僕が弓道を続ける理由

 僕の母さんは、小さい頃に病気で亡くなった。物心つく前のことだったので、具体的には覚えていないけど、父さんが母さんの話をよくしてくれたのを覚えている。父さんは、僕が中学生にあがるのと同時に仕事の都合で海外に行ってしまった。一人になってしまった僕の面倒を、凛のお母さんが見てくれることになった。凛のお母さんには本当に頭が上がらない。
 色々と思い出していると、凛が料理を持ってやってきた。目の前にはカレーとサラダ。どこの家庭でも出そうな定番のメニューだけど、僕にとっては久しぶりの手料理だった。
「いただきます」
 凛が両手を合わせて挨拶すると、僕のことを睨み付けてくる。それに気づいた僕も、手を合わせ挨拶した。
「い、いただきます」
「うん。召し上がれ」
 笑顔になった凛を横目に、僕はカレーを胃袋に入れる。
「美味しい」
「私が作ったから当然でしょ」
 どうだ! とばかりに、自信に満ちた表情を晒した凛もカレーを食べ始める。
 久しぶりに手料理を食べたこともあり、直ぐに器が空になった。
「ごちそうさまでした」
「お粗末様でした」
 片づけをした後、僕が弓道教本とまとめたノートを部屋から持ってくると、凛がゴム弓を引いていた。
「ゴム(ゆみ)、買ったんだね」
「うん。入部当初に全員買わされたよ」
 会の姿勢を保ちながら凛は応える。
 ゴム弓は自分の形を確認するにはもってこいの道具。射法八節に基づいた射形の練習ができる。また、弓と違い手軽に形の練習ができる点がとてもいい。
「少しやってみせてよ」
「うん」
 凛は両手の親指を腰骨にあてる姿勢「執弓(とりゆみ)の姿勢」をとり、射法八節の流れに沿って弓構えまで行った。ここまでは、特に何も言うことがなかった。入学して弓道を半年続けたのだから、できて当たり前なのかもしれない。
 物見(ものみ)を入れた凛は打起しに入る。そのまま大三(だいさん)をとり、引分け、会まで到達する。そこからの離れ。そして残心、弓倒(ゆだお)しをして足踏みを戻した。
「どう……かな?」
「もう一度やってくれる?」
「うん」
 再度、凛にゴム弓を引かせる。一度目である程度把握できたけど、二回見ることでより一層その人の癖がわかるようになる。
 なるほど。僕は凛の形を見て、注意すべきところがすぐにわかった。
「打起しの時に、馬手(めて)弓手(ゆんで)よりも少し下がってる。下がったまま大三をとっているから、引分けの時のバランスが悪いんだよね。引分けは弓手の方に意識があるのか、馬手よりも先におさまっている。これじゃ、会の時に均等に伸びることができないから形も綺麗に見えないし、中りもあまり期待できないと思う。左右均等に引く意識を持ったほうがいいよ」
 少々きつめに言ってしまったと思い、僕は恐る恐る凛の顔を見る。それでも凛は、僕のアドバイスを真剣な表情で聞いてくれていた。
「やっぱり、私だけじゃ気づかないところがいっぱいあるね」
 くそーっと悔しがる凛は、真剣に弓道について考えてくれているみたいだ。
「あと、全体的に固くなってたよ。もっと肩の力を抜いて、呼吸を意識して引くことが大事だと思う」
「うーん。何となくわかるんだけど、できるかわからない……」
 凛は急に小さくなると、不安を漏らした。
「なら、もう一回やってみてよ。今度は違ったら矯正するから」
「うん。お願い」
 凛は再度、弓構えをする。ここまでは自分でも見えているから、間違いがはっきりわかるはず。問題は物見を入れた後。打起しをするときだ。
 打起しをした凛は、そのまま大三の姿勢をとろうとした。
「ストップ」
「何?」
「そのままの姿勢で物見を戻してみな」
