何度忘れても、きみの春はここにある。

 メールアドレスはそのまま引き継いで新機種の変更したので、このまま待って、もしメールが届いたら、本当に俺のアカウントだということだ。
 メール画面を何度も更新し、数秒後。
「あ……」
 SNSのパスワード再発行通知のメールが、自分のスマホに届いた。
 それを確認した瞬間、全身に鳥肌が立った。
 このアカウントは……、本当に過去の俺が過ごした時間が記録されている。
 認めざるを得なくなった俺は、もう一度最初の投稿からすべてを見直した。
「くそっ……、頭痛ぇ……」
 しかし、思い出そうと何度も何度も記憶をたどるたび、頭が地割れするかのごとく、激しい痛みが襲う。
 でも俺は、その指を止めることができなかった。
 なぜなら、過去の俺が、『何ひとつ。忘れたくない』と、言っているから。
 俺は、顔も思い浮かばないコトネを想いながら、痛みに耐えてすべての投稿を読んだ。
 過去の自分は、いったいどんな時間を過ごしていたんだろう。
 思い出す前にふいに涙が出てしまうほど、大切な存在だったんだろうか。
 ……知りたい。過去の自分を、ちゃんと分かりたい。
 ―――冷や汗をかきながらスマホを握りしめていたそのとき、突然、祖父からの電話がきてスマホが激しく震えた。
 驚いた俺は、思わずワンコールでその電話をとった。
「もしもし、なに」
「類か。今、警察から電話があってな。放火の犯人が捕まったらしいぞ」
「は……?」
 ただでさえ真っ白だった頭の中が、さらに混乱していく。
 なぜ、一度に処理できないような出来事が、たった一日で舞い込んでくるんだ。
 卒業式に、生徒を恐怖に陥れた放火事件の犯人……。
 なぜか式を抜け出して図書室にいた俺は、発火した場所にいた生徒として何度も事情聴取を受けていた。
 あれから三年経って、どうして今さら……。
 スマホ越しに黙り込んでいる俺に向かって、祖父は落ち着いた低い声で、こう諭した。
「……類、一日でいいから、家に帰ってきなさい」
「え……」
「何か、思い出すことから逃げるように、ずっとそっちにいるようだが……」
 別に、逃げるように東京に来たわけじゃない。
 進路はもともと決まっていたし、いつまでも祖父の家で世話になるわけにいかないと思って、家を出た。
 ただ、それだけだ……。
 けれど、祖父には俺が逃げているように見えているんだろうか。
 逃げるって……いったい何から?
「被害者の女の子が、ずっと犯人探しを呼び掛けていたお蔭だそうだ」
「ああ、たしか、言ってたな……。俺以外にもうひとり被害者がいるって……」
「とにかく、一度帰ってきなさい。ずっと張りつめた気持ちのままだと、いつか電池が切れるぞ」
 祖父はそう言って、強引に電話を切ってしまった。
 張りつめた気持ちでいるつもりはまったくないし、俺は今十分自由な生活をしていると思っている。
 余計な交流を断ち切って、特別な人間を作らないように……、今までどおり生きているというのに。
 どうして、祖父の目にはそんなに心配されるように映っているのか。
 俺は納得できないまま、真っ黒なスマホの画面を見つめていた。
 実家に帰ったら、コトネについて何か思い出すきっかけがあるかもしれない。
 今このタイミングで起こったこと、すべてに意味があると思い込んで、俺は数日間だけ実家に帰ることにした。

 築年数五十年の祖父の家は、最寄駅から徒歩十五分ほど歩いた場所にある。
 昔ながらの横に長いつくりの木造建築で、無駄に敷地が広く、門の背が高いのでなかなか気軽には入れなさそうな構えをしている。
 祖父は五十代後半まで長年弁護士として勤めていたので、母親は昔、なかなかのお嬢様の育ちだったらしい。
 就活を始めた今、祖父がひとりで事務所を立ち上げた事実は素直に尊敬できるようになった。
 俺は重たい木の門を開けて、敷地内に入った。
