「ねえ、ひとみちゃん。俺ってそんなに顔色悪い?」
なんの前置きもなく、突然そんなことを尋ねられるから心臓が止まるかと思った。
昼休みの美術室。
言った海里のほうは、相変わらず私に視線さえ向けず、自分の作業に集中しているのだから本当に嫌になる。
「当たり前じゃない! 昨日の朝まで入院してたんだから……!」
お望みどおりに怒鳴ってあげたら、
「だよね」
あっさりと同意された。
その素っ気無さにますますカチンとくる。
(なんなのよ急に! ……別にそんなこと……今まで気にしなかったじゃない……)
腹立ち紛れに考えてみたら、すぐにハッとした。
他人の目に自分の姿がどう映るのかなんてまるで興味なかった海里が、最近急に変わったのだとしたら、その理由なんてあまりにも明らかだ。
退院したその日のうちに、あいつが日付が変わるのさえ待ちきれずに会いに行った人――好きな相手。
その人の目に映る自分の姿を、気にしているのに違いない。
(まったくもう……!)
いつだってその人のことしか頭にないような態度に、どうしてもイライラが募る。
けれどそれとは別に、なんだか心のどこかに引っかかるものがあった。
ふいに私の胸に沸いたのは、決して興味本位だけではない疑問――彼女は果たして、海里の体のことを知っているのだろうか、ということ。
(毎日会ってたんだもの……知らないはずないわよね……?)
常識的に考えた場合の答えと。
(でも……格好つけたがりで、人に弱みを見せることが大嫌いな海里が、正直に打ち明けるかな……?)
誰よりも一番近くでずっと海里を見てきた自分のカン。
その二つを秤にかける。
(やっぱり有り得ないな……)
自分の予想を確信に変えるため、私は恐る恐る海里に問いかけてみた。
「何? ……誰かにそんなこと言われたの?」
スケッチブックの上で忙しく動いていた海里の鉛筆が、ピタリと止まった。
(やっぱり! ……秘密にしてるんだ……!)
私の心の中で今何が断定されたのかなんて、まるで想像もしてない笑顔で、海里はニッコリと笑う。
「すごい……! ご名答!」
でもその笑顔自体が本物じゃないことは、私にはすぐにわかった。
無理やりの笑顔なんて、私ならすぐに見破ってしまうってことぐらい海里だってよく知ってるはずなのに、見え見えの無理をしてみせるから腹が立つ。
「海里!」
一声叫んでから、少し声のトーンを落とした。
「……別にあんたの顔色が悪いのなんて今に始まったことじゃないわよ……」
「そう?」
こんなところで嘘をついても意味はない。
聡い海里にはすぐにバレてしまうし、そうなったら余計に傷つけるだけだ。
でも、見た目にはあまりそう見えなくても、絶対落ちこんでるはずの海里をそのまま放っておくことは、やっぱり私にはできなかった。
「そうよ。小学生の頃なんて、夏場でもあんたは真っ白なのに、私は色が黒くって、よくみんなに『男女逆なんじゃないか』ってからかわれたじゃない……!」
「ハハハハッ! 確かにそうだった!」
大きな声で笑いだした顔は、今度こそは間違いなく本物だった。
だから私はなおさら言葉に力をこめる。
海里がもっともっと、私の大好きな笑顔になるように――。
「だから別に……そんなの今に始まったことじゃないのよ……!」
「ありがとう。ひとみちゃん……」
下心いっぱいで、なんとか海里を元気付けようと必死になっていただけなのに、素直にお礼を言われるからちょっと良心が痛む。
「な、なんなのよ、急に!」
慌てて目を逸らして、私も自分の作業に集中しようとするけれど、海里ほどは上手くポーカーフェイスが決まらない。
「ありがと」
私が焦っているのをわかっていて、あえて何度も感謝の言葉をくり返す海里は、正直言うとかなり顔色が悪かった。
私の目から見てもあきらかに悪かった。
だけど――。
(そんなの……これまでだって何度もあったもの! 同じよ……!)
