「真弓が楠見のこと誘えよ。今の話聞いて、お前が誘うべきだと思った。それに、仲直りしないと道場が使えない可能性の方が高い」
息を潜めていた古林の言葉に気づかされた。今は道場についての話をしていたはず。それなのに、いつの間にか自らの私情を挟んで考えていた。凛と話したくない理由があるにせよ、それを男子弓道部に持ち込むのはいけない。
「楠見さんのこと……よろしくな」
振り絞るようにして吐き出された高瀬の言葉が、僕の胸を打つ。高瀬は弓道部のことを真剣に考えている。自らの感情を殺してまでも。
「わかった。凛に祭りのこと、伝えてくる」
僕だって、いつまでも凛と話さずにいるわけにはいかない。いつもと違うけど、今回は僕から凛に話しかけよう。高瀬と古林に背中を押される形で、僕は教室を後にした。
凛を探して道場に足を運んだ僕は、道場前で素引きをしている人に声をかけた。
「すみません。凛……楠見さんっていますか?」
「楠見ちゃん? ちょっと待ってね」
目の前にいた艶やかな黒髪を纏う女子は、そのまま道場内に入っていった。思わず僕は見とれてしまった。袴姿に艶やかな黒髪。和を存分に感じさせるその立ち振る舞いに、思考の全てを奪われそうになる。
「楠見ちゃん、まだ来ていないみたい。教室じゃないかな?」
「そうですか……ありがとうございます」
お辞儀をした僕は、そのまま道場を後にした。
教室にもう一度戻るため昇降口に向かうと、直ぐに凛を見つけた。声をかけようと思った僕は、目の前の光景に出かかった言葉を飲み込む。そして咄嗟に物陰に隠れた。
「お願いします。弓道部に戻ってきてください」
凛を見つけたのはよかったけど、今起きている状況が理解できなかった。凛が上級生に向かって頭を下げている。
「だからしつこいって。俺はもう弓道辞めたんだよ」
以前、弓道部に入っていたと思われる男子は、凛のしつこさにうんざりしているように見える。
「もう十一月です。今からなら来年の大会にだって出ることができます。先輩、次期部長候補だったって聞きましたよ」
「あの時とは状況が変わったんだよ。わかるだろ?」
「わかりません。どうして男子弓道部を見捨てるんですか」
先輩に食い下がる凛は、言い争いになったあの時とちっとも変っていなかった。
「部員もいないし、もう無理だって」
「一年生に、部員の子が一人います。それに、今からでも部員を集められるはずです」
「楠見、本当にしつこい。しつこい奴って嫌われるぞ」
「嫌われてもいいです。男子弓道部に戻ってきてくれるなら」
「だから戻らないって。どけよ」
「痛っ」
ドンっと凛を小突いた上級生は、地面にしりもちをついた凛を気にせず、そのまま去って行った。地面に倒れこんだ幼馴染の元に駆け寄り、僕はそっと手を差し伸べた。
「ありがとうございま――」
「久しぶり」
「……」
僕は凛の手を取って立ち上がらせた。僕に気づいた凛は、何事もなかったように道場に向かって歩き出そうとする。僕は咄嗟に凛の右手を掴んだ。
「何よ」
「凛に話があって」
「聞きたくない」
怒っているのか、凛は僕の手を振り払うと再び歩き出した。
「ごめん。あの時は僕が悪かった」
大声で凛の背中に向け言葉を放つ。すると凛はその場で立ち止まってくれた。
「あの時、凛の言っている意味が僕には分からなかった。確かに僕はやりもせずに諦めていたと思う。自分で勝手に限界を決めて、やろうとしなかった。でも、今は違うんだ」
凛の元に駆け寄り、視線を合わせる。凛はまだ俯いたままだった。
「僕は弓道部に入ることにしたよ。そして、男子弓道部を復活させる」
僕の言葉に反応した凛は、俯いていた顔を上げた。僕と凛の視線が重なる。僕の強い決意を凛に届けたい。その一心で凛を見つめ続ける。
しばらくして、僕から視線を逸らした凛が話し始めた。
「でも、どうして急に……」
「藤宮先生に男子弓道部の悪口を言われて許せなかった。だから先生を見返したいと思った」
