「原田くんって呼んだ方がいい？　ホイル大佐かな。それともぴかりん？」

　やっと自然な笑顔を小さく浮かべる花室さんに、胸の奥にぽつりと明かりが灯る気がした。
　ゲンキンなものだ。こうなってみると花室さんとサリ子は確かに同一人物で、どうして自分は花室さんに嘲笑われていただなんて思い込んでいたのだろうとすら感じてくる。お人好しすぎるほどに人が良い花室さんが、そんなことをするはずもないだろうということは今ならば分かる。しかし、だからといって現実世界でぴかりんと呼ばれるのは抵抗がある。俺だって、男である。

「普通に原田でいいじゃないか」
「ホイル大佐っていう名前も呼びたいんだけど」
「それはあっちだけにしてくれ」
「いいの？」
「なにが」

　そこまで一気にやりとりをして、彼女はぐっと言葉につまる。それから意を決したように顔をあげて慎重に口を開いた。

「……また、ホイル大佐のことをフォローしてもいいの？」

　全てをなかったことになんて出来ないし、何もかもがすっかりと元通りになるなんて不可能だ。俺と彼女の間には大きな変化が起きている。しかしそれは決して、マイナスな変化ばかりではない。

「この状況でダメって言うほど野暮な男ではないさ」

　──うん、今度はうまく言えた。この間読んだ“春はきみの声を読む”に出てきた庄司九一郎みたいに、自然と言えた、よし。

　そんなことを考えながらストロ─に口をつけていれば、目の前の彼女は嬉しそうにスマホを取り出していじっている。何を見ているのだろうかと思っていれば、「あ、本当だ。ブロックされてない……」という小さなつぶやきが聞こえてきて俺はそっと窓の外へと視線をうつした。ズキズキと心臓のあたりが痛い。

「花室さん、別にそういう演技しなくていいから」

　こんなこと言うつもりもなかったのに、どうして俺の口は意地悪な言葉ばかりを発するのだろう。なんだか気恥ずかしくて、それをやりこめるために出た言葉はひどく憎たらしい響きを含む。案の定、花室さんも眉間に皺を寄せて俺を見ているじゃないか。

「前から思ってたんだけどね。演技演技って、わたし女優じゃないんだよ？」
「モデルも女優も似たようなものじゃないの？　よくモデルから女優になる人もいるだろう？　花室さんは演技力があると思うけど」
「もう、嫌味っぽいなあ！　演技じゃないって言ってるのに！」
「はいはい」
「聞いてますかー？　ホイル大佐！」
「やめろって！　その呼び方はネットだけだという約束じゃないか！」

　気付けば俺たちは、じゃれあうように軽口をたたき合っていた。まるで以前に戻ったように、自然に。でも本当は、戻ったわけではなくてこんなふうに花室さんと原田洋平として笑い合い、話したことは初めてだ。それにも関わらず、なぜだか懐かしくて泣きたい気持ちになる。
　どうしてだろうか。たかがネットの世界で今まで話していただけなのに。隣の席では、ほとんど会話らしい会話をしたこともなかったはずなのに。それなのに、この時間をずっと昔から知っていたように感じるのはとても不思議だ。
　結局その後俺たちは、太陽が落ちるまでドーナツを齧ることすら忘れて話し込んだ。学校のこと、先生の話、そして大半はアニメの話。持ちうるすべての知識と情報を彼女に伝えなければという謎の使命感にかられた俺は、相当に長い時間語り続けていたと思う。それでも花室さんは、熱心に頷き、興味を持ってくれた。彼女がアニメに興味を持っているということはどうやら事実のようだ。それがとても嬉しかった。