口に出して本人に伝えなくなっても、まだ心の中でくり返し叫んでいる私は、本当は怯えていたのかもしれない。
すぐ近くに迫ってきている何かが、とても不安だったのかもしれなかった。
相変わらず、朝は早くからどこかに出かけて行き、昼は学校にちょっとだけ顔を出し、そのくせ午後からの授業には出ずにまたどこかにいなくなる生活を、海里は毎日続けていた。
『無理のないようにしなさいよ』なんて言葉は、私に言われるまでもなく肝に銘じているだろうし、退院してすぐの頃よりは顔色もずっと良くなっていたから、特に口出しはせずそっとしておいた。
私が何を言ったって、最終的には自分のやりたいようにする。
――海里は結局そんなやつなのだから。
でもある日を境に、毎日この上なく幸せそうで楽しそうだった笑顔が、少しずつ翳るようになった。
どこで何をしているのかを本人から聞かされていない以上は、たとえうすうす感づいていても、余計なことは言えない。
(何かあったのかな? ……でも毎日会いに行ってることには変わりないし……悩んでることがあるんだったら、私でよかったら相談に乗るんだけどな……)
心の中でいくらそう思っても、何一つ口には出せない。
もどかしさを抱えながら付き添って行った三度目の検診で、海里は再度の入院を言い渡された。
わざわざ言いはしないけれど、明らかに落ちこんでいる様子を見ていると、代わりに私が口を開かずにはいられなかった。
「いくら用心のためだからって……なんだかおかしくない?」
昼休みの美術室。
珍しく部長もまだ来ていなくって、海里と二人きりなのをいいことに、いきなり問いかけたら、あきらかに狼狽した声が返ってきた。
「何が……?」
本当はわかっているくせに、どこまでもとぼけようという姿勢が見て取れて、私は体ごと海里のほうへ向き直った。
逃げられないように、キリッと海里の顔を見据えることを忘れてはならない。
その上でおもむろに口を開く。
「もちろん海里の入院よ! ……だってついこの間退院したばっかりじゃない。発作が起きたんでもないのに……なんでまた入院しないといけないわけ?」
「ああ……そうだね……」
海里は明るく笑いながら、最近どこに行くにも持ち歩いている、元は私の物だったスケッチブックを膝の上でパラパラとめくった。
そうしながら私のほうは見もしないで言葉を続ける。
「でも……まあ、いいんじゃない? ……詳しく検査してもらって、しばらくのんびりしたら、またすぐに退院できるってことなんだからさ……」
「だって……それって……!」
煮え切らない態度にイライラして、思わず言ってしまいそうになってから、私は慌てて言葉をのみこんだ。
海里のほうへ向いていた体をもう一度画布のほうに向け直し、少し声を小さくして、口の中だけで呟く。
「おかしいわよ……」
(それじゃまるで……海里の具合が良くないみたいじゃない!)
その先の言葉は、更に自分の心の中だけに止めておいた。
そんなことはあって欲しくないと、私が思えば思うほど、状況は悪くなっていくばかりのようで、思わず涙が込み上げてくる。
でもそんな心境の私を救ってくれたのは、他ならぬ海里だった。
「学校休んでも誰からも咎められないし。こっそり美術室に忍びこまなくても、どうどうと病室で絵は描けるし。しかも三食昼寝つき。やっぱこれ以上の待遇はないよ……幸いまたすぐ出れるってことだから……ちょっと満喫してくる」
私を安心させようとわざと茶化していることが見え見えで、なおさら泣きそうになった。
「海里のバカ!」
なんでこんな時にまで、私の気持ちを明るくするほうを優先するんだろう。
もっと我が儘になればいいのに。
自分のことだけを考えていればいいのに。
海里は優しすぎる。
私にとっては残酷なほどに優しすぎる。
(あんたはもう、自分の大好きな人のことだけ考えてればいいじゃない……!)
