「ねえねえ、美香ちゃんと一緒の時ってある?」

 ぐるりと作られた円の中心にいるわたしに、友人の一人が上目遣いで聞いてくる。美香ちゃんというのは、TEENROSEを始めとする数々の雑誌で活躍するプロのモデルだ。

「あるよ、多分来週一緒だと思う」

 えーっ! と周りの女の子たちがきゃっきゃと跳ねる。そのたびに、ふわふわとプチプラのコロンの香りが転がった。

「美香ちゃんにサイン、頼んでもらいたいんだけど……ダメかな?」

 胸の前で小さく手を組み、キラキラとした瞳でこちらを見る彼女たち。わたしはこういう頼まれごとが、一番苦手だ。あー、と口をあけたまま曖昧に微笑んで時間を稼ぐ。
 脳裏に浮かぶのは、人形のような整った顔とスタイルを持つ、美香ちゃんの姿。睫毛はマッチ棒をいくつも乗せられるほどに長くて自然とカールしており、唇と頬は桃のようにほんのりとピンク色。くるんとした薄茶色の瞳はいつもきらきらと輝いている、ティーンモデル代表とも言える美香ちゃん。彼女もわたしたちと同じ十七歳で有名私立高校に通っている。

「美香ちゃんって神対応なんでしょ? 街で遭遇した人がサインもらったってSNSで言ってたよ」

 そんなことを一人が言えば、周りのみんなはさらに憧れの色を強くした。
 彼女が言う通り、美香ちゃんは本当に優しく、誰に対しても神対応であることは間違いない。プロのモデルさんの中には、ドクモと一緒の撮影は引き受けないという人もいる。しかし美香ちゃんは、そういうタイプではなかった。一緒に撮影するのが、モデルでもドクモでも態度は変わらず、上から目線というようなこともない。
 きっとサインをお願いすれば快く応えてくれるとも思う。実際に、向上心の高いドクモの中には、美香ちゃんへ猛烈アピールをする子も少なくなかった。彼女を通して大型企画に参加出来るかもしれないという下心や、他のドクモを牽制する目的でSNSに投稿されるやたらと近い距離で撮ったツーショットの写真たち。
 美香ちゃんは優しい。その優しさを利用する人たちがいることを、わたしは目の前で見てきた。だからこそドクモという立場を使って美香ちゃんに頼み事をするようなことは正直したくなかった。

「サインね。タイミングがあったら聞いてみるね!」

 こんなお願いだって、今日が初めてのことではない。はっきりと断れば角が立つということは、今までの経験で学んできた。イエスでなければノーでもない。そんな当たり障りのない返事をすれば、うんお願いね! と彼女たちは期待に満ちた瞳でわたしを見つめたのだった。
 さて、こんな会話は原田くんの真横で繰り広げられている。それでもきっと、彼にはなにひとつ聞こえていないだろう。だって原田くんは、周りのことに全く興味がないのだから。もしかしたら、わたしの名前だって知らないかもしれない。そう思ったのは、五時間目の授業を受けているときのことだった。

「サ……いやあのこれ、回ってきたけど」

 離れた席に座る友達からまわってきた小さなメモ。こそこそと原田くんがそれをわたしの机に置いた。

「誰に回せばいいの?」

 ここが経由地であると思ったわたしがそう聞けば、彼はちょっと困ったような顔をする。

「だから回さなくていいんだって。きみ宛だから」

 きみ、だなんて人生で初めて呼ばれた。アニメの世界でしか見たことがない。いや、彼はその世界で生きているんだった。
 そこでわたしは気が付いたのだ。原田くんは、わたしの名前も知らないんだということに。

「花室……」

 わたしの小さな呟きに、え、と彼は教科書から顔を上げてこちらを見た。

「……花室野々花。わたしの名前。知っておいてくれないかな」

 サリ子のことだけじゃなくて、花室野々花のこと“も”知ってほしい。
 ホイル大佐のことだけじゃなくて、原田洋平くんのこと“も”知りたい。
 なんでこんなことを思うのか、自分でも分からない。だけど心より口が先に動いていた。
 彼はじっとわたしを見つめると、小さく息を吐く。何を言われるんだろう。突然おかしなやつだと思われたかもしれない。どきどきと心臓が高鳴る。先生の声もチョ─クの音も聞こえなくて、ただただ自分の心臓の音だけがやたらと大きく聞こえて──。そこに彼の声が重なった。

「花室さん。先生に指されてるけど気付いてる?」

 問七のところだよ、と彼は教科書を指差した。