崖の上まで上り切ると、猫彦は、おおーと感動の声を漏らした。周辺の山々を一望することができたのだ。
空は夕焼けで、赤や紫や橙の懐かしい色が雲と溶け合い、飴のように見えるなと思っていると、周囲に砂糖を溶かしたような甘い匂いが漂っていることに気付いた。
「なんか甘い匂いがする」
「たしかにしますね」と正太郎。
「これがおしるこ温泉の匂いです」
運転手が少し離れたところにある竹垣を指した。竹垣に囲われた中から、もうもうと湯気が上がっていた。
宿は明治時代に建てられた古い旅館で、夫婦と息子一人によって営まれていた。
先の一行を案内してくれた運転手が、七代目になる予定の息子で、名前を犬丸といった。旅館内の木製の柱や床は年季が入って黒光りしており、これはおしるこ温泉の蒸気が長年に渡って染み付いたものではないか、と猫彦は思い、心なしかべたついていると感じた。
宿泊客はこの一行以外におらず、主人はどの部屋も自由に使ってよいと言った。すべて和室で、道明寺と桃山、猫彦と正太郎、春菜の三組に分かれることになった。
それぞれ部屋に手荷物を置くと、食事の準備が整いましたと犬丸が来たので、休む間もなく、全員慌ただしく宴会場のような広間に集まった。
お膳には鮎の甘露煮、だし巻き卵、胡麻豆腐、黒豆。料理はどれも美味いが、例外なく甘かった。春菜が料理について犬丸に尋ねると、おしるこ温泉から精製した砂糖を、すべての料理に使っているということだった。
猫彦はうまいうまいと食べていたが、食後に出された羊羹はさすがに甘すぎて半分残した。濃厚でねっとりした甘口の日本酒を二合飲んでしばらくすると、一日の移動の疲れが体から溶け出して、猫彦の意識は水飴のようにとろんとして、いつの間にかその場で眠ってしまった。
満月の夜。
猫彦は神社の境内を歩いていた。
足下でざくざくと音を立てているのが、どうも砂利の感触とは違うなと思い、よく見ると氷砂糖だった。氷砂糖は月明かりで水晶のように輝いている。
猫彦は真っ白な狛犬を見つけた。
駆け寄って手で触ると石ではないようだった。もしやと思い舌を出して狛犬の足を舐めると、狛犬は飴細工だった。こんなに甘いものばかりだと虫歯になってしまうと思い、口を濯ごうと手水舎に向かった。
柄杓を取って水を汲み口につけると甘い蜜で喉が焼けるようだ。猫彦はむせ返り思わず柄杓を放り投げた。
この世の物が残らず甘いものに変わってしまったのではないか。
不安で居ても立ってもいられない気持ちになってきた。いよいよ鼓動が高まってくると忙しなく境内を走り回り、挙句滑って転んで氷砂糖が口に入って、悲鳴を上げそうになった。
そうだ、と跳ね起きて、参拝することにした。神に祈ればこの異常な状況が消滅すると信じたからである。猫彦は拝殿に続く参道を全力で走り出した。
走っている間、暗闇が重たい餡子のように肩にのしかかってくるのを感じて、体が少しずつ金縛りのようになってきた。拝殿の前まで来たとき、足がもつれてつまずき、猫彦は一回転して背中から大きな塊に激突した。
大きな塊は賽銭箱だった。
ひっくり返る賽銭箱から、大小の赤青黄、色とりどりのコンペイトウが何百も鮮やかに飛び出してきらきらと夜空に舞った。
仰向けに倒れた猫彦が、唸って目を開けると、ふいに道明寺と桃山の大きな顔が目に飛び込んできた。混乱の極致に達した猫彦は、ついに叫び声を上げた。
「うわっ! 賽銭泥棒!」
猫彦は酒を飲んで、そのまま広間で小一時間ほど眠って、甘い悪夢にうなされていたのだった。
賽銭泥棒と言われた道明寺と桃山はぎょっとして、顔を見合わせてものすごい形相のまま固まってしまった。猫彦の絶叫で広間の時間が凍ったようになったが、あははははははと春菜の笑い声が響くと、「猫彦さん何言ってるんですか」と正太郎が続いて笑い転げ、再び和やかな空気になった。
春菜と正太郎は、道明寺と桃山が賽銭泥棒であることを知らない。猫彦が単に寝ぼけて「賽銭泥棒」という寝言を絶叫したものだと思って、腹を抱えて笑っているのだった。
猫彦は夢と現実が混ざり合い、何が何だか分からない錯乱状態だったが、冷静さを取り戻すのと引換に、自分は取り返しのつかないことを口走ってしまったことに気付いた。
猫彦はかつて目撃した賽銭泥棒が道明寺と桃山であると確信してはいなかったが、もしそうなら、自分がその犯行の目撃者であることを明かしてしまったことになる。
なんてことを叫んでしまったんだと激しく後悔した。
道明寺は、春菜と正太郎が大笑いする姿を見て、
「猫彦君何言ってるんだよ、だれが賽銭泥棒だって?」
と笑った。しらを切ると決めたようである。桃山も調子を合わせて、
「賽銭泥棒とは失礼しちゃうな」
と引きつった笑顔を浮かべた。
猫彦は仰向けのまま、
「失礼しました。何でこんなこと言っちゃったんだろう」