そうされたらそうされたでイライラしてしまう自分を棚に上げて、そんなことを考えた瞬間、ついつい口をついて本音が漏れてしまった。
「だって……いいの? 入院しちゃったら、学校サボって毎日通ってる所にだって、行けなくなるんじゃないの?」
それは海里にとって最優先事項であるはず。
だから私の出る幕じゃないことは百も承知でも、彼の本心を思って、そう確認せずにはいられない。
「うん。まあ、それはそうだね……」
困ったようにため息をつく海里の顔を見た瞬間、私は自分でも思いがけず、名乗りをあげていた。
「私でよければ……代わりに行くけど?」
「へっ? ど、どこに……?」
海里があまりにも呆気に取られた顔で、間抜けにそう返事したものだから、私は一気に我に返った。
なんとか海里の力になりたいと――その一心から口にしてしまった自分の提案のあまりの非常識さに、自分で真っ赤になる。
(何言ってんの私! 私が海里の彼女に会いに行ってどうするの……!)
そんなこと、彼女の立場からも私の心境からも、とうてい出来るはずがない。
有り得ないことを口走ってしまった照れ隠しに、手元にあった絵筆を拭くためのタオルを思いっきり海里に向かって投げつける。
「うわっつ!」
ダメだ。
恥ずかしくてたまらない。
「もういいっ!」
八つ当たり気味にギュッとこぶしを握り込んで叫んだら、海里が思いがけず
「ゴメン」
と頭を下げた。
それからそのまま真っ直ぐに私に顔を向け、これ以上ないほど真剣な顔で私にお礼を言う。
「ありがとう。でもこれだけは……代わってやってもらうことはできないんだ……どうしたって、俺が行きたいんだ……!」
そんなに真剣な目で、真面目に訴えられなくたってわかってる。
私にだってわかってる。
海里がその人のことをどんなに好きなのか。
本当はどんなに他の誰にも譲りたくないって思っているのか。
海里自身のことを、同じようにそんなふうに思っている私には、苦しいくらいに良くわかっていた。
「あっそ。だったらさっさと退院してきなさいよ!」
鼓舞する気持ちで放った、聞きようによってはひどい言い方の言葉を、海里はやっぱり取り違えたりはしなかった。
見惚れるほどに鮮やかに笑って、もう一度私にお礼を言った。
「うん。ありがとう」
真っ直ぐな視線が胸に痛くて、本当はいつまでも見つめていたかったのに、逃げるように視線をそらすことしか、私にはできなかった。
なんの前置きもなく、突然そんなことを尋ねられるから心臓が止まるかと思った。
昼休みの美術室。
言った海里のほうは、相変わらず私に視線さえ向けず、自分の作業に集中しているのだから本当に嫌になる。
「当たり前じゃない! 昨日の朝まで入院してたんだから……!」
お望みどおりに怒鳴ってあげたら、
「だよね」
あっさりと同意された。
その素っ気無さにますますカチンとくる。
(なんなのよ急に! ……別にそんなこと……今まで気にしなかったじゃない……)
腹立ち紛れに考えてみたら、すぐにハッとした。
他人の目に自分の姿がどう映るのかなんてまるで興味なかった海里が、最近急に変わったのだとしたら、その理由なんてあまりにも明らかだ。
退院したその日のうちに、あいつが日付が変わるのさえ待ちきれずに会いに行った人――好きな相手。
その人の目に映る自分の姿を、気にしているのに違いない。
(まったくもう……!)
いつだってその人のことしか頭にないような態度に、どうしてもイライラが募る。
けれどそれとは別に、なんだか心のどこかに引っかかるものがあった。
ふいに私の胸に沸いたのは、決して興味本位だけではない疑問――彼女は果たして、海里の体のことを知っているのだろうか、ということ。
(毎日会ってたんだもの……知らないはずないわよね……?)
常識的に考えた場合の答えと。
(でも……格好つけたがりで、人に弱みを見せることが大嫌いな海里が、正直に打ち明けるかな……?)
誰よりも一番近くでずっと海里を見てきた自分のカン。
その二つを秤にかける。
(やっぱり有り得ないな……)
自分の予想を確信に変えるため、私は恐る恐る海里に問いかけてみた。
「何? ……誰かにそんなこと言われたの?」
スケッチブックの上で忙しく動いていた海里の鉛筆が、ピタリと止まった。
(やっぱり! ……秘密にしてるんだ……!)
