「到着」
なんだかんだで一駅分くらいは歩いたのではないだろうか。原田くんが連れてきてくれたのは高台にある見晴らしの良い公園だった。街が一望できるその場所には木製のベンチがひとつあって、その脇では大きなクヌギの木が揺れている。
「すごい……」
原田くんはベンチの上で鞄を開くと、ガサガサと何かを探している。「これでいいか」などとぶつぶつ言う彼は、ノ─トを広げてベンチに置くとそこに手を添えた。切り過ぎた彼の丸い爪先は、ほんのりとピンク色に染まっている。
「アニメだとハンカチだけど、あいにく今日のハンカチは小さすぎて、まあその、ウン」
スカートが汚れないようにという気遣いだろうか。その様子をじっと見ていたら、アニメと現実は違うのか? 俺、間違えたか? なんてすこし慌てていて、こんな状況なのに思わず笑ってしまった。
「ううん、ありがとう」
彼のノートの上にそっと腰を下ろしたわたしを見て、原田くんは小さく息を吐き出した。
そのままわたしたちは何も言わずに過ごした。さわさわとクヌギが風で揺れて、それからわたしの後れ毛と、彼の後頭部の髪の毛を揺らす。目の前には学校や家、会社にス─パ─などがまるでミニチュアの世界のように敷き詰められている。みんなあそこで生きている。今この瞬間、あの中で仕事をしたり勉強したり、笑ったり泣いたりしているんだ。あの窓の中ひとつひとつに物語がある。その中にいるひとりひとりに人生がある。
──美香ちゃんは今、どんな気持ちでいるのだろう。
「何をしちゃったのかなぁ……」
原田くんに向かって言ったわけではなかった。ただこの青い空に、眼下に広がるこの世界に、自分自身に問いかけた。
「何もしてない。花室さんは、花室さんの毎日を生きていただけだ」
原田くんは静かに答えた。その横顔は、どこか遠くを見つめている。
「だけどさ、誰かが自分らしく生きていることは、別の誰かにとっては光が強すぎて影を作ることもある。誰かにとっての普通は、他の誰かにとっての不快になることもある」
そう言うと、彼は眉を下げて笑った。
「だから俺は、花室さんのことが大嫌いだった」
ぎゅうっと絞めつけられるような痛みが胸を走る。あの時原田くんに言われた言葉は、今でもわたしの心に深く深く残っている。
「──だけど、嫌いと好きは、背中合わせにあると
も思うんだ」
原田くんはそう続けて、好きと言う言葉にちょっと顔を赤くすると誤魔化すように咳払いをした。
「引け目があったり劣等感があると、自分と正反対のところにいる人に牙を剥きたくなるものさ。だけどそれはいつもじゃない。勧善懲悪なアニメの世界では正義と悪が入れ替わることはないけれど、生身の人間はそう簡単にはいかない。白か黒かと聞かれても、そのどちらでもないこともある。ある時はいいやつで、ある時は嫌なやつにもなったりしてさ。俺だって、花室さんが大嫌いで苦手だったはずなのに、今ではこれだけ話せるようになった」
原田くんがアニメ以外のことでこれほどに話すのは見たことがなかった。そして、これほどに自然で柔らかな口調で話す原田くんも初めて見る。
「俺だってまた、きみのことを嫌だなあと思う日が来るかもしれない。だけどそれは本気で花室さんを嫌いになるかと言ったらそういうわけではないんだ。多分その時は俺の中の劣等感が卑屈に顔を出している時だったり、きみと思うように意思疎通ができない時だったり、その時々の気分みたいなものさ。つまりそれは、俺の問題だ」
歯痒さが牙を剥く起爆剤になると彼は言う。その言葉は、なんだかとても不思議な色を持っていた。ネットの世界で様々なことを経験してきたホイル大佐としての声、現実の世界で歯痒さを感じたのであろう原田くんとしての声、いつも寄り添ってくれたぴかりんとしての声。
その言葉は、全てまっすぐにわたしの心へと落ちていく。
「人はそれぞれ、求めるものが違うのさ。楽しさを求める人もいれば、癒しを求める人もいる。意見を求める人もいれば、ただ黙って聞いて欲しいだけの人もいる。その需要と供給のバランスがうまくいかなければ、その関係は簡単に崩れてしまう」
不思議なくらいに原田くんの言わんとすることが心の中に流れ込んでくる。わたしは言葉を返していなくて、いわば現在の状況は原田くんがひとり語りをしている状況。それなのに、彼の言葉はわたしの中でひとつの引っ掛かりもなく体へと染み渡っていく。
「どちらかが一方的に悪いってことは、そうそうないと俺は思う。同じことを言われても、笑えるときと腹がたつときがあるだろ? バランス、それからすれ違いと誤解。思い込みと自分の感情のコンディション。そういうのが深く絡み合って、物事はうまくいかなくなる。だからこそ、現実世界は面倒なのさ。だからさ、花室さん。君が全てを背負う必要はないんだよ」
ぱたぱたぱたっと、スカートの襞の上に雫が弾けた。