 凛は言われた通り、物見を戻した。
「あっ……」
「馬手が下がっているでしょ?」
「うん」
「物見を入れると、自分がどんな形で引いているか見えないよね。だから、こうして形が崩れていることに気づかないんだ」
 伝え終えた僕は、凛の馬手を弓手と平行になる位置に戻した。
「この位置が、平行。意識できそう?」
「うーん。難しい……」
「形を自分のものにするのは時間がかかるからね。できれば、誰かに見てもらってアドバイスしてもらうのが一番だよ。もし一人で練習するなら、全身が写る鏡の前で練習することがオススメかな」
「なるほどね。先輩がいつも鏡の前を占領している理由が分かった気がする。今度、私も借りようかな」
 意気込む凛は、何度も打起しの動作の確認をする。
「それに」
 僕は凛の後ろに回ると両手で両肩を押さえた。華奢な凛の身体に触れた瞬間、ぴくっと凛の肩が震えたのがわかった。
「な、な、何?」
「肩に力入りすぎ。肩が上がってるよ。これじゃ、引きにくいと思う」
「う、うん……」
 凛は小さくなり、僕から視線を逸らして俯いた。若干だけど、凛の頬が赤くなっているように見えた。
「一……」
「何?」
「……そろそろ、手……どけて欲しいなって……」
 先程より凛の頬がさらに赤くなっていた。
「あっ……その……ごめん……」
 凛の言いたいことに気づいた僕は、とっさに肩から手をどかした。
 形の指導の時には、実際に触れて直すことはよくあること。教えあうことに男女は関係ないけど、さすがに至近距離で異性の身体に触れるのだから、気を使うべきだった。
 何を話すべきかわからずに言葉を失っていると、凛が黙々とゴム弓を引きはじめた。先程教えたことを意識しているのか、自分で形の確認を行いつつ練習を再開する。
「凛はさ、男子から教えてもらったことってないの?」
「ないにきまってるでしょ。だって、男子って道場に来ないし」
「そうだよね……」
 男子弓道部の道場使用が禁止されている以上、互いに形を見せ合う機会がない。しかも部員も高瀬一人のせいで、男子の活動が一向にできない状態になっている。
 翔兄ちゃんは、僕に弓道部を託したいと言った。だけど高瀬や凛から聞いた話を聞くと、僕にはどうにもできないことが多い。やはり無理な気がする。
「そういえば、翔兄ちゃんってまだ凛の家にいるの?」
「もういないよ。今朝、実家の方に帰っちゃった」
「そっか」
 凛はゴム弓を置くと、冷蔵庫を開けて麦茶をコップに注ぐ。そしてそのままぐびっと一気に飲み干した。
「翔兄ちゃん、一のこと心配してたよ」
「……うん」
 凛の言葉に僕は頷くことしかできなかった。
 俯いていた僕の双眸に麦茶の入ったコップが映る。顔を上げると、凛が笑顔で差し出してくれていた。僕はそれを受け取って、口をつける。五臓六腑に冷たい麦茶が染み渡る。
「でも、翔兄ちゃんは期待もしてたよ」
「期待?」
「一に教われば、凛はもっと上手くなるって。あいつはやればできる奴なんだって」
 得意気に話す凛の言葉は、僕には信じられなかった。翔兄ちゃんも凛も、どうして僕のことを買いかぶるのだろうか。
「僕は何もできない人間だよ。今だって僕なんかよりも翔兄ちゃんに教わるほうが、凛はもっと上手くなると――」
「そんなことない!」
 凛が突然大声で叫んだ。あまりの勢いに僕は腰が抜けそうになる。
「だって考えてみなよ。全国三連覇の立役者だよ。大学だって弓道の強豪校にスカウトされたから京都に行ったんだ。翔兄ちゃんから教わるほうがいいに決まってる」
「そうかもしれないけど……」
 言葉に詰まった凛は、声音が低くなっている。
「私は……一に教わりたい」
「どうして?」
