◇
「原田くんおはよう」
今日も彼は、わたしが教室に着いた時には昨日と同じ姿勢で席についていた。スマホを華麗な指さばきで操っているのもいつも通りだ。
「おはよう」
一度だけ顔を上げてこちらを見てから、彼はそう言う。普段と同じ、朝の光景。しかし少し違うのは、原田くんが眠たそうにふわあとあくびをしたことだ。
「あの、何時に寝たの?」
思わず質問してしまうと、彼は案の定訝しげな顔をした。
「なぜだい?」
「いやあの、なんか眠そうだなあって」
朝の四時まで起きていたの? 絵を描いてくれていたの? わたしのために。──なんて、聞けるはずもない。
「俺だって人間だから、眠いときもあるさ」
原田くんはそっけなく言うと、また彼だけの世界に戻っていってしまった。ほっとするような、さみしいような変な気持ちだ。
小学生の頃に理科の授業でやった実験がふと蘇る。ビーカーにお水を入れて、塩を加えぐるぐると混ぜるアレ。水の中では真っ白な世界がきれいに広がり、水と塩はひとつになったのだと錯覚する。しかししばらくすると、溶けきれなかった塩たちは静かにビーカーの底に沈んでいく。水に受け入れてもらえずに弾かれた水底の塩。いまのわたしは、まさにそんな感じだった。
隣の彼に直接お礼を伝える術を持たないわたしは、膝の上でSNSのページを開いた。あれから何度もお礼のコメントを考えて、だけど言葉がまとまらず、結局まだ何も返せていなかった。いや、本当は直接原田くんにお礼を言いたかっただけかもしれない。その証拠に、今ならばすらすらと言葉が出てくる。
『ホイル大佐さん、ありがとうございます! とってもかわいいサリーちゃん、すごく嬉しい。少し落ち込んでいたのですが元気になりました。このサリーちゃん、アイコンにしても大丈夫ですか?』
送信。顔の向きを変えずに、隣の様子を目だけでちらりと探ってみる。
「お」
原田くんが小さく揺れたのが分かった。そして数十秒後。ぶぶっとわたしのスマホが震える。
『サリ子さんの良いように使ってもらえれば』
思わず口元がにんまりとして、わたしは慌てて深呼吸をした。ホイル大佐が、優しい。自意識過剰かもしれないけれど、この絵はやっぱりわたしを元気づけるために描いてくれたのかもしれない。夜更かしをしてまで。ついつい嬉しくなって隣を見ると、彼の口元は小さく弧を描いている。思わずドキリと心臓が高鳴る。
しかしわたしの視線に気付いた原田くんは、すぐにいつものぶすっとした表情に戻ってしまった。
──ホイル大佐と原田くんは同じ人なのに。
──サリ子と花室野々花は同じ人なのに。
どうしてこんなにわたしたちの関係は違うのだろう。
何も言えないわたしは、手元の鏡で前髪をなおしその気持ちをやり過ごすしかなかった。