喉元で、ゴクリと何かが蠢いた。息を呑むだとか、固唾を呑むだとか、そういうものとは違う何か。それは例えば帰り道、今から一降りするかもしれないと予感させる雨の匂いがした時と、少し似ているとわたしは思った。
「あの……よろしく」
原田洋平。彼は学年一──いや、学校一番のアニメオタクと呼ばれる変わり者だ。身長はわたしより少し低いから、きっと一七〇センチ弱といったところだろうか。真っ黒で艶のある髪の毛はキノコのような形をどんな時でも保たれている。小学生の頃は陶器のような白い肌を持つ美少年だったと誰かが言っていたけれど、そんな面影はない。むしろ原田美少年説は、学校の七不思議のひとつのようなところさえある。
決してアニメオタクが悪いというわけではない。対象が何であれ、夢中になれるものがあるのは素晴らしいことだ。とは言え、話が合う気は全くしないし、わたしだって例外なく原田くんの隣は避けたいところだったが仕方ない。
彼はスマホから顔を上げるとこちらを一瞥し、ファサッときのこ頭を掻き上げた。重みのある前髪は、やはり瞬時に元の場所へと綺麗に収まる。
「チィッス」
次の瞬間には、揃えた人差し指と中指をこめかみ辺りから前へとスチャッと飛ばすのだから、苦笑い以外できることはない。これは多分昨日の夜放映していた昔のアニメ、タイニーハンターの真似なのだろう。どうして本人ではなくわたしが恥ずかしくならなければいけないのか。そんな不満をぶつける場所なんてどこにもなくて、そのままわたしのみぞおちの下へと落ちていった。
原田くんはアニメをこよなく愛しているため一般的にオタクと呼ばれてはいるけれど、世間に広くイメージされているようなタイプとは少し違う。おどおどしていて、女の子とどう接したらよいのか分からないというのがわたしが元々持っていたオタクのイメ─ジ。しかし原田くんは、一挙一動の全てがアニメのキャラクターに影響されているタイプのオタクだ。
具体的に挙げるならば、真顔でキザな台詞も言ってしまうし、走る時にはクラウチングスタート。体育の授業で女子が怪我をすれば率先して駆け寄り、まさかのお姫様抱っこで保健室に連れて行こうとする。もちろん全力で拒否されているけれど、本人は構わないらしい。また、男子が女子のことからかったりしていると、「バーロォ、嫌がってんだろ? やめてやれよ」なんてやたら巻き舌で言うものだから、男子からもウザがられている。
もちろんこれら全て、だいすきなアニメキャラクターの言動に倣ってのものだ。ちなみに本人は、そういった周りの反応は全く気にしていない。ザ・オタクといった暗い雰囲気ではないし、太っているとかそういうわけでもない。それでも終始こんな感じなので、彼の周りに人が集まることはなく、原田くんは常にひとりで行動しているというわけである。
「なんでのんの隣が俺じゃないわけぇ?」
通路を挟んだ隣で大げさに頭を抱えているのは、クラスの人気者の鈴木くんだ。原田くんが非モテ代表だとするならば、鈴木くんはモテ代表男子。そんな鈴木くんに苦笑いを返しながら、わたしは椅子に腰を下ろした。
原田くんとまともに話したことは一度もないけれど、これからは毎日隣の席で生活をしていかなければならない。意外と普通なところもあるかもしれないしね。
「アニメのこととか色々教えてね」
正直に言うとアニメに興味はない。しかし変に避けるのも違う気がして、わたしはそんなことを言ったのだ。しかし、これが間違いだった。
「本当に興味があるのならば教える労力は厭わない。だがしかし、花室さんは本当にアニメに興味があるのか否か。また、どのあたりを履修済みなのかなど基本情報は教えてもらいたい」
原田くんは流暢すぎるほどの口調でそう言うと、クイッと丸眼鏡の中央を人差し指で押し上げた。ちなみにこれが伊達眼鏡だということはレンズが入っていないことから明らかだし、昨日までは眼鏡なんてしていなかった。多分これも、何かしらのアニメの影響なのだろう。
「あっ、あれは見てたよ。フルーティンハンター!」
勢いに圧されつつも頭の中でパッと浮かんだ戦隊モノアニメのタイトルを口にすれば、原田くんは眼鏡をキラリと光らせた──ように見えただけだ。実際にレンズは入っていないのだから。
「やあ、なかなかいい目の付け所をしているではないか。あの話のコアとなる部分は、心の奥底に眠る価値観の部分なのさ」
拳を握って語り出す原田くんの熱量に若干体を引いてしまう。あのキャラクターはこうであそこのあのシーンは誰々がどうで、と知らない名前や単語がぽんぽんと出てくる。しかし何よりもついていけないのは、嬉々とした表情で語る彼のトークスピードだ。
「おっとすまない。きみにはハ─ドルが高すぎたようだ」
呆気にとられているわたしを一瞥した原田くんは、芝居がかった咳払いをしたあとに再びスマホの世界へと戻っていった。穏やかな教室の雑踏がまた耳の中に戻ってくる。
──ああ、やっぱり話は合わなそうだ。大体、コメントがいちいち上から目線なのは何なんだろう。
わたしは小さくため息をついたのだった。