何度忘れても、きみの春はここにある。

 ……だけど、次に放たれた先輩の言葉で、そんな気持ちはどこかへ飛んで消えた。
「解いてやるよ。お前の呪いなんか」
「え……?」
「いつか話せよ。そういう呪いは、誰かに話したときに消えてなくなる。……だから、解きたくなったら、話せ」
 ……瀬名先輩は時折、キラキラ、まぶしすぎて困るよ。
 そんな言葉、どうして自信満々に言えるんだろう。まるで魔法使いみたいに、簡単に。
 でも、なぜだろう。
 瀬名先輩が言うと、本当のことのように聞こえてくるんだ。
 このまま話したら、すべての呪いを解いてくれるんじゃないかって。
 胸がきゅうっと苦しくなって、私はなぜか、少しだけ泣きそうになっていた。
 この感情は、なんだろう。
 瀬名先輩を見ていると、泣きたくもないのに涙が出てきそうになる。
 彼の存在が自分とは真逆でまぶしいから? ……分からない。苦しい。
 光のある方向に瀬名先輩がいる気がするなんて言ったら、彼はどんな顔をするだろうか。
 泣きそうな顔で黙っている私を見て不安になったのか、瀬名先輩がピアノの演奏を止めて私の顔を覗き込んだ。
 瀬名先輩の黒い瞳が、臆病な私のことを映し出す。
「……何、どうした?」
「な、なんでもないです……」
「なんでもなくないだろ、その顔。理由を言え」
 しばしの沈黙が続いた。
 しかし、この質問に答えないと、この沈黙は終わらないことを察知した私は、言葉にならない感情をそのまま口にしてしまった。
「せ、瀬名先輩見てると、たまに、苦しくなるんです……まぶしくて」
「なんだそれ」
「ドキドキするのに切なくて……。先輩のこと見てたいけど、見たくない……。もうよく分からないんです、こんな感情……」
 そのまま思っていることを伝えると、瀬名先輩は無表情のまま固まっていた。
 それから、ぐっと私の肩に片手を回して、視聴覚室のときみたいに乱暴に私を抱き寄せた。
 瀬名先輩の唇が耳のすぐそばにあって、吐息が鼓膜を震わせる。
 すべての時間が止まったように思えるほど、私は理由も分からずドキドキしていた。
「……何それ。お前、これ以上俺をどうすんの、本当」
「え……? どうするって……」
「どうすんだよ、責任取れ」
 なぜか、不機嫌そうに文句を言う瀬名先輩。
 私は訳も分からず、瀬名先輩の抱擁を受け入れるほかなかった。
 すごくドキドキしているけれど、村主さんのことが再び頭に過ぎって、私は思わず瀬名先輩から離れた。
 ……そのときだった。
 パシャッという音が教室の外から響いて、私と瀬名先輩はすぐにシャッター音がした方角を向く。
 するとそこには、スマホを持った女生徒と男子生徒と……村主さんがいた。
「岡部、菅原……と村主。お前ら何してんだよ」
 呆れた様子で瀬名先輩は彼らに近づくと、スマホをすぐに取り上げた。
 岡部さんという、この前絡んできたショートボブの先輩が、不服そうに口を尖らせる。
「あー! ちょっと返してよ。ちょうど熱愛シーン激写寸前だったのに」
「ふざけんな、消すぞ。あとなんでここにいるんだよ」
「後つけてたんだよ。最近放課後の付き合い悪いから」
 瀬名先輩は菅原さんと岡部さんのスマホをいじると、写真を削除していた。
 私は、茫然自失としたままどうしようもできなくて、その場に立ち尽くす。
 村主さんと目が合うと、喉の奥がきゅっと締まった。
 ……彼女がとっても、傷ついた顔をしていたから。
 ズキンと胸が傷んで、私は思わず胸を押さえる。
 違うよ、村主さん……今のは。
 今のは……たぶん瀬名先輩の気まぐれで、たいした意味はないよ。
 言葉にしたいけれど、どんな言い方が正しいのかまったく分からない。
 村主さんになんて言われるのかびくびくしながら目を離せずにいると、彼女は何かを言いかけて、でもすぐに口をつぐんだ。
 そして、ぽろっと片目から涙を流したんだ。
 ――それを見た瞬間、信じられないくらい心臓がズキンズキンと音を立てて軋んだ。
 村主さんの涙を見た岡部さんは、彼女の背中をバシバシと叩いて笑った。
「ちょっと菅原、村主泣いてんだけど。マジメンヘラ発動しすぎ」
「え、マジだ。どうした、村主ちゃん。病むの早すぎな」
 ……どうしてだ。どうして、私が彼女たちの言葉に傷ついているの。
 それは、昔私が言われた言葉だから?