「どうしてもこうしてもない!」
「訳がわからないよ」
 僕の言葉に反応した凛は大きく息を吐くと、苦しそうに言葉を紡いだ。
「どうして無理って決めつけちゃうの? 昔の一は無理なんて言わなかった」
 凛の叫びに応えることができずに、僕は顔を背けた。
「……帰る!」
 怒鳴りつけるように言葉を吐き捨てた凛は、荷物をまとめて玄関に走って行く。
「凛、待ってよ!」
 後を追って玄関に向かったけど、凛は既にいなかった。ドアの閉まる音が廊下に空しく響き渡る。
 凛はどうして僕に教わりたかったのだろう。僕は間違ったことは言ってないと思う。それでも、凛は明らかに怒っていた。癇に障ることを言ったのかもしれない。
 静まり返った室内に充満するカレーの香りが、先程までここに居た凛のことを思い起こさせる。
 凛の言いたかったことがわからず、僕はずっと悩み続けるしかなかった。
 凛は僕にとってお姉ちゃんみたいな存在だ。昔から面倒見が良く、引きこもりがちな僕の手をひいては近所の公園に行き、一緒に遊んでくれた。明るくとっつきやすい凛の周りには自然と人が集まっていた。だけど自分が嫌なことをはっきりと口にして相手に伝える凛は、昔から友達に対しても容赦がなかった。男勝りな性格のせいで友達と口論になり、それが引き金となり喧嘩に発展することがよくあった。
 そんな凛の喧嘩を止めてくれたのが翔兄ちゃんだった。喧嘩が始まるといつも仲裁に入ってくれて、最後には仲直りまでこぎつけさせる。翔兄ちゃんは凛の抑止力になっていた。
 他人の言うことを気にせず、自分の意見を貫き通す凛が唯一従順になる相手は、僕ではなく翔兄ちゃん。普段から隣で二人の会話する姿を見ていた僕は、凛の好きな人が翔兄ちゃんなんだとその時思った。凛が高校から弓道を始めたのも、翔兄ちゃんに近づくため。本人に確かめたわけではないけど、翔兄ちゃんの名前を聞くだけで喜ぶ凛を見ていたら誰でもわかってしまう。だからこそ実績がある大好きな翔兄ちゃんに弓道を教わるほうがいいと思ったのに、凛は僕に教わりたいと言ってきた。
 あの日、言い合いになってから一ヶ月。凛と一言も話さず今日まで過ごしてしまった。正直、凛がここまで怒る理由が僕にはわからなかった。すれ違った際も、僕のことをあからさまに避けるように顔を背けてくる。僕には凛がどこか無理をしているようにしか見えなかった。

「真弓君、ちょっといいかな?」
「うん。何?」
 放課後、帰り支度をしていると高瀬が話しかけてきた。久しぶりだなと思っていると、高瀬の後ろにもう一人付き人がいた。
「実は、弓道部に入ってくれる人がいてさ」
 高瀬は後ろに隠れていた付き人を僕の前に押し出した。押し出された彼の顔を見て、僕は少し意外だなと思った。
「古林君……」
古林修(ふるばやしおさむ)。人との関わりを一切持たない青年。古林が教室で同級生と話しているところを、僕は見たことがなかった。授業間休みも昼休みもいつも一人でいる。我が道を進む、孤高の人間という印象が強かった。
「真弓だな。今日からよろしくな」
「よろしく……でも、僕は弓道部入ってないから、高瀬君に色々聞いたほうが――」
「ちょ、ちょっと」
 焦り始めた高瀬は人差し指を口元にあて、僕に必死に訴えてくる。どうやら言ってはいけなかったことらしい。古林に視線を向けると、高瀬のことを睨んでいた。
「高瀬。俺は真弓が弓道部にいるから、入るって言ったよな」
「そ、そうだったような……ははは」
「笑っても無駄だから。真弓がいないんじゃ、この学校で弓道やる意味がない。さっきの話はなかったことにしてくれ」
「古林君。ちょっと……」
