れた当時とは、気持ちの持ちようが違った。
 今日だけは絶対に負けられない。その気持ちは、周囲にいる他校の人達よりも強いはず。それでも今日集まっているチームは、埼玉県内で弓道の強豪校と言われている学校だった。
 埼玉県内で男女ともに一番の強さを誇る岩月(いわつき)高校。緑の鉢巻が特徴的な東武農業第三(とうぶのうぎょうだいさん)高校など強豪チームが勢ぞろいしていた。
「すげー。埼玉のてっぺんを争っているチームが一堂に集まってるよ」
 高瀬は目をキラキラ輝かせている。弓道が大好きな高瀬にとって試合前の空気は、緊張感よりも高揚感の方が勝っているのかもしれない。高瀬の嬉しそうな表情が、僕にはとても頼もしく見えた。
「今日が勝負だからな」
「うん」
 古林の落ち着いた声音に僕は応える。試合慣れしている古林は、いつも通り落ち着いた様子を見せている。そんな対照的な二人に比べ、僕は少しだけ緊張と不安を抱えていた。
 中学二年生以来の試合。以前は自分の信じた弓道をすれば必ず結果がついてきた。だからこそ、緊張なんて感じたことがなかった。でも、今はそうじゃない。早気になってから緊張と不安を感じるようになった。むしろ今まで感じなかったのが異常だったのかもしれない。
 弓道場の入口周辺に集まる学生を眺めていると、道場前に見慣れた人達がいた。
「あっ、一じゃん」
 僕の姿に気づいた凛が手を振ってくる。僕達は凛の元へと向かう。
「調子どう?」
「まあまあかな」
「そう」
 凛はほっと息を吐いた。
「俺達、絶対に勝ってくるからね。楠見さん」
「う、うん。頑張ってね」
 高瀬が僕を押しのけ、爽やかな笑顔を見せながら凛に話しかける。凛は苦笑を浮かべながらも、高瀬に応えていた。
「あら、来ちゃったのね」
 和やかな雰囲気に水を差す冷酷な声が後方から聞こえる。振り返ると藤宮先生が立っていた。
「今日はどんな試合を見せてくれるのかしら」
「俺達は負けるつもりはないです」
 高瀬は負けない意志を前面に出している。
「まあ、せいぜい女子の名誉に泥を塗らない程度に頑張ってちょうだい。今日は強豪校である女子弓道部のおまけで出場できるのだから」
 嘲笑を浮かべた藤宮先生は、他校の先生の元へ直ぐに行ってしまった。