悪い流れを止めることを。
パンッ。
放った矢は真っ直ぐ的に向かい、的を射ぬいた。
瞬間、周囲がざわつき始めた。僕が中てたことに驚いているのかもしれない。それでも、そのざわつきが少し妙だと思った。
僕達は岩月に何とかしてくらいついている。
決して変な射を見せていない。
それとも、王者岩月を追い詰めていることに驚いているのかもしれない。
そう割り切った僕は、弓倒しをして最後の一射の準備にとりかかる。
パンッ。
「「ッシャアアアアアアアアアア!」」
大歓声が再度上がり、それと同時に拍手が聞こえる。
岩月から二人目の皆中者が出た。道場の雰囲気が一気に変わる。
このまま落の神津も中てると、岩月は予選一回目の立から十二射全中という素晴らしい結果を残すことになる。
そうなると、予選とはいえ僕達は岩月に負ける。既に一本外している僕達に勝ち目がなくなる。
僕の目の前では、高瀬がようやく打起しに入ったところだった。
高瀬は緊張をしているようには見えなかった。表情にも余裕がうかがえる。まるで心から試合を楽しんでいるように笑顔を見せている。
緊張感のない奴。
そう言ってしまえば簡単なことなのかもしれない。それでも、初めての公式大会で笑う余裕があるのは、すごいことだ。追い詰められているのにもかかわらず、笑っていられる。
そんな高瀬に僕は嫉妬を覚えた。
高瀬の前では、神津が最後の一射を放つところかもしれない。
視線を高瀬のさらに前へと向ける。
瞬間、僕は開いた口が塞がらなかった。
前射場にいるはずの神津の姿が見えない。僕は直ぐに前射場の看的に視線を移した。看的の表示がすべて埋められている。岩月の立は既に終わっていた。
十二射十一中。
岩月の結果を見て、僕はようやくざわつきの意味を理解できた。岩月の中の人が最後の一射を外した。そのことを意味するざわつきだったのだと。
そうなると今の僕達は、岩月に並ぶ権利をまだ失っていない。僕達が負けない可能性は残っている。
高瀬に視線を戻す。高瀬は会に入っていた。
それを見計らって古林が打起しに入った。僕も取懸けに入る。
中ててくれ。
僕は必死に願った。
気持ちを声に出して伝えることができない。励ましの言葉すらかけることができない。弓道をしていて、もどかしくなる瞬間。
試合中は仲間を信じることしかできない。でも、その信じることこそが弓道では大切になる。
チーム力が問われる団体戦。一人の結果がチームを左右する。
だからこそ、生半可な気持ちで取り組むことは許されない。
高瀬も、古林もそれはわかっている。僕達は繋ぐ思いを胸に、どこにも負けないチーム力があると信じている。
だから高瀬は必ず中ててくれる。
カッ。
高瀬が放った矢は、的を掠めて安土に刺さった。僕達の思いを乗せた矢は、無情にも的に中らなかった。
高瀬は残心の姿勢のまま、しばらく動かなかった。そしてゆっくりと弓倒しをして、退場していく。
古林は目の前の高瀬を気にすることなく、そのまま会に入った。その横顔からは、どんな気持ちを抱いているのか理解することができなかった。
パンッ。
古林は四射目を中てた。古林の射を見届けてから、僕は打起しに入った。
高瀬と古林の射が終わり、残すは僕の射を残すのみとなった。
大三をとった僕は引分けに入る。
観客の視線が僕に集まっているのがわかる。
注目される中で射をするのも落の役目。
チームの集大成である落は、最後の一射は必ず中てなければいけない。
落はチームの花形。
高瀬と古林が落に推薦してくれた。僕がチームの顔だと言ってくれた。だからこそ僕は、そんなチームメイトにも見せないといけない。
ずっと見てくれている、多くの観客に見せないといけない。
今まで僕を支えてくれた、翔兄ちゃんや雨宮先輩。
僕のことを最後まで引き留めてくれた橘。
そして、早気で苦しんでいる時、いつも傍に居てくれた凛。
僕の弓道人生に関わってくれた人達に、見せないといけない。
これが、この一射こそが。
真弓一の弓道だと。
パンッ。