 高瀬の声がけもむなしく、古林はその場から立ち去ってしまった。
「ごめん。真弓君を出しに使っちゃった」
 目の前で両手を合わせて高瀬が謝ってくる。
「どういうこと?」
「実は弓道部員を増やそうと思って、同級生に声がけしてたんだ。だけどほとんどの人が部活に入ってて。そんな時に古林君を誘うことを思いついたんだ。古林君、いつも授業終わると直ぐに帰り支度始めて帰っちゃうでしょ。だから部活に入ってないと思って」
「確かに古林君は部活に入ってないみたいだよね。でも、それと僕を出しに使ったのって何が関係あるの?」
「実は古林君を誘った時に、他に部員はいるかって聞かれたんだ。それでつい真弓君の名前を出しちゃって」
 頭をかいている高瀬は、反省の様子も見せずに笑顔で語る。爽やかな笑顔で言われると、強く言い返せない。
「なるほど。だから僕を出しに使ったと」
「ごめん。でも、真弓君の名前を出したら古林君の目つきが変わったんだ。そして、真弓がいるなら考えてやってもいいって言ってくれたんだよ。だから嘘ついた」
 高瀬が頭を下げてくる。高瀬の気持ちもわからなくもなかった。ただでさえ、部員が高瀬一人なのだから、使える手段があるのならそれを行使したくなる。僕も同じ立場だったら高瀬と同様のことをしていたかもしれない。
「まあ、別にいいよ。なんか、力になれなくてごめん」
 自然と僕のほうが高瀬に謝っていた。
「それでさ、今日はもう一つだけ頼みがあるんだけど」
「何?」
「俺と一緒に職員室に来てほしいんだ」
「職員室?」
 首を傾げる僕を見て、高瀬は頷く。
 さっき力になれなかったし、付き添いくらい問題ないだろう。僕は高瀬の頼みを了承して、とりあえず職員室に向かうことにした。
 職員室に着くと、高瀬はすたすたと慣れた足取りで中まで歩いていく。目的がわからないまま高瀬の後についていくと、高瀬はとある先生の目の前で止まった。僕達に気づいたのか、机に向かっていた先生が振り向く。
「何か用かしら?」
「はい。実は、藤宮先生にご相談したいことがありまして。今、お時間よろしいですか?」
「ええ、大丈夫よ」
「ありがとうございます」
 目の前で腕組みして、僕達を見つめてくるのは数学教師の藤宮(ふじみや)先生だった。美人で生徒から信頼されている先生。しかし生徒を注意する際に放つ厳粛な雰囲気と、気の強い性格のせいか苦手としている生徒が多い。無論、僕も苦手な先生だ。
「その、男子弓道部に道場を使わしていただけないでしょうか」
 お願いしますと言い、高瀬は頭を下げた。つられて僕も一緒に頭を下げる。
「男子弓道部ってまだ活動してたのね。全員、辞めたと思ってたのだけど」
 藤宮先生の言葉に棘を感じた。言い方から、男子弓道部のことを良く思っていないことが伝わって来る。そんな僕とは対照的に、高瀬は顔を上げると爽やかに答えた。
「僕達、今年入学した一年生です。男子弓道部に色々あったことは聞きました。それでも、僕達は弓道をやりたくて。道場を使いたくて。だから、お願いします」
 再度頭を下げ、高瀬はお願いする。たとえ部活が対外試合禁止だからと言って、活動してはいけないことにはならない。しかし、藤宮先生の口から放たれた言葉は残酷だった。
「ごめんね。それは無理なの」
「どうしてですか?」
 高瀬は食い下がる。
「昨年の四月に不祥事があったでしょ。そのせいで、女子弓道部の部員達が男子と一緒に練習することに怯えているの」
「俺達はそんなことしません」
「口だけなら簡単に言えるわ」
 机に置いてあったマグカップを手に取り、藤宮先生は口をつける。僕達の反応をうかがうように一瞥すると、そのまま話し続けた。