 過去と今を重ねて同調しているだけ?
 ファミレスでの、彼女との会話がふとよみがえる。
『好きな人はひとりでいいの。好きでいてくれる人は、多ければ多いほど効果大』
『それってどんな効果が……』
『承認欲求』
 あのとき、村主さんはすごく寂しい目をしていた。
 私はあのとき、ちゃんと伝えたいことがあったんだ。
 誰かに好かれたいと思うことは、当たり前の感情だよ、と。
 それはとっても自然なことで、村主さんだけが欲していることじゃない。誰だってそうだ。自分を好いてくれる味方は多いほうが安心するよ。
 だから、私は普通じゃないなんて、そんなふうに自分を決めつけないで。
 周りにいる人も、村主さんが普通じゃないなんて、勝手に決めつけないで。
 ―――ねぇ、簡単に、そんな呪いをかけないでよ。
 昔の自分と重ねてしまった私は、知らぬ間に言葉を発していた。
「メ、メンヘラとか、そんな言葉で……勝手に人の気持ちをくくらないでください……」
「……は?」
 岡部さんの低い声が瞬時に返ってきて、私は一瞬怯んだ。
 瀬名先輩と村主さんは、目を丸くしてこちらを見ている。
 村主さんを傷つけた張本人の私が、いったい何を言っているんだろう。
 だけど、言葉が止まらなかった。
「そ、そんな言葉、簡単に言わないで。ただ傷ついたり不安になったりしただけなのに、そんな言葉で、笑いに変えないで……」
 声が、唇が、手が震えている。
 でも、見過ごせないよ。
 私はもう、誰かが傷ついたりしている姿を、見たくないんだ。……それだけなんだよ。
「何言ってんのか、全然意味分かんないんだけど。類に気に入られてるからって調子乗ってんなよ」
「まあまあ岡部ちゃん、落ち着いて……」
 岡部さんと菅原さんの会話を完全に無視して、瀬名先輩はスッと村主さんの元へと向かった。
 村主さんは涙を拭きながら、声を荒げる。
「なっ、何言ってんのアイツ。マジ意味わかんない……。瀬名先輩、やっぱアイツ頭おかしいよ。私にしたほうがいいよっ……」
「村主」
 瀬名先輩は、村主さんの顔を覗き込んで、目線を合わせる。真剣な顔で見つめられた村主さんは、話すことを止めた。
 そして、瀬名先輩はゆっくり言葉を発したんだ。
「傷つけたなら、ごめん」
「え……」
「あと、村主の気持ちには答えられない。この先も」
「な、何……それ……っ」
 村主さんは、ぽろぽろと涙を流して、瀬名先輩の胸を叩いた。
 おそらく気持ちに答えることすら面倒くさがっていた瀬名先輩が、はじめて村主さんに真摯に向き合った瞬間だったのだろう。
 彼女は悲しむよりも前に、驚き目を丸くしていた。
 それから、ははっと笑って、制服の袖できれいな涙を拭いながらつぶやく。
「何それ……、優しいなんて、瀬名先輩じゃないみたい。誰の影響で、そんな変わったの」
 村主さんは、どんっと、瀬名先輩の胸に拳を当てる。
 笑いながら、何度も何度も涙をこぼす。
「でも、好きな人に優しくされるって、こんなにうれしいんだ……。私今、フラれたのにね……変なの」
 第三音楽室に、村主さんの鼻をすする音が響く。
 私は、かける言葉が見つからないまま、心の中で願った。
 どうか、彼女が自身で縛りつけてしまっているすべての鎖が、優しく溶けていきますように。
 彼女の心に刺さったすべての棘が、いつか丸くなって消えていきますように。
 何度も何度も、心の中でバカみたいに、唱えた。
「瀬名先輩、ちゃんと返事くれて、ありがとう……」
 それは、ピアノ線まで振動させるかのような、震えた声だった。
 その一言で、村主さんの中の恋心に終止符が打たれたのかと思うと、切なくて胸が張り裂けそうになる。
 瀬名先輩は相変わらず無表情だったけど、村主さんが泣き止むまで、一歩もそこから動かなかったんだ。


side瀬名類