静寂が道場を包み込む。
残心の姿勢のまま、僕は的を見続ける。そしてゆっくりと弓倒しをした。
瞬間、大きな歓声が道場内に広がった。
僕達に対して、初めて大きな声援が飛び交う。
「そっか。皆中したんだ」
小さく呟いた僕は、足踏みを戻して退場口に向かう。
その間も拍手は鳴りやまない。
立の最後の一人となった僕は、惜しみない拍手に礼をして退場口から出た。
「真弓君!」
退場口付近にいた高瀬は、頭を叩いて祝福してきた。
「あ、あ」
「ありがとう!」
僕が口にしたかった言葉を、高瀬が先に口にする。
「どうして高瀬君がありがとうって言うのさ」
「だってこんな最高の試合ができたのも、真弓君が弓道部に入ってくれたから。入ってくれなかったら、こうして試合すら挑めなかったんだから」
「そうだな。真弓のおかげだ。ありがとな」
普段はお礼を一切言わない古林までもが、お礼を言ってくる。
古林の顔が赤くなっていた。
「僕は……僕は、みんながいたから弓道を続けようと思えた。こんな僕と一緒に弓道を続けてくれて、本当にありがとう」
僕は二人に向かって頭を下げた。
今日の試合は本当に楽しかった。
勝つことに執着したり、チームの為に諦めない射ができたり。
まるで昔から一緒に弓道をしているような錯覚に陥った。
それくらい、今の立は素晴らしかったと思う。
「一!」
頭を上げ、声が聞こえてきた方に視線を移す。そこには橘の姿があった。
「橘……」
「最高の試合だったな」
「うん」
僕は橘に左手を差し出す。それに応えるように、橘も左手で僕の手を握った。
「俺は言ったよな。一なら、早気を克服できるって」
「うん」
「やっと戻ってきてくれた。俺の知ってる一が」
「……うん……」
橘の一言に、溜まっていたものが一気に溢れた。立の時に必死にこらえたものが、今になって僕の頬を伝う。
「一のチーム、いいチームじゃん。本気でぶつかってきてくれて、嬉しかった」
橘の言葉に、僕はひたすら頷くことしかできなかった。
目の前の親友と呼べるライバルに、僕自身が背負った問題を背負わせてしまった。橘に対して、本当に頭が上がらない。
今日の試合で僕はまた歩み出すことができた。
橘とは大きな差がついてしまったと思う。
でも、ここから始めればいい。
僕達にはたくさんの時間が残されているのだから。
――明日は絶対に見に来てね。来なかったらぶっ飛ばすからな。
目が覚める。
「ははは」
笑いが止まらなかった。上体を起こして、枕元にある時計に手を伸ばす。
「六時か……」
大きく伸びをする。
少しだけ身体がだるい。いつもより早く目を覚ましたせいかもしれない。
ベッドから抜け出し、カーテンを開ける。差し込む日差しが僕を照らし、そして棚に飾ってあるトロフィーにも光が注がれる。僕は棚の方に歩み寄った。目の前には、昨日新たに加わった、僕のリスタートを意味する賞状が飾ってある。
僕達は関東大会予選会で三位入賞をすることができた。
土曜日の予選で、橘率いる王者岩月といい試合ができた僕達は、二回目の十二射も十中という成績を残し、余裕を持って十六強に加わることができた。そして日曜日の試合。僕達は精一杯食らいついた。
しかし試合慣れしていない僕達とは違い、岩月や東武農業第三といった強豪校は、安定して的中数を伸ばしていった。
結局、優勝したのは岩月Aチームだった。
累計四十八射して四十四中といった予選会の新記録をたたき出すほど、素晴らしいパフォーマンスをみせた。僕達、草越Aチームは東武農業第三Aチームの四十中に次ぐ三十九中だった。上位四チームが関東大会本選に進めるこの大会で僕達が進めたのは、運があったからなのかもしれない。例年以上に他チームの的中数が低かったこともあり、それがチームに精神的余裕をもたらした。結果だけ見ると、四位のチームは三十中と僕達とは大差がついていた。
予選会三位の賞状の隣に視線を移す。そこには朝日を浴びた盾が飾ってある。
今回の大会で僕が得た大切な勲章。
久しぶりの大会で、僕は技能優秀賞に選ばれた。