私の心の中で今何が断定されたのかなんて、まるで想像もしてない笑顔で、海里はニッコリと笑う。
「すごい……! ご名答!」
でもその笑顔自体が本物じゃないことは、私にはすぐにわかった。
無理やりの笑顔なんて、私ならすぐに見破ってしまうってことぐらい海里だってよく知ってるはずなのに、見え見えの無理をしてみせるから腹が立つ。
「海里!」
一声叫んでから、少し声のトーンを落とした。
「……別にあんたの顔色が悪いのなんて今に始まったことじゃないわよ……」
「そう?」
こんなところで嘘をついても意味はない。
聡い海里にはすぐにバレてしまうし、そうなったら余計に傷つけるだけだ。
でも、見た目にはあまりそう見えなくても、絶対落ちこんでるはずの海里をそのまま放っておくことは、やっぱり私にはできなかった。
「そうよ。小学生の頃なんて、夏場でもあんたは真っ白なのに、私は色が黒くって、よくみんなに『男女逆なんじゃないか』ってからかわれたじゃない……!」
「ハハハハッ! 確かにそうだった!」
大きな声で笑いだした顔は、今度こそは間違いなく本物だった。
だから私はなおさら言葉に力をこめる。
海里がもっともっと、私の大好きな笑顔になるように――。
「だから別に……そんなの今に始まったことじゃないのよ……!」
「ありがとう。ひとみちゃん……」
下心いっぱいで、なんとか海里を元気付けようと必死になっていただけなのに、素直にお礼を言われるからちょっと良心が痛む。
「な、なんなのよ、急に!」
慌てて目を逸らして、私も自分の作業に集中しようとするけれど、海里ほどは上手くポーカーフェイスが決まらない。
「ありがと」
私が焦っているのをわかっていて、あえて何度も感謝の言葉をくり返す海里は、正直言うとかなり顔色が悪かった。
私の目から見てもあきらかに悪かった。
だけど――。
(そんなの……これまでだって何度もあったもの! 同じよ……!)
口に出して本人に伝えなくなっても、まだ心の中でくり返し叫んでいる私は、本当は怯えていたのかもしれない。
すぐ近くに迫ってきている何かが、とても不安だったのかもしれなかった。
相変わらず、朝は早くからどこかに出かけて行き、昼は学校にちょっとだけ顔を出し、そのくせ午後からの授業には出ずにまたどこかにいなくなる生活を、海里は毎日続けていた。
『無理のないようにしなさいよ』なんて言葉は、私に言われるまでもなく肝に銘じているだろうし、退院してすぐの頃よりは顔色もずっと良くなっていたから、特に口出しはせずそっとしておいた。
私が何を言ったって、最終的には自分のやりたいようにする。
――海里は結局そんなやつなのだから。
でもある日を境に、毎日この上なく幸せそうで楽しそうだった笑顔が、少しずつ翳るようになった。
どこで何をしているのかを本人から聞かされていない以上は、たとえうすうす感づいていても、余計なことは言えない。
(何かあったのかな? ……でも毎日会いに行ってることには変わりないし……悩んでることがあるんだったら、私でよかったら相談に乗るんだけどな……)
心の中でいくらそう思っても、何一つ口には出せない。
もどかしさを抱えながら付き添って行った三度目の検診で、海里は再度の入院を言い渡された。
わざわざ言いはしないけれど、明らかに落ちこんでいる様子を見ていると、代わりに私が口を開かずにはいられなかった。
「いくら用心のためだからって……なんだかおかしくない?」
昼休みの美術室。
珍しく部長もまだ来ていなくって、海里と二人きりなのをいいことに、いきなり問いかけたら、あきらかに狼狽した声が返ってきた。
「何が……?」
本当はわかっているくせに、どこまでもとぼけようという姿勢が見て取れて、私は体ごと海里のほうへ向き直った。
逃げられないように、キリッと海里の顔を見据えることを忘れてはならない。
その上でおもむろに口を開く。
「もちろん海里の入院よ! ……だってついこの間退院したばっかりじゃない。発作が起きたんでもないのに……なんでまた入院しないといけないわけ?」
「ああ……そうだね……」
海里は明るく笑いながら、最近どこに行くにも持ち歩いている、元は私の物だったスケッチブックを膝の上でパラパラとめくった。
そうしながら私のほうは見もしないで言葉を続ける。
「でも……まあ、いいんじゃない? ……詳しく検査してもらって、しばらくのんびりしたら、またすぐに退院できるってことなんだからさ……」
「だって……それって……!」
煮え切らない態度にイライラして、思わず言ってしまいそうになってから、私は慌てて言葉をのみこんだ。
海里のほうへ向いていた体をもう一度画布のほうに向け直し、少し声を小さくして、口の中だけで呟く。
「おかしいわよ……」
(それじゃまるで……海里の具合が良くないみたいじゃない!)