 桜の木は立派に花を咲かせている。庭の植物の緑も濃くなっていて、木々は葉を目一杯広げて太陽をたっぷりと浴びていた。
 その場に立ち止まって少し植物を眺めていると、庭の奥から水やりをしていた祖父がやってきた。
「類、帰ったか」
「……ただいま」
「入りなさい。まだ春なのに今日は日差しが強すぎるから、お茶を出そう」
 首に巻いていたタオルで汗を拭いた祖父は、先に家の引き戸を開けて家の中へ入った。
 部屋中の窓が空いていて、部屋の中は外よりずいぶんと涼しい空気が流れている。
 俺は少ない荷物を部屋の端において、所在なさげに居間に座り込んだ。
 開けっ放しの窓からは、庭が一面見渡すことができ、四季を感じることができる。
 高校生までは、祖父がよくいるこの居間にはあまり寄り付かず、すぐに二階の自分の部屋へとこもっていたから、なんだか変な感じがする。
 そわそわしながら待っていると、祖父がおぼんに冷たいお茶を入れて現れた。
「近所の方からもらったいいお茶なんだ」
「お茶とか……味の違いわかる気しねぇけど」
 そう言いながら、俺は冷たいお茶を喉に流し込む。
 喉の奥からひんやりすると、体力が戻ってくる気がする。
 たしかに普通のお茶よりは甘味が強いのかもしれない、と思っていると、祖父がお茶をすすりながら、ひとりごとのようにつぶやいた。
「犯人……、捕まったな」
 先日ニュースで見た犯人の顔は、ごくごく普通の四十代くらいの男性だった。
 当時のことをまったく覚えていない俺は、その顔を見ても憎悪はわいてこないし、正直ピンともこない。
 気づいたときに自分はベッドの上で、祖父は泣き崩れていたから。
 祖父は庭先を眺めながら、さっきより少し苦しそうな声で話した。
「お前も、連れていかれてしまうのかと思ったよ、あのときは」
「……大袈裟だな」
「また、あの火にすべて持っていかれるのかと……絶望しかけた」
 その言葉に、祖父が何度も頭を下げてまわっていた映像が思い浮かんだ。
 まさか、自分の娘が犯罪者になって、しかもそのまま亡くなってしまうなんて……いったいどんな気持ちだったのだろう。
 あのときは祖父の気持ちを想像するに至らなかったが、今は何も言葉が出ない。
「水を触っているとね、なんだか安心するんだよ。お前が事件に巻き込まれてから、ずいぶん植物が元気になっちまってな……」
 今日の祖父はやけに饒舌で、俺は小さく相槌を打ちながら、祖父の言葉に耳を傾ける。
 そうか……。祖父にとって、"火"は大きなトラウマとなっているのかもしれない。
 まさか二度も身内が放火事件に巻き込まれるなんて、思ってもみなかっただろう。
 はじめて聞く祖父の気持ちに、俺はどこか切ない気持ちになっていた。
 祖父ももう年だ。もう数年ないかもしれない人生で、俺は祖父にトラウマを再び作ってしまうところだったのかと思うと、今さら申し訳ない気持ちになってくる。
「心配かけてごめん」
「……今さらだな」
 ふと自然に謝罪の言葉がこみあげてきて伝えると、祖父はいっさい笑わずに「まったくだ」と不機嫌そうにつぶやく。
 こんなふうにちゃんと祖父と話したのはいつぶりだろうか。
 いつもいつも、祖父の忠告を鬱陶しがるだけだったから。
「いつもお前に、言っていたことがあるな。"お前は普通じゃない"と」
 祖父も同じように過去を思い出していたのか、今度は昔話を始めた。
 本当に今日の祖父はよく話すので、なんだか調子が狂うので、俺は思わず悪態をついた。
「ああ。耳にタコができるくらい聞いたな」
「それくらい、危機感を持ってほしかったんだ。周りに置く人を選ぶ能力を、ちゃんと身に着けてほしかった。覚えていられないということは、ある程度危険が伴う」
「……じゃあ、そう言えばよかっただろ。言葉足りなさすぎだろ」
「そうか、そうだな……」
 何も言い返さない祖父に、ますます調子が狂う。
 それとも、祖父はもともとこんなふうにおだやかな性格をしていたのだろうか。