凛は僕の言葉を黙って聞いてくれている。続けて僕は話した。
「それに、翔兄ちゃんとの約束もあったから。弓道部を失くしたくないんだ」
今のままだと藤宮先生がいる限り、男子弓道部は何もできないまま終わってしまう。
「そっか。なんか、安心したかも」
「安心?」
「だって、このまま何もせずに終わっちゃうのかと思ってたから」
凛は嬉しそうに笑顔を浮かべていた。僕も少しは前に進めたのかもしれない。
「そういえば、さっき上級生と言い合ってたよね?」
「聞いてたんだ」
「うん。ゴメン」
盗み聞きをしていたことを謝った僕に向け、凛は乾いた声で言った。
「男子弓道部に戻ってきてほしいってお願いしたの。私も男子弓道部を潰したくなかったし、翔兄ちゃんのいた弓道部を失くしたくなかったから」
凛は自ら行動を起こしていた。たぶん凛のことだから、ずっと先輩を誘い続けていたのだろう。そんな凛を想像すると、何故だか笑いがこみあげてきた。
「ホント馬鹿だな、凛は」
「ば、馬鹿って何よ」
笑うなと言って僕をたたいてくる凛は怒ってはいなかった。自然と笑みがこぼれている。
「でも、凛の頑張りに気づけなかった僕のほうがよっぽど馬鹿だ」
「一……」
凛は笑顔から一転、寂しそうな表情を晒す。しばらくの沈黙。僕の発言のせいで、空気が重くなってしまった。どうにかしようと、僕は言おうと思っていた本題を凛にぶつけた。
「明日のふささら祭りなんだけど、よかったら一緒に行かない?」
「えっ!」
「男子弓道部のメンバーも一緒なんだけどさ、どうかな?」
二人きりだと、噂が再熱しかねないと思い咄嗟に口から出てしまった。後で高瀬達に色々と謝る必要がありそうだなと思っていると、凛はすまし顔で言った。
「珍しいね。一から誘ってくれるの」
凛は僕の肩をポンッと叩くと、少し距離をとるように僕から離れた。
「いいよ。そのかわり、たくさん奢ってもらうからね」
「たくさんは勘弁してほしいな……」
凛は笑みを見せると、そのまま道場に向かっていった。
久しぶりに凛の笑顔を見れた気がする。今日まで凛と仲直りのきっかけを見出すことができなかったけど、高瀬と古林が背中を押してくれたこともあって、うまくいった。二人には感謝しきれないくらいに恩を受けた。今度は、僕が二人に何かしてあげたい。僕ができることは何だろう。そんなことを考えながら、僕は帰宅の途についた。
ふささら祭りは、草加松原遊歩道をはじめ、その近辺で毎年十一月に行われる祭りだ。僕は昔からこの祭りに翔兄ちゃんと凛の三人でよく来ていた。いつも自由奔放に歩き回る凛を、翔兄ちゃんがよく怒っていたこともあった。そんな感じで、毎年このお祭りには参加していた。
唯一参加しなかったのは昨年のお祭りだった。翔兄ちゃんが京都に行ってしまったことと、僕が早気になって心を閉ざしていたこともあって、祭りに行くことはなかった。
凛と久しぶりに会話した夜、十三時に集まろうと皆にメールを送った。高瀬と古林には謝罪の文章を添えて、来てほしいと頼んだ。二人とも直後に電話してきて、ふざけるなと言ってきたけど、渋々了承してくれた。
一番乗りで集合場所についた僕は、目の前に広がる松並木を眺める。いつもは静かで松の木が印象的な風景も、今日だけはお祭りの屋台で道中がにぎわっている。小さい子供が綿あめをおいしそうに頬張ったり、リンゴ飴を二つもらうためにじゃんけんに精を出しているおじいちゃんがいたりと、世代を超えて皆がお祭りを楽しんでいた。
「真弓君!」
背後から僕の名前を呼ぶ声が聞こえた。振り向くと、高瀬と古林がいた。
「二人とも、本当にありがとう」
「楠見が来るってことは、成功したんだよな」
「うん」
僕が答えると、古林は安堵の表情を晒した。高瀬もよかったと胸をなでおろすように大きく息を吐く。
「それで、道場については話せた?」
「いや、まだ話せていない」
高瀬の問いに答えた僕は、ごめんと謝った。
「謝る必要ないよ。今日みんなでお願いすればいいんだからさ」
