凛は小さくなり、僕から視線を逸らして俯いた。若干だけど、凛の頬が赤くなっているように見えた。
「一……」
「何?」
「……そろそろ、手……どけて欲しいなって……」
 先程より凛の頬がさらに赤くなっていた。
「あっ……その……ごめん……」
 凛の言いたいことに気づいた僕は、とっさに肩から手をどかした。
 形の指導の時には、実際に触れて直すことはよくあること。教えあうことに男女は関係ないけど、さすがに至近距離で異性の身体に触れるのだから、気を使うべきだった。
 何を話すべきかわからずに言葉を失っていると、凛が黙々とゴム弓を引きはじめた。先程教えたことを意識しているのか、自分で形の確認を行いつつ練習を再開する。
「凛はさ、男子から教えてもらったことってないの?」
「ないにきまってるでしょ。だって、男子って道場に来ないし」
「そうだよね……」
 男子弓道部の道場使用が禁止されている以上、互いに形を見せ合う機会がない。しかも部員も高瀬一人のせいで、男子の活動が一向にできない状態になっている。
 翔兄ちゃんは、僕に弓道部を託したいと言った。だけど高瀬や凛から聞いた話を聞くと、僕にはどうにもできないことが多い。やはり無理な気がする。
「そういえば、翔兄ちゃんってまだ凛の家にいるの?」
「もういないよ。今朝、実家の方に帰っちゃった」
「そっか」
 凛はゴム弓を置くと、冷蔵庫を開けて麦茶をコップに注ぐ。そしてそのままぐびっと一気に飲み干した。
「翔兄ちゃん、一のこと心配してたよ」
「……うん」
 凛の言葉に僕は頷くことしかできなかった。
 俯いていた僕の双眸に麦茶の入ったコップが映る。顔を上げると、凛が笑顔で差し出してくれていた。僕はそれを受け取って、口をつける。五臓六腑に冷たい麦茶が染み渡る。
「でも、翔兄ちゃんは期待もしてたよ」
「期待?」
「一に教われば、凛はもっと上手くなるって。あいつはやればできる奴なんだって」
 得意気に話す凛の言葉は、僕には信じられなかった。翔兄ちゃんも凛も、どうして僕のことを買いかぶるのだろうか。
「僕は何もできない人間だよ。今だって僕なんかよりも翔兄ちゃんに教わるほうが、凛はもっと上手くなると――」
「そんなことない!」
 凛が突然大声で叫んだ。あまりの勢いに僕は腰が抜けそうになる。
「だって考えてみなよ。全国三連覇の立役者だよ。大学だって弓道の強豪校にスカウトされたから京都に行ったんだ。翔兄ちゃんから教わるほうがいいに決まってる」
「そうかもしれないけど……」
 言葉に詰まった凛は、声音が低くなっている。
「私は……一に教わりたい」
「どうして?」
「どうしてもこうしてもない!」
「訳がわからないよ」
 僕の言葉に反応した凛は大きく息を吐くと、苦しそうに言葉を紡いだ。
「どうして無理って決めつけちゃうの? 昔の一は無理なんて言わなかった」
 凛の叫びに応えることができずに、僕は顔を背けた。
「……帰る!」
 怒鳴りつけるように言葉を吐き捨てた凛は、荷物をまとめて玄関に走って行く。
「凛、待ってよ!」
 後を追って玄関に向かったけど、凛は既にいなかった。ドアの閉まる音が廊下に空しく響き渡る。
 凛はどうして僕に教わりたかったのだろう。僕は間違ったことは言ってないと思う。それでも、凛は明らかに怒っていた。癇に障ることを言ったのかもしれない。
 静まり返った室内に充満するカレーの香りが、先程までここに居た凛のことを思い起こさせる。
 凛の言いたかったことがわからず、僕はずっと悩み続けるしかなかった。