 学生時代の印象と今の印象が、どうしてこんなにも違うんだ。
 たった少し離れていただけで、こんなにも話せることが増えることがあるなんて。
 よく上京組に話は聞いていたが、自分の身にも起こるとは思ってもみなかった。
「類、今日呼んだのは、どうしても言いたかったことがあるんだ」
 ずっと庭を眺めていた祖父が、ゆっくり俺の方を向き直った。
 あらためて見た祖父の顔にはたくさんのしわが刻まれていて、でも、瞳の力は消えていない。
 少し間を溜めてから、真剣な声で祖父は語りかけた。
「……大切な人を作りなさい。生きる意味は、だいたいそこにある」
「え……」
 思わぬ言葉を言われた俺は、驚きその場に固まってしまった。
 しかし、祖父は俺を見つめたまま話し続ける。
「たとえ忘れても、大切な人を作りなさい。人じゃなくて、趣味でも動物でもいい。お前にはまだたくさんの時間がある。それは、お前が想像する以上にだ」
「時間……」
「長いぞ。俺の家系は、本当は皆長寿だからな」
 そう言って、祖父はわずかに口端を吊り上げて笑った。
 そんな表情をはじめて見たので、俺はより驚いて、上手く言葉が出てこない。
 ただ、何かの光のように、"大切な人を作りなさい"という言葉が響いて……。
 こんな感情に、昔、どこかでなった気がする。
 忘れてもいいから、大切にしたいという、そんな気持ちに。
 でも、それがいったいいつの思い出なのか分からない。
「娘が……、事件を起こす前、口癖のように言っていた。大切なものなんかないほうがいいと。ずっとその思想が、幼い頃からお前に根付いているんじゃないかと、不安だった」
「……」
「今思えば、そんなことを言い出したときに、仕事ばかりでなくもっと話を聞いてやればよかった」
 祖父の切なげな表情に、俺は何も言えなくなる。
 自分の根底にあるトラウマを、祖父がどれほど知っているのか分からないけれど。
 でも、何も持たずに生きたほうが楽だと、俺はとくにそうすべき人間なんだと思い込んでい生きてきたのは本当だ。
 でも、高校生の頃の自分は、どうだったのだろうか……。
「高校の頃、お前は卒業間際だけ、生き生きとしていたがな」
「え……?」
「待ち合わせがあると言って、たまに出かけていた」
「俺が……? バイト以外で?」
「あの時期だけ、何か考えてぼうっとしていることが増えたというか……」
 ……祖父の言葉に、俺はふとある考えが浮かんできた。
 固定の友人もあまりいなかった俺が、誰かと待ち合わせて出かけるなんてよっぽどのことだ。
 自分の知らない自分の過去を知り、なんだか胸がザワついてくる。
「なあ、サクラギコトネって子のこと、知ってるか……」
 おそるおそる、そう訊ねると、祖父は一瞬表情を強張らせる。
「そうか。それも覚えていないのか……」
「え……?」
「その子は、お前と一緒に放火事件に巻き込まれた子だよ。事件のとき、偶然そばにいたんじゃないか」
 事件のときに、一緒にいた被害者が、コトネだったのか……。
 卒業式を抜け出してまでその子と一緒にいたということは、本当に俺にとって大切な存在だったのかもしれない。
 過去の俺には……それくらい大切な人間がいたということなのか。
 予想が核心に迫っていく。
 眉間にしわを寄せたまま黙っている俺を見て、祖父は「一度自分の部屋に戻って休みなさい」と諭した。
 再び襲ってきた激しい頭痛に耐えかねて、俺は二階の部屋に戻ることにした。
 しかし、その前に一度立ち止まり、祖父の方を振り返ってひとこと告げた。
「家の庭、あんなにきれいだったんだな」
「ああ……、今の自分にとって大切なものだからな」
「……この庭を見に、たまに帰るわ」
 それだけ言い残して、俺は静かに階段をあがる。
 築年数の長いこの家の階段は、足を踏み込むたびにギシギシと音を立てて軋む。
 自分の部屋は、二階の一番奥の部屋にあり、久々に見た自分の部屋のドアがとても古びて見えた。
