視聴覚室を出たわたしたちは、誰もいない三階の廊下を階段目指して歩いていた。下の階から聞こえてくる賑やかな声は、たったひとつしか違わないこの場所の静けさを強調しているようだ。同じ校舎の中だというのにここだけ現実とは切り離された世界のようにも感じられ、いつの間にかここはわたしのお気に入りの場所となっていた。

「いつもあそこで食べてたの?」

 鈴木くんはくるりとこちらに体を向けると、自分は後ろ歩きしながら進む。

「えーっと……今日はたまたま、かな?」

 あの場所は、原田くんとわたしの秘密の場所。そんな思いから、答えを濁してしまう自分がいる。

「ふうん。で、いつも一人で食ってた?」
「えっと……まあその、一人のときもあるしって感じかな」

 一人というわけでもないんだけど。相変わらず嘘をつくのが下手だ。原田くんには嫌味で「花室さん女優にもなれるよ」なんて言われるけれど、絶対に無理。今度正式に抗議しなくては。
 鈴木くんはそんな煮えきらないわたしの言葉に、ふうん、と唇を尖らせていたけれどわたしは大して気にもしていなかった。
 それよりも、原田くんは大丈夫だろうか。わたしたちの会話はベランダにいた彼にも聞こえていたはずだ。わたしたちはいつも、窓を開けてお昼を食べていたのだから。彼はどんな風に思っただろうか。あとでメッセージで謝っておこう。一言も断りを入れずにその場を離れてしまったことにチクンと胸の奥が痛む。

「明日からはさ、俺と一緒に食おうよ」
「え?」

 鈴木くんからの思いがけない言葉が飛び出し、わたしはその場で一歩立ち止まる。しかしそれに気付かない彼は、ポケットを両手に入れたまま言葉を続けた。

「俺、のんと一緒に昼飯食いたい」

 鈴木くんはヒーローみたいな人だ。ひとりぼっちになったクラスメイトを放っておけない。そういう正義感を持っている。

「わたしなら平気だよ?」

 心配してくれているのはありがたいが、実際にわたしはひとりきりでお昼を食べているわけではない。教室に居場所がないと感じて中庭でひとりランチをしていた時期はあったものの、それはもう過去の話だ。今のわたしにとって学校での一番の楽しみは、視聴覚室で原田くんと過ごすお昼休みになっている。わたしにとってあの時間は特別な時間なのだ。みんなが知らなくてもいい。原田くんとわたしだけが知っていればいい大事な時間。
 しかし鈴木くんは、ため息をつくとむっとした表情でこちらを見る。いつも笑顔の彼のこういう表情は、ちょっと新鮮かもしれない。

「のんが平気とかそういうんじゃなくて。俺が一緒にいたいんだってば」

 少しだけ怒ったような口調の鈴木くん。だけど本当に怒っているわけではないということは、彼がわたしに合わせてくれる歩幅で分かる。この人は、本当に優しい人だ。わたしがにこにこと笑顔を返すと、彼はさらに眉を寄せて、それから「敵わないよなぁ」とため息を吐き出した。
 そうしているうちに、わたしたちは廊下の端に到着していた。鈴木くんは長い廊下の実に三分の二以上を後ろ歩きで移動してきたというわけである。やっぱり運動神経がいいと違うのかもしれない。体育の成績がいつも3であるわたしとは、体の作りが違うのだろう。
 もうすぐ階段だと言うのに、彼は相変わらずにこちらを向いたままに移動している。視線はずっと、わたしの瞳を捉えたままだ。
 まさかこのまま後ろ歩きで階段も降りるつもりじゃないよね? さすがにそれは危ないと思うんだけど……。そんなことを考えていれば、鈴木くんはゆっくりと口を開いた。

「──なんで、って聞かないの?」

 彼の左足がまたひとつ、後ろに下がる。そこはもう、階段の段差ギリギリだ。

「鈴木くん後ろっ……」

 危ない! とわたしは咄嗟に鈴木くんに手を伸ばした。──と、動きを止めた彼はパシリと伸ばした手を掴む。その反動で、わたしはつんのめるように彼のがっしりとした胸板へと引き寄せられてしまったのだ。その距離、ほんの十五センチ。わたしの目線の先にはちょうど男の子特有の喉仏があって、頬が熱くなったわたしはそっと顔を背けた。男の子とこんなに近い距離で向かい合ったことは一度もない。

「なんで、って聞かないの?」

 その近い距離で鈴木くんはもう一度、今度は優しさと甘さを含めた声で同じ質問をすると、わたしの右手を指を絡ませるように握り直した。どくんと胸が痛いほどに上下する。

 ──待って、おかしい。何が起きているの?

 状況を整理しようと深呼吸をした瞬間、わたしの耳は驚くべき言葉を捉えたのだ。

「のんのことが、好きだからだよ?」

 人気のない三階、美術室前の廊下。
 一気に雨が降り出したのだろう。ボツボツボツと窓に水滴がはじける音が、幾度にも重なり鼓膜を揺らした。