「お願いって何のこと?」
「うわっ」
背後から声をかけられた高瀬は、驚きのあまり思わず声を漏らす。まだ来ていないと思っていた凛が高瀬の後ろに来ていた。
「こんにちは。一がいつもお世話になっております」
「何を言い出すかと思ったら……僕の保護者ずらしないでよ」
へへっと凛は笑顔を見せた。その笑顔を見たからかもしれないけど、高瀬の表情が明るくなった気がする。
「へぇ。どんなメンバーかと思ったけど、もう一人は古林君か」
「知ってるの?」
「うん。知ってるよ。一のクラスでいつも一人でいる人でしょ?」
「おい、凛。ごめん、古林君。凛の性格を最初に伝えておくべきだった」
思ったことは直ぐに口に出す凛は、ほとんど話したことがない相手にも容赦はない。一方の古林は、猪突猛進な凛とは正反対で泰然自若とした態度で僕にしか聞こえない様に話した。
「大変だな。真弓の苦労する姿が目に浮かびそうだ」
「ははは」
古林の反応に僕は苦笑するしかなかった。
「それでお願いって何? 何かたくらんでるでしょ」
「ち、違うよ。たくらんでなんか。ねえ、真弓君」
「そ、そうだね」
僕と高瀬は慌てふためく。そんな中、古林はいつも通りの落ち着きを見せている。
「怪しい……」
「なあ、楠見。俺らに道場で練習させてくれないか?」
隠し事も一切せずに、本題をど真ん中に放り込んだ古林に、僕は開いた口が塞がらなかった。
「ごめん、それは無理だと思う。藤宮先生が厳しいから」
凛にわずかな望みを託していた僕達は、大きな溜息を吐いた。やはり藤宮先生の壁を越えなければ道場の使用ができない。二月の大会までの練習場所が確保できない僕達は、とうとう窮地に立たされた。
「でも、私も掛け合ってみることにするよ。男子弓道部の応援したいから」
「ありがとう。楠見さん」
高瀬は凛の手を取ると、爽やかな笑顔を晒す。しかし、凛は高瀬の笑顔を気に留めることもなく普段通りの笑顔をつくると、高瀬の手を離した。
「さあ、お祭り楽しもうよ」
「そうだな。楠見の協力も得られることだし、今は祭りだな」
古林も凛と同じくらい言いたいことをストレートに表現するタイプみたいだ。今まで教室で誰とも話していなかった古林の性格が垣間見え、僕は嬉しくなった。
ふささら祭りでは、毎年全国各地からよさこいのチームが参加して踊りを見せてくれる。僕達もそれを眺めながら屋台を回ったり、ふささら祭りと同時開催されている広場での祭りを見て回ったりと、一通り祭りを楽しんだ。
「ちょっとトイレ行ってくる」
「それじゃ、谷古宇橋前に集合ね」
「うん」
祭りも終わりを迎えた十六時過ぎ。凛たちと一時別れた僕は、簡易トイレに向かった。
用を足し、集合場所に戻ろうとしたとき、見かけたことのある黒髪の女性が僕の前を横切った。その艶やかな長い髪を纏う女性は、見るものを虜にするくらい美しかった。
「あれ、君はたしか……」
僕の視線に気づいた女性が近寄ってくる。最初は誰かわからなかったけど、表情がわかるくらいまでの距離になって、ようやく近寄ってきた女性が僕の知っている人だとわかった。
「こんにちは。真弓って言います。この間は、ありがとうございました」
「楠見ちゃん、見つかった?」
「はい。見つかりました」
「そう。よかった」
屈託のない笑顔に心が動かされる。気を抜くと、この人の包容力の虜になりそうだ。
「あの、今日は先輩もお祭りに?」
「そうよ。私、地元のよさこいチームに入ってて。さっきまで踊ってたの」
「すごいですね。部活も大変なのに、よさこいもしているなんて」
「家族がよさこいやってるからね。最初は私も嫌々やってたのよ」
先輩との会話が弾む。普段、凛以外の女性と話すことがほとんどない僕は少し緊張していた。一方、先輩の方は異性に慣れているのか、平然と僕と話をしている。
「真弓君はお友達とここに?」
「はい。部活仲間と一緒に来ました」
「そう。何部かしら?」
