タウンロープの発行開始から一月ほど経つと、苦情の嵐は峠を越して、職場に落ち着きが戻ってきた。大赤字で会社は潰れると思われたが、なんとか持ち堪えていた。
もちろんこれは道明寺と桃山が賽銭を盗んで資金繰りをして凌いだ結果だが、春菜や正太郎はこの犯行のことは一切知らず、倒産しなかったことを素直に喜んでいた。
しかし、猫彦は複雑な気持ちだった。道明寺と桃山が賽銭泥棒かもしれないという疑念を、未だ抱いていたからである。そして、その疑念は日を追うごとに猫彦の中で育っていった。
そんなある日。道明寺が社員を一室に集めて朝礼をした。
「社員旅行をしようと思う」
ドヤ顔をして道明寺は社員たちを見渡した。桃山は事前に社員旅行のことを知っていたようで、黙ってうんうんと頷いている。驚いたのは猫彦と春菜である。これまで八年間勤めていたが、社員旅行など一度もなかったからである。
猫彦は様々なことが頭の中をごそごそ動き回ってしまい、はぁ、と情けない声を漏らして春菜を見た。春菜は「へええ、素敵じゃないですか」と言って目を輝かせた。正太郎も嬉しそうである。猫彦は春菜と正太郎がまんざらでもない様子を見て、それならまあいいかと思った。
異論がないことを確認した道明寺は、旅行の計画を説明し始めた。
「目的地は群馬県のおしるこ温泉。交通手段は電車とタクシー。一泊二日の旅になる」
「おしるこ温泉?」
春菜が素っ頓狂な声を上げた。
「そう、おしるこ」と道明寺が平然と言う。
「あの、小豆とか砂糖を混ぜて作るおしるこですか?」正太郎が質問したので、猫彦は思わず吹き出してしまった。そんな温泉があるはずがない。名前が「おしるこ」なだけで、普通の温泉に決まっているじゃないか。
ところが、道明寺は真面目な顔をして「そう、あの甘いおしるこが湧いてるんだ、日本で唯一」と言ったものだから、猫彦は面食らった。そんな馬鹿な。
「へえええ、不気味ですけど、おもしろそうですね」
と興味津々の春菜。それに加え、旅行の費用はすべて会社が持つということなので、春菜と正太郎のテンションが一気に上がった。桃山は腕組みをして、うんうんと頷いている。
一体どういう風の吹き回しだ。盗んだ賽銭で旅行をするのだろうか。ひたすら心配になった。全員の都合のよい日から旅行の日が決まり、朝礼は終わった。
ゴールデンウィークの初日、社員旅行の一行は朝の東京駅に集合した。ここから新幹線で高崎まで行き、さらにローカル線を乗り継いで数時間移動する。
旅の序盤では、皆でおしゃべりなどをしていたが、さすがに列車に何時間も揺られていると飽きてきて、全員ぐったりして口数が減った。
ローカル線になると猫彦たち以外に乗客はおらず、列車は淡々と山の中を突っ切って走った。トンネルを抜けるごとに森は深さを増し、しまいには枝や葉が列車の窓ガラスにガサガサと触れるほどになった。
午後二時、一行は善財という名前の無人駅で降りた。駅は山に囲まれていて、辺りには店も民家もなかった。頼りない細い道路に宿の送迎のワゴン車が停車していた。
中の運転手が一行に気付くと車から出て手を振った。運転手は正太郎と同じくらいの年の男だった。次はあれに乗るぞと道明寺が言って歩き出したので、皆がそれに続いた。
山をぐるぐると回りながら一時間ほど走ると、未舗装の林道に入った。全員が一様にぐわんぐわんと前後左右に同じタイミングで揺れた。しばらくすると、後部座席の真ん中に座った猫彦の左右の肩に、眠った春菜と正太郎が頭を預けてきたので、猫彦は身動きができなくなった。
猫彦の前のシートに座った道明寺と桃山も眠っていた。猫彦は起きているのが自分と運転手だけだと分かると、自分が眠ったらどこか知らないところに連れ去られるような恐ろしい気持ちになって、眠らないようにした。
宿は切り立った崖の上にあった。ワゴン車の運転手は、崖の前でクルマを停めて一行を降ろすと、ここからは階段で上りますと言った。階段は岩を削って段状に拵えたもので、錆びた手すりが岩に打ち付けてあったが、かなり急で危険な感じがする。
「なんであんなとこに宿建てるかな」
と桃山が崖を見上げて愚痴っぽく呟くと、
「たしかに大変ですが見晴らしは最高ですよ。おしるこ温泉も上です」
と運転手が先頭に立って歩き出した。さあもう一息だと道明寺。桃山はやれやれという仕草をしてそれに続く。
春菜が踵の高いブーツを履いていたので、正太郎は大丈夫ですかと腕を組むようにして一緒に階段を上り始めた。猫彦はおかしな夢でも見ているような気持ちになって、しばらく崖の上の宿を茫然と眺めていたが、ふと我に返ると皆を追って一段飛ばしで階段を上っていった。
崖の中腹で足を休めると、大きな黒い鳥がぐるぐると飛んでいるのが見えた。あれは、と猫彦が聞くと、