 図書室で食べた焼きマシュマロ、屋上で飛ばした紙飛行機、視聴覚室で観たホラー映画、音楽室で数年ぶりに弾いたピアノ。
 全部を、SNSにメモしている。
 忘れないように。明日の自分に記憶を繋げられるように。
 いつしか、メモしたことさえ忘れてしまうかもしれないと思い、スマホに毎朝通知が来るように設定した。
『起きたら自分のSNSのアカウントを見ろ』。
 その通知が来ると、数秒だけ思考が停止して、ハッとしてからすべてを思い出すという頻度が増えてきた。
 それは、まるで雷に毎回打たれるかのような衝撃で、最初は脳の神経の一本が痺れて、次々に連動していく感覚なのだ。
 それは、俺の中でどんどん桜木の存在が大きくなっているということなんだろう。
 桜木を忘れないことが、本当に記憶のリハビリになってしまった。
 真っ白だった世界に、インクが一滴落ちてじわじわと広がっていくような感覚を、俺は生まれてはじめて知った。
 ……いつか失うことが怖いから、いっそメモを取ることをやめて忘れてしまおうか。
 そんなこと、毎朝思っている。
 覚えていないけれど、きっと、今までの自分も大切な記憶に出会ったとき、そうやって逃げて生きてきたんだろう。
 いつか失うことが怖いから。
 その言葉は、きっと、俺の頭の中で廻り続ける。……永遠に。



「瀬名先輩。今年、桜の開花宣言遅いんだって。たしかにこんだけ雪降ってたらそうだよね」
 音楽室でのことから数日間経ったある日、なにごともなかったかのように村主が昼休憩で教室にやってきた。
 隣に座っていいと言っていないのに、勝手にクリームパンを頬張りながらスマホをいじっている。
 俺は、音楽室での一件で、こいつは俺にもう話しかけなくなると思っていたから、しれっと目の前に現れたことに少しだけ驚いていた。
 ただ、前のように鬱陶しくくっついてきたりはしない。
「あーあ、お花見デートいろんな人に誘われてるのになー」
 村主はこれみよがしに男からきたメッセージを俺に見せつけながら、文句を垂れている。
 そのことにはいっさい触れずに、俺は唐突な質問を投げかけた。
「アイツの髪、直してやったの。お前」
「え……? ああ、座敷童子ちゃんの話? 耳にかけて髪どけただけだよ」
「なんで」
「別に。なんか無理して陰キャラ作ってるみたいだから崩してやりたくなっただけ」
「あれキャラづくりなのかよ」
「当たり前じゃん。声作ってるし。なんか昔言われたんじゃん? 意外と整った顔してるからそれでイジメられたのかもね」
 あのぼそぼそした話し方は、わざと作っているのかもしれないなんて、一度も思ったことがなかった。
 村主が、案外人のことをちゃんと見ているという事実に驚いて、俺はしばらく閉口した。
 すると、彼女は長い茶髪をかきあげてから、俺のことをぎっと睨みつけて指さす。
「ていうか私、瀬名先輩以外にも男たくさんいるから、心配しないでいいから」
「一ミリも心配なんかしてねぇよ」
「だから! 大丈夫だから、普通に接してよね」
 そこまで強気で言い放った村主の耳が、少しずつ赤くなっていることに気付いて、俺は言葉を探した。
 今までなら、村主の顔も見ずに無視をしていただろう。だけどすぐに、アイツの言葉が思い浮かぶから。
『そんな言葉、簡単に言わないで。ただ傷ついたり不安になったりしただけなのに、そんな言葉で、笑いに変えないで……』
 きっと、俺が想像する以上に、人は言葉に傷つけられる。
 今の彼女だって、もしかしたらすごく言葉を選んで、悩んで、今日俺の隣にやってきたのかもしれない。
 そう思うと、なんて返したらいいのか、余計分からなくなった。
「……すでに普通に接してるだろ」
 淡白な言葉をそのまま返すと、村主は「たしかに」と言って笑った。
 そして、少し間を置いて彼女は問いかけた。
「……桜木のこと、好きなの?」
「お前に答える意味ある?」