先輩の質問に、僕は出かかった言葉を飲み込んだ。女子弓道部は男子弓道部を良く思っていない。それは目の前にいる女子弓道部員の先輩こそ、まさしく思っているのではないかと。
それでも僕は、変化を求めて目の前の女性に言うことにした。
「男子弓道部です」
言葉を放った瞬間、先輩は大きく目を見開いた。おそらく男子弓道部が存在していることに、驚いているんだと思った。
「弓道部……」
「はい」
先輩は俯くと、僕に聞こえない声で何かを呟いた。そして身体を震わせていた。僕には先輩の状況が理解できなかった。もしかしたら男子弓道部の不祥事が許せなくて、憤りを感じているのかもしれない。
「ご、ごめんなさい」
「なんで、謝るの?」
先輩が謝った理由を聞いてくる。僕は素直に思ったことを話そうと決めた。
「先輩も知ってると思いますが、男子弓道部の不祥事のせいで色々と女子弓道部にも非難が集中してしまったからです」
自分が関わっていなくても、世間ではそんな言い訳が聞くはずもない。不祥事を起こした高校とレッテルを貼られてしまう。たとえ男子弓道部が起こしたことであっても、女子弓道部にも風評が立ってしまう。男子弓道部として、僕は謝罪をするしかなかった。
「そうね。たしかに私達女子弓道部は被害を受けた。当時一年生だった私は矢面に立つことはなかったけど、その時の部長だった先輩はそれがきっかけで部活を辞めてしまったこともあった」
先輩の言葉に、僕は顔を上げることができなかった。話を聞くだけで申し訳ない気持ちが心の底からこみあげてくる。
「でも私は、それも草越高校弓道部が歩むべき道だったんだと思う」
「先輩……」
「だって全国三連覇した高校だよ。正直、私は男子の三連覇があったから草越に来た。私と同じ考えの人も多くいるわけだし。草越を選んだのは自分なんだから、それを素直に受け止めなきゃいけないと私は思うの」
笑顔を見せた先輩の表情に僕は虚をつかれた。全くの予想外の展開に、僕はついていくのがやっとだった。
「だから私は、男子弓道部のことは嫌だとか思っていない。むしろそう思っている部員がいることの方が悲しい」
先輩は言い切ると、はーっと息を吐いた。
僕は先輩の発言が信じられなかった。先輩の考え方が大人というか、少なくとも僕には考えることができない発想だった。
「そういえば、男子って練習どこでしてるの?」
「道場が使えないので、今探しているところです」
「やっぱりね。藤宮先生は男子弓道部を嫌っているからね」
「でも、顧問の先生もどうにかしてくれると言ってましたから」
「顧問?」
「はい。的場先生です」
期待はできないけど、一応顧問の先生。それなりの結果は持ってきてくれるはずと、僕は勝手に思っている。
「的場先生なんだ。優しそうな先生だよね」
「優しいのはいいんですけど、適当すぎて少し不安があります」
「そうかな? 芯の通った先生だと私は思うけどな」
先輩は風になびく髪を押さえながら、笑顔を作った。先輩の発言は僕の見ていないところを見ている気がした。
「私、もう行かないと」
先輩の視線をたどると、先輩の家族と思われる人達がこちらを見ていた。
「先輩!」
「何?」
「名前、教えてくれませんか?」
僕の質問に、先輩は微笑みながら答えてくれ。
「雨宮楓。これからよろしくね。真弓君」
屈託のない笑顔を見せ、先輩は去って行った。
週明け月曜日の放課後。男子弓道部全員が的場先生に呼び出された。
「よし、お前ら荷物持ったな。それじゃ、行こうか」
「どこに行くんですか?」
「練習場所だよ」
高瀬の質問に答えた的場先生は、そのまま職員室を出て行った。僕達も慌てて後を追う。まさか的場先生が練習場所を見つけているとは思ってもみなかった僕達は、言われた時に拍子抜けしてしまった。
電車を乗り継いでやってきた駅は、僕をさらに驚かせた。
「ここって、真弓君の最寄り駅だよね?」
「そうだね。でも、ここら辺に練習できる場所なんてないと思うけど」