「それに、部員ってあなた達二人だけでしょ? 二人の男子部員の為に道場を共有するっていうのは、私は嫌かな」
「それって先生の意見ですよね? 実際は対外試合が禁止なだけで、部活動を禁止しろとは言われてないはずです。それに対外試合禁止も十一月になったので、今日で解除されたと思うのですが」
 僕は頭にきて反発した。今まで黙って二人の会話を傍観していたけど、先生が言っていることに納得がいかない。
 藤宮先生はふーっと息を吐くと、高瀬に向けていた視線を僕に向け、口を開いた。
「あのね、私達女子弓道部は本気で全国目指してるの。部員達も頑張ってくれて、来年は真剣に狙える位置に来ているの。だから、あなた達に邪魔されるのは私も困るのよ」
「どうして邪魔になるんですか。弓道は教えあうのが一番大事なはず。それなら、僕達男子からの視線でしかわからない形もあるんじゃないでしょうか」
 教えあうことの大切さ。翔兄ちゃんから教わり、僕自身も実感していることだ。より多くの人の意見を取り入れてこそ弓道の技術は上達する。弓道というスポーツは日々の鍛錬の積み重ねと、人の教えを受け入れることが大事だ。
「あなた達の意見? 四月から弓にすら触れていない人の意見なんて聞いても、技術の進歩にもならないわ。逆に技術の低下につながりかねない」
 嘲笑する藤宮先生は、声高らかに僕の意見を否定してきた。先生の言うことにも一理ある。それでも、僕は藤宮先生の言葉に憤りを覚えずにはいられなかった。何か逆転の一撃を先生に食らわしたい。
 言い返せないまま黙っていると、にやりと笑みを見せた藤宮先生が続けて話した。
「そうね。そこまで道場が使いたいって言うなら、結果で示してもらおうかしら」
「結果……」
「来年の二月に、四月の関東大会予選に向けて強化試合を毎年組んでいるのよ。あなた達にも出場の権利をあげる。その時に、まあ個人でも団体でもいいから三位以内に入る成績を残せたら、道場の使用を許可するわ」
「本当ですか!」
 条件を聞いた高瀬は、希望の光を見つけたように喜んでいる。
「さあ、どうするのかしら?」
 不敵な笑みを浮かべている先生は、僕のことを挑発するかのように腕組みを崩さずに見つめてくる。隣の高瀬は、聞くまでもなく態度でやると言っている。後は僕が決断するだけだ。
「……わかりました。それで道場が使えるなら、練習試合に出ます」
 何もせずに終わることだけは避けたかった。可能性があるなら、挑むことをしてもいいはずだ。それに、男子弓道部をのけ者扱いする藤宮先生のことが許せない。腸が煮えくり返るくらい憤りを覚えた。僕自身の弓道を馬鹿にされた気がした。そして何より、翔兄ちゃんに教わった弓道を馬鹿にされた気がして許せなかった。
「そう。楽しみにしてるわ」
 藤宮先生はそう言い残すと、荷物をまとめて職員室を出て行った。
「ありがとう、真弓君。練習試合で勝てば、道場を使えるかもしれない」
 職員室にいることも忘れて高瀬は喜んでいる。
「高瀬君。喜ぶのはまだ早いよ」
「どうして?」
「少なくとも藤宮先生の言い分じゃ、大会が終わるまでは道場が使えないってことだよ」
「それって練習できないんじゃ……」
「今気づいたのかよ!」
 僕は高瀬の危機感の薄さにうんざりした。
「練習試合が二月で、今は十一月。たった三ヶ月しかないのに、練習場所もなし。こんな悪条件を提示してきた藤宮先生は、相当の悪だと僕は思うよ」
「で、でも、どうにかなるよね。真弓君がいれば」
 高瀬の発言に引っかかる部分があった。
「どうして僕がいれば、大丈夫ってなるの?」
「だって、それは……」
 高瀬は言いたくないのか、口を濁した。しばらく沈黙が続く。
「おっ、高瀬じゃないか」
