「──あれ、原田じゃない?」
こんなところで名前を呼ばれるとは思わなくて思わず振り向いてしまった。目の端では到底生身の人間とは思えない原色の髪の毛や、奇抜な衣装のフリルが揺れる。
そう、ここは人間社会とはまた違う次元の世界。アニメを愛し、アニメから愛された者が思う存分に愛を表現できる場所。日常や偏見、常識から解放される世界。そこで本名を呼ばれるなんて、誰が想像出来ただろうか。
サリーのコスプレをしたあのモデルが、短いスカートを揺らしながら笑っていた。
年に一度の国内最大級のアニメイベント。アニメ好きならば誰もが絶対に死守したいツーデイズ。数多くのアニメのブースが立ち並び、コスプレイヤーが集結。数々の撮影ブース、ステージでは声優によるライブなどが繰り広げられ限定グッズなども多く販売される、十五万人以上を動員するビッグイベントだ。毎年ひとりで来ているが、声をかけられたのは初めてのことだった。
「……なんだその恰好は」
「なんだ、って! サリーだよ、かわいくない!? 似合うでしょ? 再現度高いってもうさっきから写真撮影ばっかり頼まれちゃって大変!」
「サリーはそんなに下品じゃない」
「ちょっと! なんですって! パワプルパーンチ!!」
「全然サリーじゃないんだが」
よりにもよって、このモデルに会うなんて。しかもお前がサリ─とは無理がある。サリ─はもっとかわいらしくて、もう少しばかっぽくてだな……。そう考え、ある人の姿が浮かんだ俺は顔をしかめた。
「もしかして美香ちゃん? キャ─かわいい! 写真撮っていいですか!」
わらわらと目の肥えていない人々が彼女を見つけ駆け寄ってくる。彼女は俺を睨んでからチッと舌打ちすると、くるりと振り返って完璧なポ─ジングをしてみせた。完璧だった。──ポ─ジングだけは。パシャパシャとフラッシュが焚かれ、モデルはここぞとばかりに様々なポ─ジングを取っていく。となれば、続々とカメラ小僧たちが集まってくるのは当然のことだった。
注目されるのは好きじゃないし、大体このモデルのお遊びには付き合いきれない。何よりも面倒事に巻き込まれるのはごめんだ。まだ見ていないブ─スもある。背を向けて人ごみの中に消えようとすると、彼女は走って追いかけてきた。しかも大声で、はらだぁ─! なんて言うから嫌でも注目されてしまう。
やめてくれ、有名人がこっちに来るな。
人ごみというものは時に姿をうまく隠してくれる強い味方であり、時としては行く手を阻む敵となることもある。どうやら今日は後者のようだ。モデルはむんずと俺の左腕を強く掴んだ。
「せっかく会ったんだからさ、ちょっと付き合いなさいよ」
「やだ。なんで俺が偽サリーと回らないといけないんだ」
「いいじゃない。受験も無事に終わったんだし、卒業式が終われば会うことも少なくなるだろうし。あ、のんも誘う?」
“のん”──。その名前が出て思わず足が止まってしまう。そんな俺を見るとモデルはニッと口の端を上げた。
「着替えてくるから待ってなさいよ。逃げたりしたら承知しないからね?」