「好きなんだ。あー、ムカつくなマジで。どうすんの?」
 どんな単語の羅列だよ、とつっこみたくなるほど要点のみのセリフに、俺はため息をつく。
 どうすんの?というのは、忘れるくせにどうすんの、ということだろう。
 そんなの俺が知りたい。方法があるなら教えてほしい。
 俺が不機嫌になったことを察知したのか、村主は「でもちょっとわかる」と、焦って言葉をつけ足した。
「……変なやつだけど、悪いやつじゃないのは、わかる」
 そう言った村主の顔は、少し戸惑っているようで、うっすらと眉間にシワが寄っている。
 自分の中で桜木をどんな位置に配置したらいいのか分からないのだろう。
 俺だって分からない。アイツのことなんて、全然分かってない。
「あ、噂をすれば」
 村主は突然廊下を見て何かを指差した。
 彼女の派手な爪の先には、うつむきながら、売れ残りのパンを抱えて歩く桜木がいた。
 購買は三階にあるので、たまたまここを通りすがったのだろう。
 今日は、すぐにアイツの顔を思い出せたことにややほっとしていると、村主が大きな声で彼女を呼んだ。
「おい、そこの座敷童子。こっち来い」
「どんな呼び方だよ」
 思わず突っ込んだが、彼女は座敷童子という単語にビクッと肩を震わせて、ゆっくりこっちを向いた。自意識あんのかよ。
 昨日は髪を耳にかけていたが、すっかりいつもどおり幽霊ばりに顔を隠している。
 桜木は一瞬こちらを見たが、聞こえなかったふりをして通り過ぎようとした。
 しかし、村主がそれを許さない。
「桜木、来いって言ってんだろ、耳ないのかよ」
 そう言われると、当たりがしんとなって、桜木のことを同情の目で見つめるクラスメイトで溢れ返った。
 派手な生徒に絡まれた、いたいけな後輩がかわいそうだとでも思っているのだろう。
 桜木はギギギ、と音が出そうなほどぎこちない足取りで教室に入り、すごすごと近づいてきた。
 ふたりきりで話しているときは自然なのに、どうして集団の中になると彼女は過剰に自分の存在を消そうとするのだろうか。
 村主が、自分の席にひとつ椅子をくっつけて、桜木に座るよう指示した。桜木はパンを抱えながらゆっくりと腰掛け、俯いている。
 そんな様子を見て、村主が不機嫌そうに声を荒げる。
「出たよ、その陰キャ作り。この前の威勢はどうした」
「こ、この前はごめん……。勢い余りすぎて生意気言いました……」
「本当だよ。座敷童子のくせに」
 桜木は俺に目もくれずに、村主と会話をしている。
 桜木が俺以外の誰かとまともに話しているところをはじめて見たので、なんだか少し感動してしまった。
 すると、桜木は突然慌ただしく何かを思い出し、手に持っていた財布から千円札を取り出して村主に押し付けた。
「これ、返す。今度こそ、返す……」
 なぜかお札を突き付けられた村主は、しばらく何かを考え込んでから、そのお札を指で挟んで受け取った。
「しつこいな。分かったよ」
「よかった、肩の荷が降りた……」
「こんな端金で大袈裟なんだけど」
「こういうのって、金額の問題なの……?」
 なんの話かまったく分からないが、村主は珍しく言葉に詰まって、ぽりぽりと頭を掻いて、ため息混じりにつぶやく。
「扱いづら! このタイプの人種未知すぎて分からない」
「ええ……」
「ていうか、また髪で隠してんなよ。声も作るな」
 そう言うと、村主は桜木の髪の毛を、耳に無理やりかけた。
 桜木の丸い瞳があらわになって、俺は一瞬ドキッとした。
 雪のように真っ白な肌をしている桜木は、猫背のままおろおろと目を泳がせている。急に視界が開けると、視線の置きどころに困るのだとか。
 挙動不審な彼女を黙ってじっと見つめていると、ふいにばちっと目が合った。
 見つめていたことがバレないように、俺はとっさに目を逸らしてしまう。
 すると、そんな一連を見ていた村主がつまんなそうに舌打ちをした。