心当たりのない僕は、的場先生の言う練習場所の推測が全くできなかった。それでもしばらく歩いていると、僕にも練習場所となる場所が推測できた。
「着いたぞ」
視線の先には中学校が屹立している。間違いない。僕の出身中学校だ。
「中学校って、まさか先生!」
「高瀬の思っている通りだ。ここで練習する」
高瀬の反応に的場先生は笑みをみせる。
「ここって、真弓の中学だよな?」
「そうだよ。僕の中学だよ」
古林は中学で弓道をやっていたと言っていた。僕の出身中学校を知っていてもおかしくはないので、そこまで驚くことではない。問題は、的場先生が中学校を練習場所に選んだことだ。確かに道場はあるから練習はできるけど。
「先生は中学生と一緒に練習することを想定してるんですか?」
僕は気になったことを的場先生にぶつける。先生は素直に答えてくれた。
「そうだ。お前らがここで練習できるのは休日と祝日だけ。ただし、とある条件をのんでもらうけどな」
「条件?」
「まあ、後でのお楽しみだ」
的場先生はそのまま職員玄関まで行くと、手続きを済ませる。しばらくして、とある先生が僕達の前に現れた。
「的場! 久しぶりだな」
「真矢も元気そうで何よりだ」
初めてあった空気を感じさせないくらいフレンドリーな二人を見て、高瀬がすかさず声を上げた。
「的場先生。そちらの方は?」
「おっと。悪い。紹介が遅れたな。こいつは松草中学の真矢先生。この中学の弓道部の顧問の先生だ。それと、俺の高校時代の同級生」
にっと笑みを見せた的場先生は、真矢先生とじゃれ合う。一方の真矢先生も、久しぶりに会った同級生との再会を楽しんでいるみたいだった。
「なあ、真弓?」
「何?」
「道場ってどんな感じなんだ?」
「普通の道場だよ。五人立の練習ができるくらいの広さがあるよ」
そうか。と古林は頷く。自分の中学校との比較でもしているのか、あごに手を添え考える素振りを見せる。
「中学生と練習か。こりゃ下手なとこ見せられないな」
高瀬が威勢のいいことを口走る。高瀬も初心者だろって思わず突っ込みたくなる。
「おーい。お前ら行くぞ」
会話を終えた的場先生が、僕達の元に駆け寄ってくる。その後ろからゆっくりと歩み寄ってきた真矢先生と目が合う。僕は思わず視線を逸らしてしまった。
中学時代の嫌な思い出が蘇ってくる。正直、ここに戻ってきたくはなかった。忘れていた嫌な出来事が思い出される。僕は動揺を隠せなかった。
真矢先生に連れられて校内を歩き続けると、目の前に懐かしい風景が見えてきた。
「ここが道場です。ちょうど部員の子たちが練習しているので、ぜひ見学していってください」
真矢先生のご厚意に甘える形で、僕達は道場の中へと入る。丁度、立が行われていた。
目の前で繰り広げられる練習と道場の静謐な雰囲気は、大会の時とは違う違和感みたいなものを覚える。立に入っている人との距離が近いからなのかもしれない。弦音が大きく聞こえる。それにかつて練習に打ち込んだ懐かしい道場の空気に、感慨深い気持ちを抱かずにはいられなかった。
僕達は立の真後ろに場所をとり、腰を下ろした。松草中学校の道場は、最大六人まで的前に入ることができる。中学校でここまで設備の整っている道場があるのは珍しい。大会では三人立と五人立の試合が行われるため、どちらも練習ができる道場は優秀だと言っていいと思う。
一射ごとに上級生と思われる生徒がアドバイスを送っている。実際に目の前で繰り広げられている練習は、僕の理想とする練習風景だった。
そんな中、僕はとある生徒が気になった。前射場の大前に入っている女性。一射目を放ったときの弦音がやけに早かった気がした。後ろ射場の大前の人は引分けに入ったところなのに。気になった僕は、そのままその生徒を見続ける。打起し、大三。ここまでは何も問題を感じられない。引分けに入っても綺麗な形を保っているように見えた。
大丈夫そうだなと思った瞬間、矢が的に向かって飛んでいった。あまりの早さに、僕は空いた口が塞がらなかった。そして、最悪な状況が僕の脳内をよぎった。