 ドアノブに手をかけて中に入ると、埃っぽい空気が充満している。
 ベッドも、本棚も、テレビも、洋服も、学生服まで、そのまま放置してあり、高校生の頃の自分が目に浮かんできた。
 俺はすぐにカーテンと大きな窓を開けて、空気の入れ替えを行う。
 太陽が部屋の中に温かな光を連れてくる。
 ほろほろと、桜の花びらが数枚部屋の中に舞い込んできた。
 春が好きだという人は多いけれど、花や太陽のおかげで、心が不思議とおだやかになれるからだろうか。
 瞳を閉じて、深呼吸をしてみる。頭の痛みが、ゆっくり引いていく気がする。
 瞼を開けると、再び桜の花びらが目の前に迫ってきたので、俺は思わずそれをよけて、花びらの行方を目で追った。
 すると、その花びらが、机に置いてあったある不思議なものの上に着地した。
「なんだ、これ……?」
 そこに置いてあったものは、ドライフラワーのように、パリパリに乾燥した植物が、輪っか状になったものだった。
 青い小さな花が、手にしたら崩れ落ちてしまいそうなほど少ない力で、なんとか繋がっている。
 こんなもの、俺が趣味で買うわけがない。
 不思議に思いながらそれを手に取ると、予想どおり、その花は砂のようにほろほろと崩れ落ちてしまった。
 ――そのときだった。
 崩れていく青い花を見ていたら、突然またズキンと激しい頭痛が襲ってきて、俺はその場に崩れ落ちた。
 脳内が一気にいろんな映像を早送りで映し出して、走馬灯のように脳内を駆け巡っていく。
 なぜかこの優しい青がとてつもないスイッチになって、一本の木が水を吸いあげるかのように、枝分かれした記憶の先に水が宿っていく。
 映し出される映像、そのどれもに、あの"コトネ"という女の子が映っている。
 下駄箱で出会ったシーン、マシュマロを図書室で食べているシーン、紙飛行機を屋上から飛ばすシーン、遊園地前で彼女を抱き締めているシーン、視聴覚室で映画を観ているシーン、音楽室でピアノを聴かせたり、カフェに行ったり……。
 そして、最後に映し出されたのは、勿忘草がたくさん咲いた土手で、彼女がブレスレットをつくってくれたシーンだった。
 そのシーンだけは、映画のようにある会話まで蘇ってきた。
『これは、忘れないためのお守りです。勿忘草にかけて作りました』
『……単純すぎて効果なさそうだな』
『でももし、もし、本当に私のことを忘れて、もう何も思い出せなくなっちゃったら、何をしても無理だったら、私は、先輩が最期に見るときの光の欠片になりたい……』
「あ……」
 床に散らばった青い花を見て、俺は一粒の涙を落とす。
 その一粒が乾いた勿忘草の上にこぼれ落ちると、もう、そこから先は、何もかも止まらなくなった。
 あまりの衝撃に、俺は、床に額を付けるほどうずくまる。そして、噛み締めた歯の隙間から、聞き取れないほど震えた声で、彼女の名前を読んだ。
「琴音……っ」
 ――どうして、彼女を忘れて、なんでもない顔でこの数年を生きていたのだろうか。
 堰を切ったように涙が溢れだす。大粒の涙がとめどなく頬を流れていく。心のどこかにずっと抑え込まれていた記憶がすべて涙に変わっていく。
 このまま泣きすぎて、壊れてしまうんじゃないかと思うほど。
「どうして……」
 どうして、どうして、どうして、思い出せなかった。
 あんなに誓ったのに。
 昨日の自分と、今日の自分を繋げて、琴音のそばにいるんだと。
 それが、あんな火ひとつで、すべて消え飛んでしまうなんて。
 ……結局俺は、母親の呪いから、逃げることができていなかったんだ。
 あの日、命からがら家を飛び出て、燃え盛る火をひとりでただただ見つめることしかできなかった自分のままだ。
 琴音に出会うまで、ずっと、何もない雪原に立っているかのような人生だった。
 歩いて、足跡を残そうとしても、どんどん雪が降り積もっていって、あっという間に俺の歩いた軌跡なんか消えていく。
