◇
「美香ちゃん……」
鞄を持ったまま自分のクラスの前を通過して、わたしは隣の教室へと向かった。
「美香ちゃん!」
声を張り上げてみても、彼女はクラスの女の子たちとお弁当を広げ談笑している。聞こえていないわけではない。だって、他の子たちはわたしのことを見ているのだから。
美香ちゃん来てるよ、とそのうちの一人がそう言えば、そこで初めて気づいたかのように彼女がこちらを見た。顔にはいつもの天使の笑みが浮かんでいる。
「美香ちゃん、ちょっといい?」
思わず声が震えてしまい、わたしは慌てて咳払いをする。美香ちゃんの完璧で綺麗な笑顔。だけど今のわたしはもう知っている。この笑顔の下には、彼女のいろいろな思いが隠されているということを。
美香ちゃんはフォ─クを置いて立ち上がると、こちらに向かって歩いてきた。どくんどくんと心臓の音が鼓膜を支配する。いつもと変わらない美香ちゃん。かわいくて、綺麗で、天使みたいで、今朝のことなんて夢だったんじゃないかと思ってしまうほど。
「なに? わたしとアンタ、話すことなんてある?」
だけどやっぱりそれは、夢ではなかった。にこにこしたままでわたしにだけ聞こえる声で、美香ちゃんはそう言った。
「……ある」
怖い。綺麗に微笑むこの子がとても怖い。それでも、嫌いだとはどうしても思えなかった。
彼女はそんなわたしをつまらなそうに見るとスッと横をすり抜けた。甘くて柔らかいバニラの香り。かわいい女の子を代表するような、そんな香り。確かこれは彼女がプロデュ─スしたコロンだった気がする。微動だにしないわたしを振り返ると、彼女はクイッと顎でついてくるようにと合図した。
廊下を抜けた彼女は、するすると階段を滑るように上がっていく。背筋がのびて、すらりとしていて、手足が長くて細くて。誰もが振り向いてしまうキラキラとしたオ─ラ。だけどその中には、色々なものを抱え、見えないように押し込めている。
そんな美香ちゃんが入ったのは、奇しくもあの視聴覚室だった。
「で? 文句を言いに来た?」
くるりと振り返ると、美香ちゃんはそう言った。相変わらず顔は笑ったままだ。わたしはううん、とやっとのことで首を横に振る。気を抜くと膝まで震えてしまいそうだ。
「美香ちゃん、どうしてあんな……」
「分からない?」
「分からない……」
「そういうところ。自覚のないところも嫌」
「わたし、何をしちゃったの?」
「そうやってまず、悪いことをした自覚もないくせに自分に非がある言い方をするところ」
「ごめん……」
「そうやって何も分かっていないくせに謝るところ。いい人ぶるところ。自由に言いたいことを言うところ。ドクモなのにお菓子を食べたりアニメが好きって公言したりと意識が低いところ。ずっとずっと、のんのそういうところが嫌だった」
そうやって言葉をつなげる美香ちゃんの顔からは、笑顔はすっかり消えていた。
「のんなんか、大っ嫌い」
そう言った瞬間、彼女の瞳から大きな涙が零れ落ちた。あ─やっと言えた! と彼女は自嘲気味に笑いながら目元を指先で拭う。これは安堵の涙だわ、と。
「わたしだって、美香ちゃんなんか」
大嫌い──。
そう言うことなんか簡単だった。だけど言えなかった。自覚がないわたしだけど、すぐに謝るわたしだけど、いい人でいたいと願うわたしだけど、自由にすきなことをしているわたしだけど、意識の低いドクモのわたしだけど──。それでもわたしはやっぱりわたしで、そんなわたしは美香ちゃんを嫌いになんかなれないのだ。
「大嫌いになれないよ……」
ぼろりとわたしの瞳からも涙が零れる。
「そういうとこ! そういうとこも大嫌い!」
美香ちゃんは目を見開きながら大きな声でわたしに言う。慣れ、なんて存在しない。何度言われたって、傷つく言葉は胸に刺さる。だけど仕方ないじゃないか。大嫌いと言われたからって同じように嫌いになれるわけではない。他人は他人であって、自分ではない。人間関係は鏡みたいなものだと聞いたことがあるけれど、いつもそうだとは限らない。人間って、そう単純には出来ていないのだ。
「わたしは美香ちゃんが好きだよ!」
半ば叫ぶようにそう言えば彼女は顔をくしゃりと歪め、さらに怒りをあらわにした。こんな美香ちゃんの顔を見るのは初めてだった。天使なんて呼べない。かわいさや美しさの面影だってどこにもない。般若のような怖い顔。だけどそこにわたしは、初めて本当の彼女の一面を見た気がした。
「美香ちゃんがわたしを嫌いでも、わたしは美香ちゃんが好きなんだよ」
こんなこと、ありえないって思ってた。どうして自分を嫌いな相手に好意を持つことが出来るだろうか。悪く言われたら傷つくし腹が立つ。言った本人のことを嫌いになるはずだ。嫌なことをされたらどうしてそんなことをするのかと悩み、もう二度と関わりたくないと思うはずだ。好きだと思った相手。いい人だと思った相手。楽しい時間を過ごした相手。どんなに楽しかった時間や記憶も、ほんの少しの嫌悪の闇に簡単に飲み込まれてしまうのが世の常だ。
それなのにどうしてわたしの中の彼女と過ごした時間は、こんなにも優しいままなのだろうか。