記憶が抜け落ちる、ということは実際にあるらしい。あのあと、どうやって家に帰ったのか覚えていなかった。
 彼が放った言葉は、“嫌い”ではなくて“大嫌い”。そんな言葉を面と向かって投げつけられたのなんて、十七年間生きてきて初めてのことだ。この数か月で色々なことを経験してきた。色々な人に応援され、支えられ、それと同時に心無い言葉をたくさん受けた。言葉の持つパワーは良くも悪くも強いものだとわたしは学んだはずだった。
 しかし、今日の原田くんの言葉は今までの誹謗中傷などとは比べ物にならないほどにわたしの心を抉った。わたしはずっと、知らなかったのだ。好意を持つ相手から直接向けられる、悪意というものの恐ろしさを。
 その後わたしは熱を出して三日間寝込むことになった。熱が下がった頃には土曜日と日曜日がやって来たため学校にもしばらく行くことが出来ず、部屋にこもって時計の針が進むのをじりじりと眺めて過ごす。最初のうちは頻繁に届いていたクラスメイトからのメッセージも、日に日にその数を減らし週末には一件も届かなくなったし、撮影も一度キャンセルしてしまった。一緒に撮影するはずだった美香ちゃんからは『早く元気になって。待ってるからね』とメッセージが入っていた。
 そんな一週間弱、わたしは眠りにつくたびに夢をみた。同じ夢を、何度も何度も。
 それはいつも巨大な迷路が舞台だ。たったひとり、うろうろと彷徨っているわたしがいる。空は青空とグレーの曇り空、びりびりと電気を含む雷雲が我先にと競い合う。自分の身長よりもずっと高い壁をつたいながら右へ行けば美香ちゃんが現れて、行き止まりだよと眉を下げる。左に行けばクラスメイトたちが大きなパフェを食べながら、ブッブーとわたしに両手でばつを見せる。それならばと直進すれば、無表情の原田くんがじろりとわたしを睨んでこう言うのだ。

「花室さんが、大嫌いだ」

 苦しくなってくるりと背を向け走っていけば、今度はスマホを耳にあてた西山さんがシッシというように手の甲でわたしをはらった。ぐるぐる回る。迷路の中を。ぐるぐる回る。絵の具が混ざった水みたいに、空は変な色になる。
 いつもそこで目が覚めた。熱のせいなのか、ぐっしょりと汗をかいた手のひらを見つめた後、夢だと分かって息を吐き出す。
 スマホを見れば一件も通知は入っておらず、わたしはそれを枕の下へと押し込んでまぶたを閉じる。そんなことを延々と繰り返した。

「平熱……だ」

 ピピッと鳴った体温計に表示された数字を確認して、わたしは小さく息を吐いた。

 すっかり熱も下がった月曜日の朝。こんなに学校を休んだのは久しぶりで、体調の方は元通りだというのに心なしか緊張感が体を包んでいた。
 そういえば小学生のとき、インフルエンザで長い間学校を休んだまま登校拒否になってしまったクラスメイトがいた。あの時はどうしてだろうと不思議に思っていたけれど、今はなんとなく分かる気がする。

「野々花〜、熱ないんなら起きなさ〜い」

 一階からお母さんの声が響き、わたしはえいやと体を起こしたのだった。