 だからずっと、ここにひとりでいよう。そんなふうに思って生きていた。
 何も残せないのなら、何もせずに、何も考えずに、ひとりで生きていこう、と……。
 そんな薄暗い灰色の景色の中、突然現れた琴音は、まるで"春"そのもだった。
 空に舞う花びらのように、道端に咲く勿忘草のように、等しく降り注ぐ太陽の光のように。

 ――想うだけで、心が温かくなる場所は、きみが持っている。
 きみがいるところに、光が当たる。

「会いたい……」
 ふと、心の中から言葉があふれだしてきた。
 言葉にすると、その気持ちがどんどん胸の中で膨らんでいき、どうしようもなくなってしまった。
 スマホから連作先が消えた今、彼女に連絡を取る手段はない。
 菅原も岡部も、琴音の連絡先を知っているはずがない。
 だれか彼女と繋がっていた人……。俺は流れ出る涙をそのままに、ぐるぐると頭を回転させた。
 そして、ひとりの名前が脳内に浮かびあがる。
 ……村主だ。
 村主なら、岡部と菅原とも繋がっているはずだ。
 そして、村主から琴音の連絡先を聞き出せるかもしれない。
 そう思った俺は、とっさにスマホを取り出して、岡部に電話をかけた。
 ワンコールで電話は繋がり、岡部の不機嫌そうな声が聞こえる。
『ちょっと、この時期に電話とか、面接の合否の連絡かと思うじゃん』
「岡部、村主の連絡先教えて」
『え……? もしかして、思い出したの……』
 俺の真剣な声に、一瞬ですべてを悟ったのか、岡部は焦ったように言葉を続ける。
『待って、すぐ送る。でも村主、私たちが連絡しても反応来なくなっちゃってたから、返ってくるかどうかは微妙だけど……』
「それでもいい。教えて」
『う、うん……、分かった。送るから、切るね』
 そう言って、岡部は電話を切ろうとした。
 しかし、その直前で『待って!』と声を上げて通話を切るのを制す。
『あの子にもし会えたら、謝っておいて。いや、謝るのも唐突で変か……。今さらだけど反省してるって、伝えておいて! じゃあね!』
 それだけ言い残して、岡部は勝手に電話を切ってしまった。
 アイツもアイツなりに、琴音に対して後悔しているんだろう。
 俺も、琴音に対して後悔しかない。
 彼女はどんな想いで、俺の記憶喪失を受け止めていたんだ。
 きっと、たくさんたくさん傷つけた……。
 今さらどんな顔で会いにいったらいいんだ。さっきまで会いたい気持ちだけで行動してしまったけれど、かすかな不安があとを追ってくる。
 でも、それでも、動かなければならない。
 俺にはまだ、"時間"があるのだと、さっき言われたばかりだ。
 震えた手を片方の手で押さえつけて、俺は岡部から教えてもらった村主の番号に電話をかける。
 ……しかし、なかなか電話がつながらない。
 俺はスマホを握る手に力を込めながら、村主に届くよう念を込める。
 お願いだ。出てくれ。俺はまだ……琴音に伝えていないことがたくさんある。
 無機質なコール音が鳴り響くたびに、じわりと額に汗が浮かんでくる。
 電話を切らずに一分が過ぎようとしたそのとき、無機質な音が唐突に途絶えた。
『はい、もしもし。すみません、今電車で降りたところで……!』
「……村主か?」
 久々に聞いた村主の声は、なぜか焦った様子だった。
 電話が繋がった奇跡に、鼓動が速くなっていく。
『え……? 誰ですか』
「……瀬名です」
『瀬名って……もしかして、瀬名先輩……?』
 その問いかけに静かに「ああ」と答える。
 村主は、電話越しでもわかるくらい混乱している様子だ。
『なんで今連絡くれたの? もしかして、琴音のこと?』
「思い出したんだ。全部……。今さらだけど」
 そう答えると、村主は少し語気を荒くして、責め立てるように言葉を投げる。
『何それ……、なんで、琴音と一緒に大学行ったとき、全然思い出しもしなかったくせに』
「ごめん……」
 大学一年生のとき、村主と一度喫茶店で出会ったことがある。