「この辺りに生息している鳥です。獰猛ですがこちらが手を出さなければ襲ってくることはありません」
と運転手が言った。
もちろんこれは道明寺と桃山が賽銭を盗んで資金繰りをして凌いだ結果だが、春菜や正太郎はこの犯行のことは一切知らず、倒産しなかったことを素直に喜んでいた。
しかし、猫彦は複雑な気持ちだった。道明寺と桃山が賽銭泥棒かもしれないという疑念を、未だ抱いていたからである。そして、その疑念は日を追うごとに猫彦の中で育っていった。
そんなある日。道明寺が社員を一室に集めて朝礼をした。
「社員旅行をしようと思う」
ドヤ顔をして道明寺は社員たちを見渡した。桃山は事前に社員旅行のことを知っていたようで、黙ってうんうんと頷いている。驚いたのは猫彦と春菜である。これまで八年間勤めていたが、社員旅行など一度もなかったからである。
猫彦は様々なことが頭の中をごそごそ動き回ってしまい、はぁ、と情けない声を漏らして春菜を見た。春菜は「へええ、素敵じゃないですか」と言って目を輝かせた。正太郎も嬉しそうである。猫彦は春菜と正太郎がまんざらでもない様子を見て、それならまあいいかと思った。
異論がないことを確認した道明寺は、旅行の計画を説明し始めた。
「目的地は群馬県のおしるこ温泉。交通手段は電車とタクシー。一泊二日の旅になる」
「おしるこ温泉?」
春菜が素っ頓狂な声を上げた。
「そう、おしるこ」と道明寺が平然と言う。
「あの、小豆とか砂糖を混ぜて作るおしるこですか?」正太郎が質問したので、猫彦は思わず吹き出してしまった。そんな温泉があるはずがない。名前が「おしるこ」なだけで、普通の温泉に決まっているじゃないか。
ところが、道明寺は真面目な顔をして「そう、あの甘いおしるこが湧いてるんだ、日本で唯一」と言ったものだから、猫彦は面食らった。そんな馬鹿な。
「へえええ、不気味ですけど、おもしろそうですね」
と興味津々の春菜。それに加え、旅行の費用はすべて会社が持つということなので、春菜と正太郎のテンションが一気に上がった。桃山は腕組みをして、うんうんと頷いている。
一体どういう風の吹き回しだ。盗んだ賽銭で旅行をするのだろうか。ひたすら心配になった。全員の都合のよい日から旅行の日が決まり、朝礼は終わった。
ゴールデンウィークの初日、社員旅行の一行は朝の東京駅に集合した。ここから新幹線で高崎まで行き、さらにローカル線を乗り継いで数時間移動する。
旅の序盤では、皆でおしゃべりなどをしていたが、さすがに列車に何時間も揺られていると飽きてきて、全員ぐったりして口数が減った。
ローカル線になると猫彦たち以外に乗客はおらず、列車は淡々と山の中を突っ切って走った。トンネルを抜けるごとに森は深さを増し、しまいには枝や葉が列車の窓ガラスにガサガサと触れるほどになった。
午後二時、一行は善財という名前の無人駅で降りた。駅は山に囲まれていて、辺りには店も民家もなかった。頼りない細い道路に宿の送迎のワゴン車が停車していた。
中の運転手が一行に気付くと車から出て手を振った。運転手は正太郎と同じくらいの年の男だった。次はあれに乗るぞと道明寺が言って歩き出したので、皆がそれに続いた。
山をぐるぐると回りながら一時間ほど走ると、未舗装の林道に入った。全員が一様にぐわんぐわんと前後左右に同じタイミングで揺れた。しばらくすると、後部座席の真ん中に座った猫彦の左右の肩に、眠った春菜と正太郎が頭を預けてきたので、猫彦は身動きができなくなった。
猫彦の前のシートに座った道明寺と桃山も眠っていた。猫彦は起きているのが自分と運転手だけだと分かると、自分が眠ったらどこか知らないところに連れ去られるような恐ろしい気持ちになって、眠らないようにした。
宿は切り立った崖の上にあった。ワゴン車の運転手は、崖の前でクルマを停めて一行を降ろすと、ここからは階段で上りますと言った。階段は岩を削って段状に拵えたもので、錆びた手すりが岩に打ち付けてあったが、かなり急で危険な感じがする。
「なんであんなとこに宿建てるかな」
と桃山が崖を見上げて愚痴っぽく呟くと、
「たしかに大変ですが見晴らしは最高ですよ。おしるこ温泉も上です」
と運転手が先頭に立って歩き出した。さあもう一息だと道明寺。桃山はやれやれという仕草をしてそれに続く。
春菜が踵の高いブーツを履いていたので、正太郎は大丈夫ですかと腕を組むようにして一緒に階段を上り始めた。猫彦はおかしな夢でも見ているような気持ちになって、しばらく崖の上の宿を茫然と眺めていたが、ふと我に返ると皆を追って一段飛ばしで階段を上っていった。
崖の中腹で足を休めると、大きな黒い鳥がぐるぐると飛んでいるのが見えた。あれは、と猫彦が聞くと、
「この辺りに生息している鳥です。獰猛ですがこちらが手を出さなければ襲ってくることはありません」
と運転手が言った。