その先の言葉は、更に自分の心の中だけに止めておいた。
そんなことはあって欲しくないと、私が思えば思うほど、状況は悪くなっていくばかりのようで、思わず涙が込み上げてくる。
でもそんな心境の私を救ってくれたのは、他ならぬ海里だった。
「学校休んでも誰からも咎められないし。こっそり美術室に忍びこまなくても、どうどうと病室で絵は描けるし。しかも三食昼寝つき。やっぱこれ以上の待遇はないよ……幸いまたすぐ出れるってことだから……ちょっと満喫してくる」
私を安心させようとわざと茶化していることが見え見えで、なおさら泣きそうになった。
「海里のバカ!」
なんでこんな時にまで、私の気持ちを明るくするほうを優先するんだろう。
もっと我が儘になればいいのに。
自分のことだけを考えていればいいのに。
海里は優しすぎる。
私にとっては残酷なほどに優しすぎる。
(あんたはもう、自分の大好きな人のことだけ考えてればいいじゃない……!)
そうされたらそうされたでイライラしてしまう自分を棚に上げて、そんなことを考えた瞬間、ついつい口をついて本音が漏れてしまった。
「だって……いいの? 入院しちゃったら、学校サボって毎日通ってる所にだって、行けなくなるんじゃないの?」
それは海里にとって最優先事項であるはず。
だから私の出る幕じゃないことは百も承知でも、彼の本心を思って、そう確認せずにはいられない。
「うん。まあ、それはそうだね……」
困ったようにため息をつく海里の顔を見た瞬間、私は自分でも思いがけず、名乗りをあげていた。
「私でよければ……代わりに行くけど?」
「へっ? ど、どこに……?」
海里があまりにも呆気に取られた顔で、間抜けにそう返事したものだから、私は一気に我に返った。
なんとか海里の力になりたいと――その一心から口にしてしまった自分の提案のあまりの非常識さに、自分で真っ赤になる。
(何言ってんの私! 私が海里の彼女に会いに行ってどうするの……!)
そんなこと、彼女の立場からも私の心境からも、とうてい出来るはずがない。
有り得ないことを口走ってしまった照れ隠しに、手元にあった絵筆を拭くためのタオルを思いっきり海里に向かって投げつける。
「うわっつ!」
ダメだ。
恥ずかしくてたまらない。
「もういいっ!」
八つ当たり気味にギュッとこぶしを握り込んで叫んだら、海里が思いがけず
「ゴメン」
と頭を下げた。
それからそのまま真っ直ぐに私に顔を向け、これ以上ないほど真剣な顔で私にお礼を言う。
「ありがとう。でもこれだけは……代わってやってもらうことはできないんだ……どうしたって、俺が行きたいんだ……!」
そんなに真剣な目で、真面目に訴えられなくたってわかってる。
私にだってわかってる。
海里がその人のことをどんなに好きなのか。
本当はどんなに他の誰にも譲りたくないって思っているのか。
海里自身のことを、同じようにそんなふうに思っている私には、苦しいくらいに良くわかっていた。
「あっそ。だったらさっさと退院してきなさいよ!」
鼓舞する気持ちで放った、聞きようによってはひどい言い方の言葉を、海里はやっぱり取り違えたりはしなかった。
見惚れるほどに鮮やかに笑って、もう一度私にお礼を言った。
「うん。ありがとう」
真っ直ぐな視線が胸に痛くて、本当はいつまでも見つめていたかったのに、逃げるように視線をそらすことしか、私にはできなかった。