と言って頭を掻いた。そして、どうか道明寺と桃山が賽銭泥棒とは関係ありませんようにと思った。
空は夕焼けで、赤や紫や橙の懐かしい色が雲と溶け合い、飴のように見えるなと思っていると、周囲に砂糖を溶かしたような甘い匂いが漂っていることに気付いた。
「なんか甘い匂いがする」
「たしかにしますね」と正太郎。
「これがおしるこ温泉の匂いです」
運転手が少し離れたところにある竹垣を指した。竹垣に囲われた中から、もうもうと湯気が上がっていた。
宿は明治時代に建てられた古い旅館で、夫婦と息子一人によって営まれていた。
先の一行を案内してくれた運転手が、七代目になる予定の息子で、名前を犬丸といった。旅館内の木製の柱や床は年季が入って黒光りしており、これはおしるこ温泉の蒸気が長年に渡って染み付いたものではないか、と猫彦は思い、心なしかべたついていると感じた。
宿泊客はこの一行以外におらず、主人はどの部屋も自由に使ってよいと言った。すべて和室で、道明寺と桃山、猫彦と正太郎、春菜の三組に分かれることになった。
それぞれ部屋に手荷物を置くと、食事の準備が整いましたと犬丸が来たので、休む間もなく、全員慌ただしく宴会場のような広間に集まった。
お膳には鮎の甘露煮、だし巻き卵、胡麻豆腐、黒豆。料理はどれも美味いが、例外なく甘かった。春菜が料理について犬丸に尋ねると、おしるこ温泉から精製した砂糖を、すべての料理に使っているということだった。
猫彦はうまいうまいと食べていたが、食後に出された羊羹はさすがに甘すぎて半分残した。濃厚でねっとりした甘口の日本酒を二合飲んでしばらくすると、一日の移動の疲れが体から溶け出して、猫彦の意識は水飴のようにとろんとして、いつの間にかその場で眠ってしまった。
満月の夜。
猫彦は神社の境内を歩いていた。
足下でざくざくと音を立てているのが、どうも砂利の感触とは違うなと思い、よく見ると氷砂糖だった。氷砂糖は月明かりで水晶のように輝いている。
猫彦は真っ白な狛犬を見つけた。
駆け寄って手で触ると石ではないようだった。もしやと思い舌を出して狛犬の足を舐めると、狛犬は飴細工だった。こんなに甘いものばかりだと虫歯になってしまうと思い、口を濯ごうと手水舎に向かった。
柄杓を取って水を汲み口につけると甘い蜜で喉が焼けるようだ。猫彦はむせ返り思わず柄杓を放り投げた。
この世の物が残らず甘いものに変わってしまったのではないか。
不安で居ても立ってもいられない気持ちになってきた。いよいよ鼓動が高まってくると忙しなく境内を走り回り、挙句滑って転んで氷砂糖が口に入って、悲鳴を上げそうになった。
そうだ、と跳ね起きて、参拝することにした。神に祈ればこの異常な状況が消滅すると信じたからである。猫彦は拝殿に続く参道を全力で走り出した。
走っている間、暗闇が重たい餡子のように肩にのしかかってくるのを感じて、体が少しずつ金縛りのようになってきた。拝殿の前まで来たとき、足がもつれてつまずき、猫彦は一回転して背中から大きな塊に激突した。
大きな塊は賽銭箱だった。
ひっくり返る賽銭箱から、大小の赤青黄、色とりどりのコンペイトウが何百も鮮やかに飛び出してきらきらと夜空に舞った。
仰向けに倒れた猫彦が、唸って目を開けると、ふいに道明寺と桃山の大きな顔が目に飛び込んできた。混乱の極致に達した猫彦は、ついに叫び声を上げた。
「うわっ! 賽銭泥棒!」
猫彦は酒を飲んで、そのまま広間で小一時間ほど眠って、甘い悪夢にうなされていたのだった。
賽銭泥棒と言われた道明寺と桃山はぎょっとして、顔を見合わせてものすごい形相のまま固まってしまった。猫彦の絶叫で広間の時間が凍ったようになったが、あははははははと春菜の笑い声が響くと、「猫彦さん何言ってるんですか」と正太郎が続いて笑い転げ、再び和やかな空気になった。
春菜と正太郎は、道明寺と桃山が賽銭泥棒であることを知らない。猫彦が単に寝ぼけて「賽銭泥棒」という寝言を絶叫したものだと思って、腹を抱えて笑っているのだった。
猫彦は夢と現実が混ざり合い、何が何だか分からない錯乱状態だったが、冷静さを取り戻すのと引換に、自分は取り返しのつかないことを口走ってしまったことに気付いた。
猫彦はかつて目撃した賽銭泥棒が道明寺と桃山であると確信してはいなかったが、もしそうなら、自分がその犯行の目撃者であることを明かしてしまったことになる。
なんてことを叫んでしまったんだと激しく後悔した。
道明寺は、春菜と正太郎が大笑いする姿を見て、
「猫彦君何言ってるんだよ、だれが賽銭泥棒だって?」
と笑った。しらを切ると決めたようである。桃山も調子を合わせて、
「賽銭泥棒とは失礼しちゃうな」
と引きつった笑顔を浮かべた。
猫彦は仰向けのまま、
「失礼しました。何でこんなこと言っちゃったんだろう」
と言って頭を掻いた。そして、どうか道明寺と桃山が賽銭泥棒とは関係ありませんようにと思った。