技能優秀賞。
射技や的中、体配において優れた選手が受賞する賞。僕はこの大会で多くの評価をもらうことができた。
「中学生の頃、全国二連覇した時の射が戻ってきた」
「会が戻ったおかげで、本来の射を取り戻せている。久しぶりに楽しい射を見れた」
「高校生とは思えない射技。文句のつけようがない」
「予選の一射目で美しい涙を見せてくれた。そこからの射は圧巻だった」
涙を見られていたことは恥ずかしかったけど、僕はそれだけ価値のある試合をできた。それに、僕達男子弓道部にとって関東大会出場はとても嬉しいことだった。
翔兄ちゃんをはじめ多くの先輩方が築き上げてきた、男子弓道部のイメージに泥を塗る出来事を払拭できる結果を残せた。
これは今後の弓道部にとって大きな財産になる。三連覇を成し遂げた時みたいに、多くの生徒達が入部してくれるかもしれない。
これから始まるインハイや関東大会に向け、大きな力となる戦力が加わるのも、時間の問題かもしれない。
ピンポーン。
インターホンが鳴り響いた。僕は玄関に向かい、ドアを開ける。
「おっす」
「おはよ」
「中、入るね」
「うん」
目の前に現れた凛は、既に制服に着替えていた。
「疲れてない?」
「うん。大丈夫」
「そう。あっ、今日は朝ごはん作りに来たんだ」
そう言って微笑むと、凛は調理の準備を始めた。
教えてもいないのに、フライパンの位置や冷蔵庫の中身を覚えている。
「関東大会出場、おめでとう」
「おめでとうって、一達も出場決めたでしょ。お互いおめでとうだよ」
「そうだね」
僕の心の中に、凛はいつも割り込むようにして入ってくる。
小さい頃から、凛と一緒にいることが当たり前だった。でも、その当たり前は僕に大切なことを忘れさせていた。
「でも、私はAチームとして出場できなかった。先輩達のおかげで関東大会の本選に行けるんだよね」
男子とは別日に行われた女子弓道部予選会。女子弓道部は予選会を二位で通過した。僕と同じく、チームの落を務めた雨宮先輩が皆中を連発してチームを勝利に導いた。
「先輩、本当にすごかった」
「うん。楓先輩がいなかったら、関東大会に行けなかったかもしれない。先輩にはみんな、本当に感謝していると思う」
予選会を突破した後、チームメイトに囲まれていた先輩は泣いていた。先輩が求めていた理想のチームが、この予選会で実現できたんだと思う。
もう先輩は大丈夫。
そう思うことができるくらい、微笑ましい光景だった。
「でも、凛はまだ諦めてないんでしょ?」
「当然。私はインハイ予選までに、絶対にAチームに入るんだから」
凛は笑顔をみせると、出来上がった料理を僕の前に運んできた。
「はい。今日はオムレツ作ったから」
目の前に出されたオムレツは、綺麗な黄色だった。口に含むと、暖かな陽だまりに包まれているような感覚に陥る。
「美味しい……」
「当然でしょ。私が作ったんだから」
凛は笑顔で応えると、自分の分を作るために台所に向かった。
瞬間、僕の脳裏にとある記憶が蘇る。
あっ、まただ。
凛の背中を見ていると、昔を思い出す。
今食べたオムレツの温かさが、その思いを何倍にも膨らませる。昔、僕にオムレツを作ってくれた母さんの記憶。
「あのさ」
「ん? 何よ。おかわりはないからね」
凛は微笑んでいる。
こんなにも暖かい笑顔をする人の近くにいることができる。
そんな凛に僕は伝えたかった一言を言った。
「これからもよろしく」
下を向きながら、凛に伝える。
少しだけ勇気を出した、今の僕なりの発言だ。
「何言ってるの? 当然でしょ。これから関東大会やインハイと大きな大会に挑むんだから。一は私が行けなかった時の保険なんだよ。わかってるよね!」
凛はくるりと僕の方に身体を向けると、満面の笑みを見せてきた。
僕はこのときに確信した。
これからもこの笑顔の隣で、大好きな弓道を続けることを。
大切な仲間や支えてくれる多くの人に、自分の射を届けることを。
それこそが、僕が弓道を続ける理由なのだから。