「何もう、アオハルですか? やってられない。早くくっつけばいいじゃん。あーもう、桜木、アンタ最近行ってみたいとこないの?」
「え! なんで急にそんな話題に……」
 デートを取り付けようとしているのか、村主がキレながら桜木のことを問い詰めている。
 怒ってるのか、応援しているのか、それとも無理しているのか、村主の行動は俺には理解できない。
 桜木は、意味は分からずとも、聞かれたことにちゃんと答えなければと思っているのか、うーんうーんと唸りながら行きたい場所を捻り出していた。
 数秒経ってから、「あ」と小さく声を上げて彼女はつぶやく。
「土手に、行きたい……」
「え? 何言ってんの?」
 村主と同じように、俺もまさかの回答に眉をしかめる。土手なんていつでもひとりで行けばいいだろ……。
 村主に睨まれた桜木は、怯えながら小さな声で答える。
「春になったら、勿忘草がたくさん咲くって聞いて……」
「勿忘草? なんでそんなの見たいの」
「見たいっていうか、採りたいというか……。死んだばあちゃんが好きな花だったから」
「……ふぅん」
 桜木の中で、祖母の存在はかなり大きいものなんだろう。
 彼女の口から母親の話を聞いたことはないが、祖母の話は何回か聞いている。
 村主はあきらかに反応に困っているので、俺はようやく口を開いた。
「行くか。春になったら」
「え、ひとりで行けるので大丈夫ですけど……。人様を連れ出すような場所でもないですし……」
「殺すぞ」
 羞恥心を紛らすために放った俺の一言に、桜木は怯え切っていたが、秒で玉砕した俺に村主は爆笑していた。
 桜木にとって行きたい場所っていうのは、誰かと行きたい場所ということではないのかもしれない。
 思っているより、きっと桜木を囲む壁は厚い。
 ひとしきり笑い終えた村主は、前から疑問に思っていたのか、ストレートすぎる疑問を桜木にぶつけた。
「いいキャラしてるのに、なんで桜木はそうやって自分隠してんの?」
 村主の問いかけはいつもストレートすぎる。
 桜木の反応が心配になったけれど、彼女はいたって普通な態度だった。
「それは、もう誰も傷つけたくないから……」
「何それ。イジメられてたんなら、アンタが傷つけられてたんじゃないの?」
「そうなんだけど……えっと」
 珍しく、困ったように言葉を濁すので、俺は村主に「追い詰めんな」と言って制した。
 村主は眉をハの字にして、どういうことかと桜木の言葉の真意を理解できないでいた。俺にも本当の理由は分からない。
 ……前から思っていたけれど、桜木が村主のことを庇ったあの日、あらためて疑問に思ったことがある。
 あんなふうに、誰かが傷つけられることを思って行動できるのに、どうして桜木は独りでいることを選んだんだろか。
 本当にそれを望んでいるならいいけど、もし本心はそうじゃなかったら、桜木を縛っているものはいったいなんなんだ。
 そんなことを思っていると、昼休憩が終わる時間になり、生徒が教室を移動し始めた。
「桜木、一緒に戻るか」
「うん。あ、村主さん、あの、音楽室のときの、あの、瀬名先輩とのことは……」
 何やら桜木が気まずそうに言葉を濁している。
 もしかして、俺に強引に抱き寄せられた場面を村主に見られたことを気にしているのだろうか。桜木は、ずっと言うタイミングを見計らっていたかのようだ。
 村主はそれを察知したのか、桜木の背中をバシッと強くたたく。
「もう脈ゼロって分かったから、今の彼氏ひとりに絞っていくことに決めたからいいんだよ」
「そうなの……?」
「応援してる」
 そう言って、本当に心の底から笑った村主に、桜木はほっとして笑みをこぼしていた。
 そんな桜木を見ながら、村主が何を「応援」しようとしているのか、ちゃんと分かっているのか、俺は不安になりながらふたりの背中を見送ったのだった。