 沈黙を破ったのは僕でも高瀬でもなかった。僕達に話しかけてきたのは、濃い髭が特徴的などこか気の抜けた先生だった。
的場(まとば)先生じゃないですか」
「的場先生?」
「うん。現国の臨時教師の先生だよ。二年生担当だから真弓君は知らないかも」
「それなら高瀬君も知らないはずじゃ」
「有名な先生だから知ってるんだ。生徒に対してフレンドリーで、友達感覚で話せる先生と言えば、的場先生って」
「そんな噂、僕は知らない。しかもそれって先生としてどうなんだか」
「おいおい、俺ってそんなに一年生に有名じゃないのか? しかも、今そこにいる眼鏡君に馬鹿にされた気がするんだけど。ショックだな」
 ポリポリと頭をかく的場先生は藤宮先生と違い、柔和な印象を覚える。
「それはそうと、高瀬。お前たしか弓道部だったよな。俺、今年の四月から臨時教師やってるけど、部活の顧問につけってとうとう言われてさ。もしよかったら、俺がやってやろうか?」
「本当ですか!」
「まあ、何だ。俺も学生時代は弓道部だったから、ちょっとは役に立てるんじゃないかと思って。それに、弓道なら一から覚えることがなくて楽できそうだしな」
 本当に適当な性格をしているのかもしれない。社会人なら、髭くらい剃るのが普通じゃないのか。しかも僕のことを眼鏡君と言ってきた。
「弓道部。決して楽じゃないですよ」
「おっ、眼鏡君。どうして楽じゃないって言えるんだ?」
「男子弓道部は来年の二月の試合でいい成績をおさめないと、道場が使えないんです。あと、僕は真弓です。眼鏡君じゃないです」
 僕は的場先生に藤宮先生と話した内容について伝えた。
「そうか。道場が使えないのか」
「はい。顧問の先生になってくださるなら、どうにかして藤宮先生と交渉をしてください」
「嫌だよ。藤宮先生、怖いし。美人なのに本当、もったいない」
的場先生は僕の提案を却下した。それにしても、本当に先生なのかと疑問に思ってしまう。臨時教師として採用した草越高校の心の広さに、僕は関心を覚える。
「それに、お前ら二人が藤宮先生の条件を受け入れたんだろ? なら頑張らないと」
 ぐうの音も出ない事実を言われた僕は、口を開くことができなかった。高瀬も俯いたまま口を結んでいる。
「まあ、練習場所くらいは探しといてやる。とりあえずできる練習から行っとけ。俺も高校の頃は一人でひたすら練習してたからな」
 さらっとぼっち発言をした的場先生は、そのまま僕達に背を向けて立ち去っていった。
「的場先生に頼んじゃって大丈夫かな?」
「俺も、真弓君と同じこと考えてた」
 二人して先生の背中を見送る。的場先生は的前で練習できる場所を探してくれると言ってくれた。でも、先程の先生の対応を見ていると「すまんな。無理だった」と平気な顔で言ってくるような気がしてならない。
「まあ、とりあえず今日は帰ろう。そして、明日もう一度古林君を誘ってみよう」
「でも真弓君、弓道部に入ってくれないんじゃ」
「あそこまで言われたんだ。正直、藤宮先生に馬鹿にされて悔しい」
「真弓君……」
「だから僕は弓道部に入るよ」
 迷いはなかった。言い終えた後、僕は自分の発言に驚きを隠せなかった。今まで弓道部に戻ることに躊躇いがあった。ずっと引きずってここまで来た。だけど、目の前で男子弓道部を馬鹿にされ、挙句の果てには翔兄ちゃんのことまでも馬鹿にされた気がした。それがとても許せなかった。今はその思いで動いているのかもしれない。だけどその思いが僕の悩みを打ち消してくれるのなら、今の流れに乗っていくのは悪くはないのかもしれない。翔兄ちゃんに託された弓道部。まずは弓道部を軌道に乗せようと決意を決め、僕は職員室を後にした。